生石高原の麓から

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淡嶋さん ~和歌山市加太~

 春。加太の海辺は、静かだった。やがて潮干狩り、海水浴と、日増しに娠うであろう波打ち際には、気の早いこどもたちが、そこここに見えるだけ。打ち寄せる波も小さい海は、まだ半分眠りの中にあった。

 

 集落を出外れ、岬に向かう防波堤の一角から、赤鋳びたレールが数本、海に伸びていた。長さは10メートルはあるだろうか。波に洗われるあたりは、もう海藻がまとわりついている。

 「ここへ板を渡して、おヒナさんを流すんです
 淡嶋神社宮司前田如穂(まえだ ゆきほ)さんの話は、テンポが早い。神社の創建からはじまってヒナ流し、ガマの話。はては本殿前の神木から、おびただしく奉納された男女のシンボル、そして宝物に至るまで、まさにとめどがない。

 少彦名命(すくなひこなのみこと)大巳貴命(おおなむちのみこと=大国主命息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后をまつる淡嶋神社は、古くは「淡嶋」と呼ばれた友ヶ島神島にあった。

 もともと少彦名命は、大巳貴命に協力して日本の国を造り固めた神さま。人々に農業を教え、酒造りや裁縫の技術をもひろめたし、あちこちで温泉を開き、病いに苦しむ人々を助けた。淡嶋神社の祭神第一号。

 

 それから、ずい分と時を経て、この島へ流れついたのが神功皇后三韓出兵からの帰り、大嵐にあって船が流されたのだが、そのとき皇后は身ごもっていた。そこで病いに霊験あらたかという少彦名命に析って、無事出産したのが応神天皇

 それからまた何年かして、この地を訪れたのが応神の子の仁徳天皇。社殿をいまの地に移すとともに、おばあさんの神功皇后をも合祀して三祭神としたという。
 いまから1600年以上も昔、仁徳5年(317)の3月3日だったとか。

 さて、淡嶋神社といえばヒナ流し。山口誓子も、「女の雛の うつむき給ひ 波の間に」と詠んだほど、それはまた優雅な、いかにも日本らしい風情。

 そのヒナ流しは、遷座の日とされる3月3日。
 紀州路に、本格的な春の到来を告げるこの行事は、また日本人の生活感覚から生まれたものだった。

 

 「昔、日本には一種の人形(ひとがた)信仰があり、ヒナ遊びいうのがありました。人は、自分の身の汚れを人形に託して、川や海へ流したのですが、それが子供の無事成長を願うヒナ始めの行事と、いつの問にか一緒になったわけです。いま、粉河とか五条奈良県なんかでも、ヒナ流しはありますが、どこのヒナ流しもみな、淡嶋さんへ来られない人たちが、代参ではじめたものなんです。そうしたあちこちのヒナが、ここへ流れ着く。そうすると病気が治るわけです

 前田さんが説明してくれた。 そういえば、もうとっくにヒナ流しがすんだというのに、境内のあちこちに、ヒナ人形が無雑作に積み上げられていた。
 おヒナさまばかりではなかった。青い眼のお人形や、胸を張って空をにらむナポレオン。はては焼き物の七福神や招き猫まで。 

 そんな一角に、ガマがずらりと顔を並べていた。大きいのや小さいのまで、いろいろ。本殿横の「神功皇后おはぐろ石」の上、蛭子(えびす)さんの祠の前。
 商いをする人たちが、淡嶋さんでガマをもらい、「お蔭」を頂くと、代わりのガマを供えるからだという。

 それにしても、淡嶋さんには話が多い。
 本殿前の大きな枯木は、神功皇后が植えた二本のビャクダンのうちの一本だとか。戦国時代に枯れてしまったが、いまも直径1メートル、高さ7メートルばかりの大木が突っ立つ。しかも、その香りは、いまなおすばらしい。本殿の柱には、もう一本のビャクダンを使っているという。

 ここには絵馬堂が三つある。その前に、おびただしい絵馬が、それに混って、千羽鶴や人形、袋に入れた婦人の下着も。そして最も奥まった絵馬堂の中には、大小の男女のシンボルが、うず高く積み上げられている。子宝に恵まれない夫婦や、夫の浮気封じを念じる妻たちが奉納したものだという。

 

(メモ:南海電鉄加太線の終点、加太駅から約2キロ。国道26号線から西脇梅原線または粉河加太線で約10キロ。婦人の病気や安産の神社として信仰が厚い。ヒナ祭りのほか初午、針供養(2月8日)、秋の甘酒祭り(10月3日)などが有名。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)



 

 

  • 古事記」によれば、淡島神社主祭神である少彦名命は、カガミグサの実を2つに割って作られた小さな舟に乗り、蛾の皮の着物を着て波の彼方より来訪した小さな神で、神産巣日神(かみむすびのかみ)の命によって大国主命と兄弟の契りを結んで国造りを行った後、「常世の国」に渡ったとされる。(日本書紀では、熊野の岬から常世郷に渡ったとも、粟嶋鳥取県米子市)に行き粟の茎に弾かれて常世郷に渡ったとも記述されている。)
  • 少彦名命は親指の先ほどの小さな神であったとされ、「一寸法師」のモデルといわれるほか、雛人形少彦名命の姿を模したものであり「スクナヒコナ祭り」が転じて「ヒナ祭り」と言われるようになったとも伝えられる。

 

  • 古事記」には、伊弉諾神(いざなぎのみこと)伊弉冉(いざなみのみこと)が国産みを行った際に、両神の2番目の子として「淡島」が誕生したとの記述がある。しかしながら、淡島は第一子の「蛭子(ひるこ)」とともに「わが生める子良くあらず」との理由で葦の舟に乗せて流されたため、子の数には数えないとされる。この「淡島」と淡島神社主祭神である少彦名命との関係は不明であるが、蛭子が漂着神信仰と結びついて恵比寿神になったことを考えると、淡島神もやはり漂着神という形で信仰が生まれ、いずれかの時点で少彦名命と同一視されるようになったのではないかと考えられる。
  • 蛭子ヒルコ)-恵比寿(エビス)信仰漂着神については、別項「鯨えびす」の後段で詳述しているので、こちらも参照されたい。
    鯨えびす ~太地町太地~ - 生石高原の麓から

 

  • 江戸時代になって、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、その御神徳を説いて廻る「淡島願人(あわしまがんにん)」と呼ばれる人々が現れた。淡島願人は、淡島明神を大阪の住吉明神の妃神と位置づけて女性の病を治し安産に霊験あらたかと説き、祈願のためのお札を売って歩いた。これは社伝とは異なるが、淡島信仰を全国に広げるためにおおいに役立った。また、この信仰の広がりが、淡島神社に直接参拝できない女性が病の治癒を願って淡島様へ雛を流すという「流し雛」の風習に繋がったとも言われる。

 

  • あくまでも伝承に過ぎないが、奉納された人形の中には「自然に髪が伸びる」という人形があると言われる。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。