生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

名号と秤石 ~和歌山市大垣内~

   大垣内の光恩寺は、浄土宗名僧の一人とされる信誉の開山。天正15年(1587)4月のことといい、いまも信誉直筆の「南無阿弥陀仏」の名号が残る。タテ1.9メートル、ヨコ55センチ。

 

 当時は神仏混淆の時代。信誉も近くの小倉神社を管理したが、氏子たちは「神さまに南無阿弥柁仏では、ちっとも有難くない」という。そこで信誉、その名号と、直径1メートルもある大石を秤(はかり)にかけたところ、一枚の紙にしかすぎない名号の方が、ずんと重かった……と。いわゆる、仏の道の尊さを説く話の類で、「鳴かない蛙」などとともに「小倉の七不思議」として伝えられる。

 

 江川貫裕・住職によると、信誉は三河松平の出身。芝の増上寺で修業を積んで光恩寺を創建、徳川頼宣に漢文を講議した名僧知識であったという。

 

(メモ:光恩寺は、布施屋駅から県道小倉線を東へ約1.5キロ。庫裡は和歌山城の米倉を移したもので、やはり城から移した。アヒルの絵を描いた二枚の大きな戸板もある。金谷の小倉神社へは、ここから南へ1.2キロ。秤に乗せたという石がある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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紀伊国名所図会 二編六之巻下 光恩寺
国立国会図書館デジタルコレクション)
  • この物語は、「和歌山市の民話(資料集・下)和歌山市 1984)」に「光恩寺の七不思議(7)秤り石」という題名で下記のように収載されている。

光恩寺の七不思議(7)秤り石
 下小倉神社(金谷に鎮座)の境内 にある石のことなんじゃがな。なんでも三~四百貫はあるやろか。
 むかし、このお宮の境内に観音堂が建立されたそうな。その折の落慶法要に信誉上人さんも招かれたんじゃが、法要が始まって「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえはじめたんやな。お詣りしていた氏子たちが驚ろいて「神社で念仏とはもっての外」というわけで、「折角の御利益(ごりやく)も消えてしまう」と騒ぎだしたんやと。
 その時、群衆の中にいた五智房融源 根来寺の開山上人の伯父さん- という方がおられてな、信誉上人に六字の名号を書いてもらい、境内にあるその大石を指さして
この石と、名号を書いた一片の紙の重さを秤りくらべて、どちらが重いか試してみよ
と云われたそうな。ことの意外な成り行きにとまどいながらも、氏子たちは大石と名号を秤りにかけてみたそうな。
 ことが運ばれる間、融源は念仏を唱えつづけていたんや。
 ところがどうや、名号が大石を軽々と持ちあげたんや。「そんなあほなこと・・・」いうて何度やってみても同じことやして。
 氏子をはじめ、居並んだ群衆は絶句して、つくづくと念仏の功徳を知らされたそうな。
 この秤り石は、いまも金谷の在所のはずれの山手の小高い丘の下小倉神社の鳥居の向って右の方に残されており、六字の名号の方は光恩寺の宝物になっているわ。
[話者=山野井武之助(上三毛)・野国(金谷)・江川貫裕(大垣内) 記録=河野

  • メモ欄にある「小倉神社和歌山市金谷)」は、旧小倉之庄(金谷村、吐前村、大垣内村、満屋村、田中村)産土神(うぶすながみ その地域全体の守り神)和歌山県神社庁のWebサイトにある同社の項には、「秤石」について次のように記述されている。上記の「和歌山市の民話」では最初に念仏を唱えたのは信誉上人であるとするが、ここでは五智房融源が念仏を唱え始めたとしている。

 昔境内に観音堂が建立された際の法要に根来より五智房融源を招き供養したところ「南無阿弥陀仏」の6字のみ念仏をとなえたので参集した民衆が驚いて折角の供養も何の御利益もないではないかと騒ぎだしたので信誉上人に6字の名号を書いてもらい境内にある大石(1,000㎏)を指してこの石と一片の6字名号と秤くらべ6字の方が重かった。
 今も境内でその石を秤石として崇拝されている。

和歌山県神社庁-小倉神社 おぐらじんじゃ-

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「金谷村(那賀郡 小倉荘)」の項には「蔵王権現(小倉神社の旧社名)」の記述があり、「秤石」について次のように記載されている。ここでは、本文の故事は五智坊にかかわるものであり、信誉上人が関わったという説は誤りではないかと述べている。下記で述べるように、五智坊は平安~鎌倉時代の人物であり、信誉上人は戦国~江戸時代の人物であることから、上記引用文のように五智坊と信誉上人が同時に関わったということは考え難いと言えよう。

鳥居の傍に秤石という石あり
古堂社供養のとき 
尼ヵ辻村(筆者注:現在の岩出市尼ヶ辻)
の五智坊を頼みて供養せしに

五智坊 唯六字名号ばかり唱えける故
氏子等
六字名号ばかりは利益あるまじ

といいければ
名号を大なる石とかけくらべて見よ
といいけるに因りてかけて見しかば
名号の方重かりしより
今に秤石とて伝わるという
一説には
光恩寺の開山信譽供養の時此事ありしという
此説誤ならん

※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字及びかなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

  • 信誉(しんよ)とは、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した僧侶、楽蓮社信誉禿翁恵伝とも、1560~1635)を指す。三河松平家徳川家康につながる家系)の始祖直系である松平郷松平家の第7代当主親長の三男として生まれ、11歳のときに徳川家の菩提寺である大樹寺成誉のもとで出家し、川越(埼玉)蓮馨寺感誉に入門。続いて増上寺観智国師に師事し、十数年の修学の後、伊勢国山田原善導寺に住した。光恩寺を開創した後も諸国をめぐり、因幡国信楽寺安芸国箱島信行寺、禿翁寺など多数の寺院を開創。晩年は光恩寺へと帰り、76歳で遷化(逝去)した。
    慧伝 - 新纂浄土宗大辞典

 

  • 上記引用文に登場する五智房融源(ごちぼう ゆうげん)という人物について、同文中では「根来寺の開山上人(覚鑁上人興教大師)の伯父」としているが、デジタル版 日本人名大辞典+Plus講談社)には次のように記述されており、覚鑁(かくばん)上人の親族ではあると考えられているものの、伯父かどうかは定かでないようである。

融源 ゆうげん
1120-1218 平安後期-鎌倉時代の僧。
保安ほうあん)元年生まれ。真言宗肥前の人で,覚鑁(かくばん)の親族。高野山で出家。覚鑁にまなび,のち高野山大伝法院学頭となる。建保(けんぽ)5年12月15日死去。98歳。久安3年11月2日死去説もある。号は五智房。
融源とは - コトバンク

 

  • 光恩寺は天正19年(1591)に信誉により建立されたとする。寺名は、紀伊吐前(はんざき)城主であった津田監物算正(つだ けんもつ かずまさ)法号である「光恩居士」に由来する。

 

  • 津田監物算正は、種子島から火縄銃紀州根来に持ち帰り紀州と堺に最強の鉄砲集団を生み出した津田監物算長(さんちょう/かずなが)の子。社伝によれば光恩寺の開基は津田算正であるとされるが、算正は天正13年(1585)の秀吉による紀州征伐の際に討ち死にしており、光恩寺創建時には既に他界していたと考えられる。算正の子である重長(しげなが)は後に秀吉配下の増田長盛に仕えて津田流砲術自由斎流を後世に伝えていることから、重長が父の菩提を弔うために光恩寺を創建したとの仮説もなりたつ。

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紀伊国名所図会 二編六之巻下 津田堅物算長が鉄砲を伝える

国立国会図書館デジタルコレクション)

  • 徳川家康の三女・振姫(正清院)は、最初の夫である蒲生秀行が亡くなった後、慶長20年(1615)、当時の紀州藩主であった浅野長晟(あさの ながあきら)と再婚したが、元和3年(1617)に38歳で亡くなった。元和5年(1619)、福島正則の改易により浅野長晟が安芸広島城に移ったのちに紀州藩主となった徳川頼宣(家康の十男)は、姉にあたる振姫の菩提供養のため光恩寺に墓を建立しており、これ以後同寺は紀州徳川家の手厚い保護を受けた。
  • 明治8年(1875)、火災により光恩寺の庫裏・本堂・書院が全焼した。時あたかも明治新政府により全国で廃城が進められていた時期であり和歌山城も民間に払い下げられたが、この際に、本丸台所の払い下げを受けて明治13年(1880)、それぞれ光恩寺の本堂庫裡として移築した(二の丸御殿の一部は大阪城に移築され「紀州御殿」として使用されたが、第二次大戦後に接収した進駐軍の失火により焼失)。移築された本堂は明治14年(1881)の暴風雨により倒壊したため現在は庫裏のみが残っているが、これは現存する数少ない和歌山城の遺構であり、和歌山市指定文化財となっている。

 

 

  • 上記の「和歌山市の民話」に掲載されている「光恩寺の七不思議」は、本項の「秤り石」のほか、「境内の松」、「鳴かずの蛙」、「片目の蛇」、「作兵衛鬼面の墓」、「無限の鐘」、「夜泣き石」となっている。これについては、別項「光恩寺の七不思議」において詳述している。
    光恩寺の七不思議 - 生石高原の麓から

  

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。