生石高原の麓から

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白鳥の関 ~和歌山市湯屋谷~

 わが背子が 跡ふみもとめ追ひゆかば 紀の関守は い留めなむかも

 岩出町との境界あたり。雄の山峠に向かって爪先上りになる舗装路のわきに、木の標識板がポツンと立っていた。神亀元年(724)10月、聖武天皇の玉津島行幸の供に旅立った夫を追う妻の、情熟を詠んだこの歌は笠金村の作。万葉集巻四。そして、この歌を彫り込んだ標識板のある一帯が、かつての「白鳥(しらとり)の関」の跡とか。

 

  小栗判官が、照手姫の引く土車に乗って熊野へ向かったという小栗街道。古くは、この「紀の関」のすぐ南に、熊野九十九王子のひとつ「山ロ王子社」もあったという。その「紀の関」が、いつのころから「白鳥の関」と呼ばれるようになったのだろうか。

 人里離れた関跡には、白鳥女房のいい伝えが残る。わが国最大の古説話集「今昔物語」(平安後期)にも収められているお話とは~

 いまは昔。このあたりに、気はめっぽういいのだが、とてもぐうたらな男がいた。日がな一日、家のまわりや、近くの野山をぶらつくのを日課としていたその男、ある日のこと草むらに一羽の白鳥をみつけた。よくみると羽を矢で射抜かれている。
 可愛そうに思った男は、その矢を抜いて傷口をふさいでやると、静かに白鳥を放してやった。
 それからしばらくたった日の夕方、一人の娘が男の家を訪れた。
 「道に迷ってしまいました。一夜の宿を貸して下さい」という。
 むさ苦しいヤモメ暮らしの身に比ベ、その娘は、余りにも清そで、美しかった。だが、朝になっても娘は立ち去らない。やがて娘はその男の嫁になった。そのうち男は、狩りをしたいといいだした。だが貧しい暮らしの身には、弓矢をそろえるゆとりはない。
 ある夜のこと、男は女房の夢をみた。眼をさましてみると、そばにいるはずの女房の姿が見えない。ただ、立派な弓と矢が残されているだけだった。

 ここまでは、よくある動物の恩返し物語。だがこれには、まだあとがある。ほかでもない。わがままな人間に対する白鳥の、悲しい抗議の行動なのだ。

 やがて狩りにもあきた男は、その大切な弓矢を捨てた。と、いつの間にか、そこに一羽の白鳥が…。いぶかしげに後を追う男。やっとの思いで白鳥をつかまえると、それは姿を消した恋女房に変わっていた。
 しかしそれも束の間。女房は再び白鳥に戻ると、雄の山めざして飛び立ってしまった。関の、がん丈な柵に手をかけて、白烏の消えたあたりの山を仰ぐ男の眼に、はじめて悔恨の涙があふれた~と。

 その白烏が姿を消した雄の山に、いま高速道路のトンネルが通る。山の斜面には、巨大な高架の橋ゲタが立ちはだかり、そのそばを快速電車が、ごう音をあげて通り過ぎる。 判官と照手姫が、苦しい旅を続けた道も、いまはカラフルな乗用車が主役となった。それでも、田んぼのすぐそばまで、竹ヤブや雑木の山が迫る。

 男が、その白鳥をみつけたのは、きっとそんな荒地の一角だったのだろう。
 そういえぱ、関跡のすぐ南に、あの小野小町終えんの地という小野寺の跡もある。いま、藤井安一さんの家が建つ。

 家のすぐ裏手の墓地の片すみに「元禄8年(1695)建立」と彫った「小町堂」のみかげ石の小さな標柱、それにかくれるようにして、卵形した石碑があった。表に「迎空了雲沙弥」。高さ60センチばかりのその碑が、小町の墓碑だという。

 その一群の墓碑を見やりながら、おばあさんが説明してくれた。
 「こらもう、昔の偉いさんばっかりで。ああそらもう、ぎょうさん見に来まっせえ」
 白鳥と、きらびやかな行幸の列と、照手姫とそして小町と。車と電車が通り過ぎたあと、ただ静寂だけが残る山里には、いまもそうした多くの物語の舞台にふさわしい落ち着きと、わびしさがただよう。幕れるに早い山すそには、日のかげりとともに、早くも冷気が迫っていた。

 

(メモ:関跡は、県道布施屋貝塚線の池の川バス停の北約1キロ。バス停のすぐ南には、江戸時代の風情を残す山口の里や、小町晩年の木像を安置した遍照寺がある。またすぐ東側には、やはり小町伝説が残る「住持が池」と「根来寺」も。国鉄阪和線紀伊駅から歩いて30分。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年) 

    • 雄の山峠は、紀伊国和泉国の境界となる峠。この峠を通る道は、時代によって「南海道」「熊野街道」「紀州街道」などと呼ばれた。現在は県道和歌山貝塚線になっている。
    • 現在、山口王子跡には本文中の万葉歌を彫り込んだ石碑とともに熊野古道の案内板が建立されている。
    • 小栗判官と照手姫の物語とは、妻・照手姫の一門に殺された小栗判官が地獄の閻魔大王の裁きによって餓鬼阿弥の姿で蘇り、箱車に乗せられて多くの人の力によって熊野へと運ばれるというもの。旅の途中で照手姫と再会し、湯の峰温泉での湯治により再生した判官が、やがて京にのぼって復讐を果たす、というダイナミックなストーリーは、「山椒大夫」「俊徳丸(しんとく丸)」らとともに中世から近世にかけて市井で大流行した語り物芸能「説経節」の代表作品の一つとして広く知られており、現代では「オグリ」としてスーパー歌舞伎宝塚歌劇団の演目にもなった。
    • 小野小町(おの の こまち)平安時代前期9世紀頃の女流歌人。絶世の美女として語り継がれ、俗にクレオパトラ楊貴妃と共に「世界三大美女」の一人とされる。小町堂跡は、山口王子から100mほど南の畑の中にある。江戸時代に発行された「紀伊国名所図会」によると、晩年、年老いた小野小町が熊野参詣からの帰途この地で生涯を終えたため、不憫に思った村人たちがその地に「小町堂」と呼ばれる庵を建て小町の像を安置し、その菩提を弔ったとのこと。小町堂は後に白鳥山小野寺という寺院となり多くの女性が参拝に訪れたと伝えられるが、明治時代に廃寺となった。

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小町堂跡
  • 遍照寺和歌山市里)には、この地で落命した小野小町の年老いた姿を写したとされる木像が伝えられている。資料によれば、これは高さ50cmほどの木像で、あばらの浮き出た胸をはだけ、左膝を立てて座っており、小町の晩年の哀れさを際立たせるものとなっているとのこと。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。