生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

夜泣き石 ~和歌山市下三毛~

 これも「小倉七不思議」のひとつ。
 信誉光恩寺を建てたとき、すぐ西の大橋村の神社にあった石をひとつ持ってきた。ところがその夜から、神社に残されたもうひとつの石が、すすり泣きをはじめた。そして信誉の夢に現われた女が「わたしは光恩寺へ行った石の妻です。どうか一緒に置いて下さい」という。そこで信誉が、その石も寺へ持ってきたところ、泣き声は止んだとか。

  

  二つの石は、その後、下三毛の上小倉神社へ安置された。いま石は三つ。屏風石の向うにたたずむ男石女石だという。
 そういわれれば、小ぢんまりとした右側の石は男性を、ペったりした上部に、くぼみのある左側の石は女性を、それぞれ表わしているのだろう。


 そんなこともあってか、この石、子授けに霊験あらたかだとかで、別名「子授けの石」。そしてなぜか「けっちん岩」とも。 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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夜泣き石(上小倉神社境内)

 

  • 小倉七不思議」は、小倉村(現在の和歌山市の東端及び岩出市大字船戸・山崎にあたる)に伝わる七つの不思議な物語。国際日本文化研究センター日文研が運用する「怪異・妖怪伝承データベース」によれば、「各地の七不思議(下) 郷土趣味通巻18号(郷土趣味社 大正9年)」には「紀伊那賀郡小倉村七不思議」として「小倉の蛙」「流注の名灸」「墓額の鬼面」「秤石」「袂石」「一葉の松」「蔵王権現の霊告」の7つの物語が収載されている。
  • 夜泣き石」にまつわる物語は、上述の「小倉七不思議」のうち「袂石(たもといし)」に該当すると思われる。(前項でも述べたとおり、これとは別に「光恩寺の七不思議」というものもある。これについては、別項「光恩寺の七不思議 - 生石高原の麓から」」において詳述している。)

 

  • この物語は、「和歌山市の民話(資料集・下)和歌山市 1984)」に「光恩寺の七不思議(6)夜泣き石」という題名で下記のように収載されている。

光恩寺の七不思議(6)夜泣き石
 むかしな、上小倉神社(上三毛に鎮座)女夫(めおと)女石(めいし)にあたる石があってな、男石(おいし)にあたる石が光恩寺にあったといわれていたんや。
 そいでお宮さんにある女石が夜ともなると男石を恋いしとうて泣いたということじゃ。
 このことを耳にされた信誉上人は、それでは・・・と、男石の方を上小倉神社に移され、月下氷人といういきな計らいをなされたそうな。粋人でいらした一面が偲ばれて、なんとも愉快や。
 現在、上小倉神社の社殿の前の左手にこの女夫石が安置されており、女石にも男石にもしめなわが飾られてますんや。この一対の石の前に、ちょうど石を護るかのようにもう一個の細長くつくばった石がすえられ、それを屏風石というらしい。
 それにしても、この女夫石、どことなく男女を象徴しているような形で、見ていても楽しくなるわな。
[話者=野国(金谷)・山野井武之助(上三毛)・江川貫裕(大垣内) 記録=河野

  • また、現在「夜泣き石」が安置されている上小倉神社にある解説板では、次のような物語として紹介されている。これによれば「けっちん石」の語源は「結縁石」にあるという。

 昔、新庄山の半腹に立派な蔵王権現のお社が在り、その境内山の入口に置かれていて、袂石(たもといし)といわれていたのがこの一組の石です。
 この石、天正年間に光恩寺を開山された信誉上人(しんよしょうにん)が、その一つ(男石)を同寺に持ち帰り据え置いたところ、残されたもう一つの石(女石)が「夜な夜なすすり泣きをする」ようになったと云ううわさが広まりました。
信誉上人はこのことを伝え聞いて心を痛め、さっそくもとのところに安置致しました。すると「夜ごとのすすり泣き」が止んだと云うことです。
 そんなこともあってでしょうか、土地の人々には結縁石(けちえんいし)、なまって けっちん石 とよばれ、子授けに霊験あらたかだとかで「子授け石」などとも云われるようになりました。
 その後、明治の末期に全国で行われた神社合祀の際に、この一組の石は当神社に移され、末永く安置されることとなり、夫婦石となりました。

 

  • 「袂石」と呼ばれる物語は各地にあるが、基本的には「歴史上の人物の袂から落ちた石が後に成長して大きくなった」というストーリーを描く。小倉に伝わる物語ははじめから「袂石」と呼ばれる石が現れるが、本来はこの前段として「名のある人物が残した石」としてのストーリーがあったものと思われる。
    袂石とは - コトバンク

 

  • 明治43年(1910)の神社合祀の際に二つの石は上小倉神社に移されており、これは合祀によって上記の蔵王権現社が廃止されたことによるものであろう。また、神社合祀に際して「九頭神社」から「上小倉神社」と名称が改められている。

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上小倉神社

 

  • 上小倉神社の主祭神は、手置帆負命(たおきほおひのみこと) 、彦狭知命(ひこさしりのみこと)の2柱。平安時代に編纂された「古語拾遺」によれば、天照大御神天岩戸にお隠れになった時、手置帆負命彦狭知命が天御量(あめのみはかり 定規)を使って木材を集め、瑞殿(みずのみあらか 御殿)を造営した、とされることから「大工の神様」として知られ、土木、建築技術者から崇敬を集めている。
  • 上田恣氏が管理するWebサイト「日本神話・神社まとめ」によれば、「古語拾遺」の該当部分は次のような記述となっている。

原文
手置帆負彦狹知二神以天御量【大小斤雜器等之名】
伐大峽小峽之材 而造瑞殿【古語 美豆能美阿良可】

 

現代語訳
手置帆負(タオキホオヒ)彦狹知ヒコサシリの二柱の神に天御量(アマツヒハカリ)[大小の秤の種々の器の名前です。]を使って、大峽小峽(オオカヒオカヒ=大小の峡谷)の木材を伐採して、瑞殿[古語で美豆能美阿良可(ミヅノミアラカ)と言います。]を造り、御笠・矛・盾を作らせます。

古語拾遺6日神の石窟幽居(2)

 

  • 神武天皇大和橿原宮を建立した際、手置帆負命彦狭知命の子孫がこの地で材木を調達し、正殿の建築に大いに活躍したので、この地に地領を与えられ住み暮らすようになった。これが紀伊忌部(いんべ)で、現在の上小倉神社はその祖神を祀った神社であるとされる。
  • 上述の「日本神話・神社まとめ」では、この部分は次のような記述となっている。

原文
仍 令天富命【太王命之孫也】
手置帆負彦狹知二神之孫 以齋斧 
齋鉏始採山材 
構立正殿 
所謂 底都磐根仁宮柱布都之利立 
高天乃原搏風高之利 
皇孫命乃美豆乃御殿乎造奉仕也 
故 其裔 今在紀伊国名草郡御木 麁香二郷
【古語 正殿謂之麁香】
採材齋部所居 謂之御木 造殿齋部所居 謂之麁香
是其証也

 

現代文
天富命
(アメノトミノミコト)太玉命の孫]が、
手置帆負タオキホオイ彦狹知ヒコサシリの2柱の神の孫を率いて、
斎斧(イミオノ)斎鉏(イミスキ)で、
初めて山の木を採って、正殿(ミアラカ)を作り建てました。
底の岩根に宮柱(ミヤハシラ)を建てて、
高天原のように搏風(チギ=神社などの屋根の上にあるもの)は高く、
皇孫命(スメミマノミコト)の御殿を作り、奉りました。
その子孫は今、紀国名草郡御木(ミキ)麁香(アラカ)の2郷に居ます。

[古語では正殿は麁香(アラカ)と言います。]
木材を採取する斎部の居る所は御木(ミキ)といいます。
正殿を作った斎部の居る所は麁香(アラカ)といいます。
これはその証明です。
古語拾遺16 造殿の斎部

 

  • かつてこの上小倉神社の境内には、「一葉松」と呼ばれる、葉が楊枝のように一本の丸葉となっていた松の木があった。この松には、かつて後鳥羽上皇が熊野参詣を行った際、近隣の吐前(はんざき)王子にて宿泊中にひどい歯痛に悩まされたところ、夢の中でこの神社に立ち寄るようお告げがあり、この松葉によって歯痛を治したという伝承がある。残念ながら、この松は昭和45年(1970)に枯死した。これが「小倉七不思議」のうち「一葉の松」にあたる物語であると思われる。 

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一葉松跡

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。