生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

光恩寺の七不思議

(「紀州 民話の旅」番外編)

  前項、前々項では「夜泣き石」、「名号と秤石」の伝承を紹介したが、和歌山市が昭和59年(1984)に発行した「和歌山市の民話(資料集・下)」には、これらの物語に「境内の松」、「鳴かずの蛙」、「片目の蛇」、「作兵衛鬼面の墓」、「無限の鐘」を加えた七篇の伝承が「光恩寺の七不思議」としてまとめて取り上げられている。

 

 以下では、同書に基づき残る五篇の伝承を順次紹介する。

境内の松
 光恩寺信誉上人信誉禿翁恵信和尚)は天正19年(1591)の4月8日のお生まれで、31才の時に光恩寺を開基され、寛永12年3月に70才で寂滅された人。徳の高い人であったらしく、いまでも上人にまつわる七不思議の話が残されている。
 まずは「境内の松」の話じゃが・・・

 

 わしら、子どものじゅうからずうっとここ7・8年前まで、光恩寺の境内には12~3本の松の木があってな - その松は時代もんやったので、みな松くい虫にやられてしもて、もう今では無くなってしもたけどな。
 その松の枝が南の方角、金谷の方へ延びていたもんや。
 開山・信誉上人三河の国の松平家にゆかりの人やったらしいが、熊野参詣の帰途に、津秦の薬徳寺に立ち寄られたそうな。その時、北の方の小倉の在所の金谷のあたりをご覧になられると、ひどく光るものがあり、それが非常に神々しく感じられた・・・というんじゃな。
 そこでこの地まで杖を延ばされ、金谷在住の田村五郎兵衛さん宅に滞在されたんじゃが、すっかり信誉上人に帰依してしもうた。時の小倉荘の領主・津田監物も上人の人柄にぞっこんほれこみ、いまの光恩寺の地を拓いて、上人のために一院を建立したということじゃ。
 ま、そんなことから光恩寺の開基は、金谷の五郎兵衛さんの徳行によるものとして、松の枝までが全部、金谷の方向に延びたというわけや。
 当時の小倉荘は八ヵ村あって、ほとんどが真言宗の信徒やったらしい。ところがご領主が上人の教えに帰依したところから、村をあげて上人を慕い、ついには八ヵ村のうち七ヵ村まで浄土宗に改宗したんや。いまも光恩寺の壇家は450軒にものぼっているな。
[話者=野国(金谷)・山野井武之助(上三毛)・江川貫裕(大垣内) 記録=河野

 

鳴かずの蛙
 「小倉の蛙(カワズ)キュッとも云わん」ちゅう話はよう知られてらな。
 むかしお寺の辺り一帯は、じめじめした湿地ばかりじゃったというわ。またお寺の中に放生池(筆者注:ほうじょうち 慈悲の行いとして、捕えた魚などを鼻してるための池)というのがあった・・・いまでもその池は残っているが・・・。
 ところで仏の教えの中には“殺生(せっしょう)”については厳しい定めがあったが、お寺の放生池は、景色よりもその名の通り生きものをあわれんで作られたに違いないわな。
 この付近には蛙がたんとあったらしい。夏ともなると、夜な夜な蛙が鳴きたてるので、お寺の住職や修行僧らにとってもたまったもんやない。
 これでは修行のさまたげになるちゅうことで、念力で蛙の口を封じた・・・という話が残されているんや。
 それ以来、小倉荘の蛙は一切鳴かないようになった・・・と伝えられてきたわ。
 もっとも、蛙の口を封じた・・・ということは、人間のおしゃべり、とくに人をそしったり、悪口を云うのを戒めた“教え”じゃろが。
[話者=山野井武之助(上三毛)・江川貫裕(大垣内)・野国(金谷) 記録=河野

 

片目の蛇
 お寺の中に、蛙がよけいにあったら、自然と蛇がよってくるやろな。
 蛇と蛙では、こらもう弱肉強食でどうにもならんわ。ほいでも仏様の目から見られたら自然界、森羅万象これみなことごとく仏性じゃもんな。お上人が法力で、蛙をねらう蛇を片目になさったのも当然のことやわな。
 そいで小倉の里の蛇には、片目の蛇が多いと云い伝えてきたもんや。
[話者=江川貫裕(大垣内)・野国(金谷)・山野井武之助(上三毛) 記録=河野

 

作兵衛鬼面の墓
 むかし小倉荘に作兵衛という酒屋がいた。この作兵衛という人は、どえらいケチン坊やったそうな。“フトコロから手を出すのも惜しい”といわれるほどで、施しなんぞビタ一文も出さん上、商売でもエゲつなかったらしい。
 ま、その作兵衛さんが死んでから光恩寺境内の墓地に葬られたんやが、墓の石はそらもう立派なもんやったが、その墓石の右上の角(かど)が一部分欠けているのが今でも残されているんやが、ここに(つの)が生えてきた・・・と云われて“作兵衛鬼面の墓”と伝えられているんや。
 もっともいま碑面の文字は風化して読みにくく、本当に作兵衛の墓かどうかははっきり判らんが・・・。
[話者=野国(金谷)・山野井武之助(上三毛)・江川貫裕(大垣内) 記録=河野]

 

無限の鐘
 あの作兵衛は、死んでから無限地獄 -極重悪人が死んでから行く地獄で、間断なく責め苦しむ一番悪いところ- へ落ちたことじゃろ。
 信誉上人はこの作兵衛の魂をあわれみ救うため、作兵衛が生前に貯めこんだ財宝をお寺に寄進させ、鐘を鋳造し鐘楼を建立され、ここに”無限の鐘”が完成したわけや。
 以後、光恩寺では朝夕に鐘をつく。明け六ツ、暮れ六ツの鐘は、その度に十八を数えることになっている。
 つまり十八という数字は、弥陀の本願は浄土宗では四十八願とされており、そのうちの十八願は浄土宗の根本の教えとしているところじゃが・・・。
 この“無限の鐘”は、いまも山門を入った右手の鐘楼にかかっているが、いわゆる“無限の鐘”は昭和17年9月の戦時中に金属供出で無くなってしまい、いまあるのは昭和42年4月に再鋳されたものですわ。
[話者=江川貫裕(大垣内)・野国(金谷)・山野井武之助(上三毛) 記録=河野


 前項、前々項でも触れているが、この「光恩寺の七不思議」とは別に「小倉の七不思議」という伝承も伝えられている。国際日本文化研究センター日文研が運用する「怪異・妖怪伝承データベース」によれば、「各地の七不思議(下) 郷土趣味通巻18号(郷土趣味社 大正9年)」という書籍に「紀伊那賀郡小倉村七不思議」として「小倉の蛙」「流注の名灸」「墓額の鬼面」「秤石」「袂石」「一葉の松」「蔵王権現の霊告」の7つの物語が収載されているとのことである。
七不思議 | ナナフシギ | 怪異・妖怪伝承データベース

 

 この「小倉七不思議」のうち、「小倉の蛙」「墓額の鬼面」は、それぞれ上記の「鳴かずの蛙」、「作兵衛鬼面の墓」に該当するものであろう。また、「秤石」は前々項の「名号と秤石」に、「袂石」は前項の「夜泣き石」に、さらに「一葉の松」は前項「夜泣き石」の後段で触れている後鳥羽上皇の故事に、それぞれ該当するものと思われる。

 なお、「蔵王権現の霊告」に関する資料は見当たらないが、和歌山県神社庁のWebサイトに掲載されている「小倉神社」の「由来」の項に「吉野山よりこの地に蔵王権現が降りられ紀の川に大蛇出没し人民を悩ませていたため大蛇退治したと伝えられている」との記述があることから、この伝承を指すものか。
和歌山県神社庁-小倉神社 おぐらじんじゃ-

 

 「小倉七不思議」のうち「流注の名灸」については全く資料がなく、詳細は不明である。今後、なんらかの情報が判明すれば追記したい。