03復刻&解説「紀州 民話の旅」
有田稲村の米吉というこどもが、命を助けてやった鯨の背に乗ってアメリカヘ渡り、そこの森の神さまから巨木をもらって帰った。「以前、お米をもらったお礼です」。少年はそういって、巨木を金持ちの家へ贈った。
おおな魚。春、菜の花の咲く頃から釣れはじめ、5月末までがシーズン。和名イシナギ。本州南岸では和深沖の「おおな地」だけで釣れるという。
明治の初年、すさみ町里野の東海岸にある大きな洞窟に、三人の親子が住んでいた。父親は伝次、母親はたま、男の子はたまの連れ子で権八といい、毎日、門づけに歩いた。
久木に、わが国で初めて天然痘の予防ワクチンを開発した、小山肆成の生家跡がある。
神宮寺から寺山、安居地区にかけた水田地帯に、いまも古い水路が流れている。「安居(あご)用水」とも呼ばれるそれは、安居の庄屋、鈴木七右衛門重秋の手づくりの暗渠という。
日置安宅(あたぎ)の水軍は、戦国から江戸時代にかけ、熊野全域に強い勢力を誇った。
いまから数百年の昔。大阪淀屋の千石船が江戸へ向かっていた。ところが紀伊半島を回るころ、急に空模様が変わり、高波が出て、船は木の葉のように揺れた。
紀州藩主に佛の道を説いた富山第二世良遂宗真和尚は、海蔵寺第四世住職を経て、上富田の興禅寺に隠住したが、田舎の不便な暮らしを案じた藩から「興禅寺号」という馬を贈られたという。
その名の通り、豊かな水田がひろがる上富田の里。だが、かつてこのあたりは、富田川のはんらんで多くの沼ができ、芦が生い茂って、たくさんの鶴が飛来したという。
江戸時代、朝来村の農民は、厳しい年貢の取り立てに苦しめられていた。その上、その年の稲の出来具合いを調べる「毛見」(けみ)の回数が多く、そのたびに村人たちは、役人に白い飯を炊いてもてなした。
日置川町との境界にある将軍山(標高748メートル)には、日下義龍一族の屋敷跡が残っている。戦いに破れた義龍が、家臣と共にかくれ住んだという。
(「紀州 民話の旅」番外編) 現在は合併により田辺市の一部となった「大塔村(おおとうむら 平成7年(2005)に田辺市・中辺路町・日高郡龍神村・東牟婁郡本宮町と合併して新・田辺市となった)」は、昭和31年(1956)に当時の三川村・富里村の一部・鮎川村…
熊野(ゆや)川をさかのぼると「蛇の川原」という、気味の悪い沢がある。
鎌倉時代、岩神峠に狂暴な山賊が出た。この辺りは、熊野権現に通じる参詣路。参拝の旅人も絶えてしまった。このため京都の六波羅探題は、「山賊を退治した者には恩賞を取らせよ」と、ふれを出した。
継桜王子の境内に立つ十本の老杉。いずれも南へと枝をのばし、北側には枝がない。高さ約10メートル。中には、幹回り8メートルの大木も。
藤原秀衡が、赤ん坊を「滝尻王子社」裏の岩屋に預けたあと、その子の成長を願って突き刺した杖が根づいたという老桜が、野中の古道のわきにある。
国道311号線を近露に入ると、間もなく道の北側に小さな丘陵が見えてくる。その明るい共同墓地の地続きに、野長瀬一族の墓がある。南朝を守った強者たちをまつるその墓には、五輪塔が54基と、宝篋印塔が6基。県文化財。
昔、十丈峠に、カが強く、とんちにたけた悪四郎という男がいた。
かつて、きらびやかな王朝貴族が行きかい、おびただしい庶民が「蟻の熊野詣で」の形容そのままに、ただひたすら熊野へと歩を急がせた「熊野古道」。いまや、そのおもかげをとどめるコースは少なくなったが、石船川が富田川に合流するあたりに、小さな社があ…
清姫の墓の近くから北ヘ、西谷川にそって2キロほど行くと福巖寺がある。境内のお地蔵さんは、文政6年(1823)、83歳で亡くなった第六世住職、鉄凌道機和尚をまつったものといい、土地の人は「一願地蔵」とか「からし地蔵」と呼ぶ。
平安の頃、真砂(まなご)の里に美しい娘がいた。名は「清」という。山路に咲く百合のように、その姿は清らかで、村の男たちのあこがれの的だった。縁談は降るようにあったが、清には、心ひそかに想いを寄せる若者がいた。毎年、熊野詣での途中、清の館に立…
瀬戸浦にある小さな神社は、海の神さま。かつて田辺の沖を通る船は、海に供物を投げた。瀬戸浦の船主は、祭礼になるとノボリを立て、にぎやかに参拝したという。
右会津川をさかのぼると、岩と水のコントラストがすばらしい奇絶峡(きぜっきょう)に着く。その一角に、石の扉をぴったりと閉ざした岩穴がある。「からと岩」という。むかし、金の鶏を入れて石の戸を閉め、上に呪文を刻んで出られないようにしたものだとか…
昔、稲成の里に、獺田(おそだ)というカの強い若者がいて、阿波の力自慢の相撲取りからカくらべを申し込まれた。そこで獺田は、そばの太い孟宗竹を二本引き抜き、二本の指で押しつぶして褌(ふんどし)をつくり、一本を相手に渡した。
「お弘法さん」と、土地の人たちに親しまれている高山寺は、紀南地方きっての名刹。真言宗御室派の寺院で、聖徳太子の創建といい、太子堂には太子自作の像が、また御影堂には、弘法大師が糸田川の渕に自からの影を写して刻んだと伝えられる像が安置されてい…
昔、田辺の浦に、笛がたいそう巧みな若者がいた。ある日、立戸の浜で笛を吹いていると、美しい娘が現われ、流麗な音色に聞きほれた。
田辺の商店街にある「蟻通神社」には、とても頭のよい神さまがまつられているという。
国鉄紀勢線紀伊田辺駅に降り立つと、まず大きな像が目に飛び込んでくる。頭布をかぶり、大なぎなたを手にした。いかつい弁慶。
国鉄紀伊田辺駅前の商店街の近くに、大きな鳥居の社がある。熊野三山のひとつである本宮大社の分神で、保安(1120年代)のころ、本宮を治めた別当湛快が、新熊野権現(いまくまのごんげん)としてまつったといい、人はこの社を闘鶏神社と呼ぶ。
ギックリ腰に悩む人や、お年寄りに人気があるという、風変わりな神さまがいる。崎の原の「腰神さん」だ。