生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

太田城物語 ~和歌山市北太田~

  来迎寺の境内は、すぐそばの通りの騒音が、まるでウソのような静けさだった。その広くもない境内に、高さ3メートル、幅1.2メートルほどの大きな碑があった。表に「太田城趾碑」。

 
 このあたり一帯が、天正13年(1585)の秀吉による水攻めで落ちた太田城の本丸跡といい、隣りの墓地のほぼ中ほど、サザンカの下の小さな墓石が、城主・太田左近の妻、をまつる。そして、ここからほど近いところにある「小山塚」は、自刃した左近らの首を埋めたところと伝えられ、いまも花を手向ける人が絶えない。


 太田城の落城は、戦国悲話のひとつの典型であり、いまも人々は、余りにも苛酷だった戦闘の模様を、きのうの自分のことのように、語り伝えて行く。

 

(メモ:来迎寺へは国鉄和歌山駅前の国体道路田中町交差点を東へ約600メートル。近くには太田城の大門跡という大門橋があり、その大門は現在、市内橋向丁の大立寺の山門として使われている。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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小山塚
  • 太田城は、戦国時代の末期において、雑賀衆を構成する有力集団のひとつである「太田党」の本拠であった。雑賀衆の他の有力集団としては「鈴木氏」「土橋氏」があるが、この時点では太田党が雑賀衆を率いており、鈴木氏の頭領である鈴木孫一雑賀孫一は秀吉方についていたとされる。

 

  • 当時の雑賀衆は、「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組五搦などという)の地侍達で構成されており、海運や貿易により築かれた財力と、多数の鉄砲を保有する高い軍事力により、「惣国」と呼ばれる自治共同体を形成していた。豊臣秀吉は、この体制を存続させることが諸国統一の妨げになると考え、天正13年(1585年)、「紀州征伐(天正5年の織田信長による紀州征伐と区別するため「第二次紀州征伐」と呼ばれる)」に乗り出した。
  • 秀吉方は総勢10万の大軍勢であったが、わずか5,000余の兵力しか無い太田城をなかなか攻め落とすことができなかったため、「水攻め」に切り替えてようやく陥落させることに成功した。これは、備中高松城武州忍城と並び、秀吉の「三大水攻め」としてよく知られている。この戦いで、秀吉軍は高さ約4~6m、総延長約7kmにも及ぶ壮大な堤防を築造したと言われており、その一部は現在の「きのくに信用金庫 出水支店和歌山市出水)」の隣接地に残されている。
    太田城水攻め堤跡 | 和歌山市の文化財

 

  • 根来焼討太田責細記」によれば、太田城水攻めの際、水に囲まれた城からひとりで船を漕ぎ出して秀吉の大軍に攻め入り、朱柄の槍を手に縦横無尽に暴れ回った尼法師がいたと伝えられている。この女性の名は「朝比奈摩仙名(あさひな ませんな)」といい、奮闘の末に秀吉軍に捕らえられたものの、その戦いぶりのあまりの見事さに感心した秀吉に許されてそのまま太田城に戻ったとされる。
  • 根来焼討太田責細記」は、太田党の子孫が江戸時代前期~中期に記したとみられる記録で、太田城水攻めの状況が詳しく描かれている。現在確認できるものは明治時代に作られた写本であるが、この中で、朝比奈摩仙名について次のような記述がある。なお、本項目については、pixivに掲載されたB.L氏の以下の記事を参考にした。
    #雑賀衆 #太田城 根来焼討太田責細記 - B.Lの小説 - pixiv

時に四月二日の朝
佐藤隠岐守田中久兵衛 中村孫平船を浮かせて
弓鉄砲をもって 咄(とつ)と 押し寄せければ
城中より一船に乗りて 舳先に城中の刀女
朝比奈摩仙名と言う尼法師
朱柄の鎗をもって近付き
佐藤の勢と戦い 無三に突倒し
その身は手傷もらわず なおも進みて戦いしに
田中久兵衛 これを見ておおいに怒り
大身の鎗をひっさげて船を近付ければ
摩仙名 おっと叫びて田中の船に乗り移れば
久平衛 得たりと あい戦いしに
田中久太郎 摩仙名の手をとらえ 鎗引ったくれば
久兵衛 鎗を捨て ついにこれを生け捕りたり
太閤豊臣秀吉)お目見えありて
これを許し(帰されたり)

※筆者注:B.L氏の記述を参考に、適宜空白や改行を加えるととももに漢字、かなづかいを現代のものにあらため、また判り難いと思われる表現については表記を判りやすく変更している。

 

  • 小山塚」は、約一か月に及ぶ水攻めの末に太田城が落城した際、他の籠城者の命乞いと引き換えに自刃した太田左近ら53名の首が埋められた場所に建立されたもの(碑は昭和27年に建立されたものであるが、区画整理のためもとの場所からは移転されている)。通常は城主一人の首を取ればよいところに、53名もの処刑を行った背景には諸説あり、一説には初期の戦いで太田勢に討ち取られた秀吉軍の死者の数に合わせたとも言われるが、もう一つの見方として、太田城には実際に53人の指導者がいたという説もある。つまり、「太田党」は53人のいわば「単位自治会長」からなる合議体で、「城主」たる太田左近は合議によって選ばれた「連合自治会長」であり、絶対権力者ではなかった、とする説である。
  • 太田城をはじめとする雑賀衆の「自治」体制について、「特定非営利活動法人・まち」が作成したパンフレット「孫一と雑賀鉄砲衆ガイドブック」では次のような解説を行っている。
     雑賀は、100年近くも支配者のいない自由な「くに」でした。もちろん上下の関係もなく、民衆に選ばれた「年寄り衆」といわれた人々によって運営されていました。いまでいう自治会の集まりのような感じです。
     ところが、織田信長のめざした「天下布武」は、武力を背景にしたピラミッド型の社会で、雑賀衆の社会とは相反する社会でした。織田信長に屈するということは自由で平等な雑賀の終わりを意味していたのです。そこで、様々な状況を超えて雑賀衆は立ち上がっていったのです。
     また、雑賀衆の存在は、信長が早くからすすめてきた兵農分離」による専業の武士団を真っ向から否定する存在でした。信長の精鋭部隊は雑賀衆の放つ銃弾に次々と倒れていったのです。それは、戦争の形を変えただけでなく、血統や家柄に支えられ様々な武芸に鍛錬してきた武士の価値を否定するものでした。つまり、価値観の一大転換でした。
     しかし、そうした雑賀衆信長の後の秀吉によって終焉を迎えていったのです。それは、歴史が中世から近世に変わる大きなターニングポイントといえます。
     「孫一ら雑賀衆」は、織田信長の最強の敵として、鉄砲を手に動乱の時代を果敢に生き抜いた「戦国のヒーロー」です。

    和歌山市観光協会 公式HP
    ※上記サイト内に資料へのバナー掲載あり

 

  • 太田城が陥落した直後、秀吉は籠城していた兵に対して下記のように3か条からなる朱印状を出している。このうち、第三条では「在々百姓ら、自今以後、弓箭・槍・鉄砲・腰刀等停止せしめ訖(おわん)ぬ・・・」とあり、百姓(大田城兵は当然ながら通常は農民である)は、これ以後、弓、槍、鉄砲、刀等の武器を持つことを禁ずることとした。というもので、続けて「(すき)・鍬(くわ)等農具を嗜(たしな)み、耕作を専らにすべき」と書いて、農民は農業に専念せよと命じている。この通達は秀吉の「刀狩令天正16年(1588))」よりも3年早く、これをモデルとして刀狩令が作成されたと考えられていることから、これを「刀狩令」と呼ぶこともある
    藤木久志「刀狩り 武器を封印した民衆(岩波新書 2005)」

一、今度、泉州表に至り出馬、千石堀其の外の諸城同時ニ責め崩し、悉く首を刎ね、則ち根来・雑賀に至り押し寄する処、一剋も相踏まず、北散る段、是非無く候。然らば、両国土民百姓に至らば、今旅、悉く首を刎ねべきと思し食し候へ共、寛宥の義を以て、地百姓の儀は免じ置くに依って、其の在々に至り、先々の如く立ち帰り候事

 

一、大田村の事、今度忠節を抽んずべき旨申し上げ、其の詮無く、剰え遠里近郷の徒者集め置き、住還の妨を成し、戓いは荷物を奪取り、戓いは人足等殺し候事、言語道断の次第に候条、後代の懲として、太刀・刀ニ及ばず、男女翼類ニいたるまで、一人も残らず、水責め候て殺すべしと思し食し、提を築き、既に一両日の内に存命相果つるに依って、在々悪逆東梁の奴原撰び出し、首を切り、相残る平百姓其の外妻子己下助命すべき旨、歎き候に付いて、秀吉あわれミをなし、免じ置き候事

 

一、在々百姓等、自今以後、弓箭・鑓・鉄炮・腰刀等停止せしめ訖。然る上は、鋤・鍬等農具を嗜み、耕作を専らにすべき者也。仍って件の如し

 

天正十三年卯月廿二日
                — 秀吉朱印状

太田城 (紀伊国) - Wikipedia

 

 

  • JR和歌山駅東口近くには、太田城史跡顕彰保存会により太田左近の石像が建立されている。また、同会では先述の朝比奈摩仙名とともに「自由の戦士 さこんくん」「愛の戦士 ませんなちゃん」というキャラクターも作成している。

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さこんくん ませんなちゃん

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。