平家物語の「耳なし芳一」に似た話が、このあたりに残されている。 紀州藩も浅野時代というから、16世紀末。
その藩士に渋谷文治郎という若侍がいた。ある年の夏、文治郎は「仙の前」という娘の亡霊に魅入られてしまったという。
文治郎が原見坂を散策中、草むらに忘れられた五輪塔をみつけ、草花を手向けたのが、仙の霊を呼ぶきっかけになったとか。夜ごと原見坂まで出かけ、闇夜に躍る人魂とたわむれる文治郎。夢うつつで、仙と契りを結んでいたと思い込んでいたのだ。
いま、原見坂は禅林寺の境内と民家にはさまれた、狭く、ゆるやかな坂道。だがそのころは、夜ともなれば人通りもぱったりととだえる、淋しい野中の道だったのだろう。
(メモ:国道42号線の小松原五丁目交差点を東に析れ、車坂を下って右へ入る小路。一説には車坂の別名ともいう。寛永元年(1624)開創の禅林寺の本堂は、天保時代(19世紀)に再建されたという。)
- この物語は、江戸時代に編纂された紀伊国の地誌資料「紀伊国名所図会」初編一之巻上「原見坂」の項に記載されているものだが、かなり長い文章となるので全文は末尾に掲載することとし、ここではその概略を記しておく。
浅野家が紀伊にあった頃(1600~1619)。渋谷文治郎という23になる若侍が、原見坂の茅原で2基の五輪塔を見つけたので、花を手向け、手を合わせた。
数日後、またその場所を通りかかると、腰元と思われる女が姫君から預かったとする文を文治郎に差し出した。
その文には「卯月(4月)16日の夜にこの場所へ来てほしい」と書かれてあったので、その日、文治郎は従者を連れて原見坂を訪れた。そこにいた老人に案内された先は立派な屋敷で、そこには姫が待っていて、数々の酒肴が用意されており、文治郎は姫と一夜を共にした。
それから夜な夜な文治郎と従者が原見坂へ通うので心配した父親が家臣に後を追わせると、二人は原見坂の茅原に吸い込まれるように消えていった。それを聞いた父親は狐狸にたぶらかされていると思い、文治郎に自宅から出ないよう厳命した。それでも姫のことを忘れられない文治郎はひそかに家を出て姫の屋敷を訪れた。そこで姫は自らの身の上をこう語った。
「私は、文明12年(1480)4月16日に亡くなった、畠山尾張守の娘の仙之前という者の霊です。細川勝元の次男・右衛門佐政行に嫁ぐ直前に急な病で亡くなり、この場所に葬られました。実は文治郎様は政行の生まれ変わりで、花を手向けてくれたことで、こうして世に再び現れて契りを結んだのです。けれど、お会いするのは今夜が最後。叶うならば再び供養をお願いします」
女はそう言うと文治郎の前から姿を消した。その後、五輪塔の下を掘り返すと、遺骨とともに仙之前の名や命日などが書かれた唐櫃が見つかったので、畠山氏ゆかりの興国寺に改葬された。
- 畠山尾張守は、室町時代後期から戦国時代前期の守護大名で河内・紀伊などの守護を務めた尾州尾張家の当主、畠山政長(1442~1493)、畠山尚順(1475~1522)、畠山稙長(1504~1545)らを指す。ここでは畠山政長のことをいう。
- 細川勝元は室町時代中期の守護大名。応仁の乱の東軍総大将として知られるが、次男がいたかどうかは明らかでない。嫡男である細川政元は文正元年(1466)生まれであり、仙之前が亡くなったとされる文明12年(1480)には14歳であったことを考えると、その時点で仙之前が政元の弟に嫁ぐ直前であったというのは考えにくい。
- 大正3年に和歌山県が発行した「和歌山縣誌 下巻」にもこの物語は「原見阪の怪談」という題名で収載されている。ここでは下記のようにこの物語の詳細が記述されているが、その末尾では「畠山氏の伝承に基づいて近世に創作されたものであり、伝説としては評価に値しない」と非常に厳しい評価が与えられている。
原見阪の怪談
幽明(筆者注:ゆうめい 「あの世」と「この世」)を隔てし恋物語なり。其所は原見阪 即ち 今の避病院(筆者注:現代でいう「感染症隔離病院」のこと)のある坂 にての事なり。
時は浅野幸長父子が此国の国主たりし慶長元和(筆者注:1596 - 1624)の頃 浅野氏の家臣に渋谷森右衛門といえる士ありしが、其弟に文次郎といえる美男ありけり。天資顕敏風姿俊爽 文武の両道に通じ、且風流を好めり。
年二十三のある弥生の末、残春を惜み、且松露など拾わんとて、岡山の辺を徜徉(筆者注:しょうよう ぶらぶら歩くこと)せしに、ふと芽茨の亂生せる間に、小さき二つの五輪の塔あるを見出せり。塔石蘇苔深く蔽い、荒草離離としあたりを、没すれば誰弔う人も無きにやあらんと、いとあわれに思い、あたりの草花を手折りて手向けつつ、心ばかりの回向(筆者注:えこう 読経などで死者の冥福を祈ること)してやがて家に帰りけり。
其後 遠乗に出つるとて原見阪を経たるに、目なれざる了鬟(筆者注:じょちゅう ここでは「女中、女性の使用人」の意か)美しく蒔絵したる文箱を捧げ、文次郎の近くを待ちて之を取らせたり。
怪しみて開き見るに、其文は文次郎に恋焦るる女の許より遣したるにて、其の日此地にて相見たき由 いと懇に記せり。試みに再会を約して帰り、さて約束の日 一僕を伴いて其地に到りしに、果して前の了鬟及び一僕ありて之を迎え、やがて宏壮なる邸宅に伴い行きたり。奥に通り見れば二十路ばかりの姫君の艶麗花の如くなるか、多くの侍女にかしづかれつつ待ちに待ちしとてやがて、山海の珍味を陳ねて文次郎を款待せり。
文次郎は厚き饗応に酔い倒れ、遂に此所に宿りて、姫君と一夜の契をこめたり。其従僕も亦 曩(さき)の了鬟と再会を約して深く語らいけり。
其後は主従共に人知れずあこがれ通うこと数重なりて、其挙動のいと怪しければ、父母も之に気付き、いたく憂いて人をして後を跟(つ)けしむるに、何時も中途より行方知れずなりぬ。愈々驚きて、狐狸などに弄ばるるにやあらんと、其後は文次郎主従の外出を厳しく禁じたり。
されども恋しさにえ堪えねば、主従は私に語らい、ある夜闇に紛れて又あこがれ出でぬ。
やがて例の所に到るに、姫君待ち居て、泣き悲しむこと頻りなれば、其故を聞くに、姫のいう、君の父母は此事を怪しみ玉いて、今よりは監視を厳しくすべく、さてはまた会うこと叶ひ難ければ、かくは嘆くなりと。又 語を次いで云う、妾(筆者注:わらわ 女性がへりくだって自分を示す語)は実は文明年中(筆者注:1469 - 1487)に此館 浅野氏の前に畠山氏 和歌山城を主管せり にて亡せにし畠山尾張守政長が女、仙ノ前という者にて、君はまた細川勝元の次男 右衛門佐政行殿の後身なり。
政行殿 政長の養子となり、妾と伉儷(筆者注:こうれい 「夫婦」の意)となるべき筈にて、婚礼の日も近きしに、妾はふと病に臥して逝(ミマカ)りしか、執心なお去り難くて、石塔を回向し玉える縁に引かれて、我が殿の後身とは知らずして契を込めたり。こは生前の妄執によりてかくは御身に見えしなるべし。今より永く幽明を隔てて相見る事無ければ、一遍の回向を頼みまいらするなりと、又さめざめと泣きくずおれつつ、やがて掻き消す如く失せたりけり。
文次郎主従はあまりの奇異にしばし茫然たりしが、若しや其の證徵(シルシ)もやと、夫の五輪塔をしるべに其塚を発(あば)き見しに、果して大なる石室ありて、二女の白骨を納めし石棺には、法名俗名等を記し、又 曩(さき)の文箱なども其裏に在りければ、奇しき縁に主従かたみに袖を絞りぬ(筆者注:「互いに、涙で濡れた袖を絞った(=ひどく悲しんで泣いた)」の意)。
かくて其無縁を憐み、畠山氏と縁ある由良興国寺に改葬し、厚く二女の回向を為しけるとなん。 名所図会に拠る
幽明を隔てし恋は、和漢共に古より多く伝うる譚(モノガタリ)なるが、此の譚も、岡山あたりに畠山氏の美媛主従を葬りしなどの言伝えありしより思い附きしものなるべし。固(もと)より時代も新しく、又 其譚の結構も古意を帶びたる所無く、近き世の作物語なる事、其脚色(シクミ)の巧緻なるを見て知るべし。
要するに伝説としては多く注意を留むるには価せざる者なり。※ひらがなによるふりがなは筆者。
※読みやすさを考慮して、漢字及びかなづかい等を適宜現代のものにあらためた。
- 原見坂は、禅林寺山門に面した道路。ゆるやかな坂道になっており、かつてはここから日前宮を見下ろせたと伝えられる。
原見坂(はらみざか) : 紀州よいとこ
- 車坂は、原見坂の北側を東西に結ぶ坂道。かつて和歌山城と秋葉山を南北に繋ぐ形で吹上砂丘が広がっており、その切通しのひとつであった。車坂の名前の由来は、熊野御幸の際に輿車(こしぐるま)が通った道であるからとも、小栗判官が箱車に乗せられて熊野に向った道であるからとも言われるが、定かではない。
- 南獄山禅林寺は、寛永元年(1624年)に紀州徳川初代藩主徳川頼宣により創建された臨済宗妙心寺派の寺院。紀州徳川家の祈願所で、本堂には歴代藩主の位牌が祀られている。また、本尊の釈迦牟尼佛は運慶の作と伝えられている。
- 禅林寺には、キリシタンの合同墓が建立されている。江戸時代末期から明治時代初期にかけて、いわゆる「浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)」と呼ばれる大規模な隠れキリシタンの摘発事件があり、摘発された約3,300 人が全国 22か所に強制移送(流配)された。このうち和歌山へは 281 人、65 家族が流配され、体力のある者は日方(現在の海南市)の塩浜工事に従事させられたり、有田、 口熊野、奥熊野などへ送られ、体力のない者は馬小屋へ押し込められたという。明治 6 年(1873)になって禁制が解けたため流配された者の帰郷が認められたが、和歌山に送られた281名と途中出生した12名のうち、死亡95人、脱走3人、改宗143人で、帰郷した者は52人であった。昭和2年(1927)、カトリック奈良教会のビリオン神父と同和歌山教会のグリナン神父が協力し、死亡者の埋葬地の一つであった禅林寺に合同墓(「信仰の光」碑)を建立した。碑には「ロウレンソ中村茂三郎、カダリナ片岡ふく、マダレナ岩永つね 外 四十人之碑」と刻まれている。(参考:広島教区殉教地・巡礼地ネットワーク事務局「浦上キリシタン流配150年ニュースレター No.12」)
浦上キリシタン流配150年ニュースレターNo.12
- 興国寺(こうこくじ)は、由良町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、安貞元年(1227)創建。正嘉2年(1258)、宋から帰国した法燈国師を住職に迎えて開山とし、後醍醐天皇より興国寺の名前を賜る。金山寺味噌、醤油の製法を我が国に伝えた寺院であり、虚無僧と尺八の本山としても知られる。
※紀伊国名所図会に掲載されている物語の全文を以下に引用する。なお、このテキストは高市志友編「紀伊名所図会(一)(歴史図書社 1970)」によるものである。
原見坂
禅林寺の門前より南の丘をいう。
このところの眺望いたってよし。東をさせば日前(にちぜん)の森・花山・御鍬山(みくわやま)、眼下にはもくづ川・相引(あいびき)のわたし・四方嵐(よものあらし)・菊本の橋・国津輪(くつわ)の里・岡島・雑六(ぞうろく)・大宅(おやけ)の田園まで、廻眸のうちにあざやかにして、まことに原見(はらみ)の名を空しうせず。
土人の口碑(いいつたえ)にいう、前の城主 浅野家の臣に、渋谷森右衛門(しぶや もりえもん)といえる士(さむらい)あり。
弟を文治郎(ぶんじろう)という。ときにとし二十三、うまれつき怜悧にして、風姿に美なり。武(もののふ)のわざ、文(ふみ)の道にもかしこく、かたわら風流を弄(もてあそ)べり。
一年 弥生の末のごろ、名残の花も訪ねたく、且つは松露(しょうろ 筆者注:きのこの一種)拾わんとて、岡山のかたにさしかかり、かなたこなたと見めぐるに、茅原がなかに、小さき石の五輪二つならびたるが、苔にうづみて、誰弔う人もなきさまなるに、いとたよりなく覚えしかば、あたりなる草花とりて手向けて、南無幽霊頓證菩提(なむ ゆうれい とんしょう ぼだい)
と、無縁ながらも回向なして帰りしが、程経て遠乗(とおのり)に出づるとて、腹見坂のほとりを通りしに、ここら目慣れざるいときよげなる丫鬟(こしもと)の、蒔絵したる文箱 袖に取り持ちて立てりしが、文治郎を迎えこれを捧げ、
妾(わらわ)はここにありて、君のいたらせ給ふを待つこと久し、こは妾が頼みまいらする姫君の、送り給えるなれば、とく開かせ給え
と言うに、文治郎はこころゆかず、されどもこれを取りて開き見るに、女のふみにて、きこえまいらすることの恥ずかしければ、かくとただ、
いわでの山の いわつつじ、
いわねばこそあれ このひごろ、
おもいにこがれまいらせしぞや、
今かく きこえまいらするも、
君と妾は、はやくも互いにかぞいろの、
さだめ置き給える縁(えにし)なれば、
幾ほどあらず迎え給うべかめれど、
過ぎにしころ、
君にしられずも見そめまいらせしより、
これまで思いしおもいはものかは、
うつつの昼、ゆめの夜、
忘るるひまもあらざれば、
ますほのすすき穂にいでて、
うしろめたくも きこえあげまいらせぬ、
きみ いと はせ給う御心なくば、
この卯月十六日の夜、かならずこに来たらせ給え、 従者をして迎えまいらせんと、手さえ麗しく書きつらねたり。
文治郎はかつて斯う様(こうよう)の事は、父母よりも聞かざれば、かかる契のありとは夢知るべくもあらず。
さらばとて、かく言いおこせたるを無下にいなまんも、情け知らぬえびす(筆者注:夷戎 ここでは「田舎者」というような蔑称の意)とや さげしまんほどのおぼつかなければ、よしや かの夜再びここにいたりて、ことの由をも探りしうえ、ともかうもなさんものと、懐中の硯袋とり出し、とく返事したためつつ、十六日の夜はわれかならずここに来(きた)る
由言いやりて、丫鬟をかえし、馬をはやめて帰り来たりしが、かのことの、いかに思いわくともわきがたし。
さればとて、父にも母にも問うべきわざならねば、ひたすらに思いわびて過ごせしに、はやくも卯月十六日というに、日もはや暮れ近くおしうつれば、契りしことの捨てがたく、儀介といえる家僕(つぶね)を具し、ふたたび原見坂へ訪ね行くに、家子(おとな)とおぼしき老人四方髪(筆者注:しほうがみ 江戸時代の医者・儒者・山伏などがした髪型。月代(さかやき)を剃らず、髪を全体に伸ばして頭頂で束ねたもの。総髪とも。)したるが、前の丫鬟を従え、待ち迎えて文治郎を伴い、岡山のかたへ行くこと二三町ばかりにして、大なる郭門にいたるに、老人、ここは人目のしげければ、こなたへわたり給え
とて、又めぐり行くこと一二町にして、平重門(筆者注:へいじゅうもん 表門と主屋の間に設けられた門。「塀中門」とも)にいたる、老人 外の方より音(おと)なえば、あといらえて内よりこれを開くに、老人すなわち丫鬟をして導かしめ、自分は辞して退きぬ。
かくて文治郎は、丫鬟が道しるべに従い行くほどに、やがてつきづきしく金(こがね)をちりばめ、銀(しろがね)を鐫(え)りたる殿舎(あらか)にいたれば、傅母(かしづき 筆者注:貴人の子にかしずき育てる女。乳母。) と見えて、年たけたる女いで迎えて、 小侍従を呼ばいて、儀介を傍(かたえ)の一間に休ましめ、文治郎を伴いて、なお奥深く行き行きて、上段に簾(みす)なかば掲げたるかたを指ざし、あれに入らせ給え
と言うに、文治郎はただ夢のここちして、茫然としてためらいしが、傅母かたわらより押しやりて、終(つい)に簾の内に入るるに、炷(た)きしめたる蘭麝(らんじゃ 筆者注:「蘭(らん)」の花と「麝香(じゃこう)」の香り。転じて芳香全般をいう。)、面を覆うてかんばしく、このとき偸眼(まなこを ひそ)めて、内のありさまをつらつら見るに、二十ばかりの媛女(ひめ)の、卯の花がさねの衣に青すそごの裳(も)をつけ、袷(あわせ)の袙(あこめ 筆者注:肌着と表着との間に着る衣)に顔さし入れて面はじたる、例えば霞に埋ずむ遠山の眉、露にほころぶ海棠(かいどう 筆者注:バラ科の落葉低木。中国原産で、古くから観賞用に栽植されている。)の笑(えみ)をなし、長(たけ)なる髪は、青柳の色を奪うて乱れたり。これ知って見るにあらずんば、神女の降り戯むるるかと疑わん。ようようにして文治郎言葉をいだし、
さいつごろ我 遠乗に出でしに、消息給わりし契あれば、今日なん ことさらに来れ、もとより我父、いまだかつて君を迎うるの約あることを言わず、ましてやこの館を何某殿(なにがし どの)と申すさえおぼつかなきに、今更そもいかなる御ことにや
と言うに、媛女はじめて顔をあげ、
ことの由は前(さき)に聞こえまいらせしに、さる他々(よそよそ)しき御ふるまいこそうらめしけれ、そは とまれ かくまれ、いとながながしき道の 程なれば、さぞや疲れ給わんに、酒すすめまいらせん
と、侍婢(こしもと)を呼ばい、かくと命ずるに、多くの侍婢等立ちつどい、海に山に鮮(あざらけき 筆者注:鮮魚など新鮮で生きの良いもの)をうちたる、所せきまで設けつらね、さらに絲竹(いとたけ 筆者注:「絲」は琴、三味線などの弦楽器、「竹」は笛などの管楽器を指し、総じて楽器全般、転じてこれらを用いた音楽演奏のことをいう)の調(しらべ)をえらび、 立ち舞う少女が袖までも、仙人(やまびと)の幽栖(すみか)にあそべる心地して、文治郎はうつつ心もなく、ただ酔いに酔いたれば、侍女等やがて文治郎を輦(てぐるま 筆者注:手でかつぐ輿)にして、纐纈(こうけつ 筆者注:絞り染めの技法のひとつ)の夜のものかさねたる帳内にうつせば、媛女はいとうれしげに手をとりて、総に鴛鴦(えんおう 筆者注:オシドリのこと)の枕をこそはかはししが、この夜儀介も別間にありて、かの侍従とともに語らいしが、かかりしよりこのかた、文治郎儀介を伴い、人しれず行通(ゆきかよ)うことあまた度なりしかば、森右衛門夫婦も、この頃文治郎のふるまいの心ゆかねば、家の長に命じて、渠(かれ)が出づるを後を見せしむるに、岡山なる草むらに入るよとまでは見しかども、さらに行方を失えば、 やがて立ちかえりて、事のよしを森右衛門に告ぐ。
夫婦はおおいに驚き、これ全く狐狸のたぐいに魅せられしなるべし
とて、この後はかたくいましめて、外の方へとては出さざりしかば、文治郎はあまりの懐かしさに、ひとり寝ぬるに耐えかね、密かに儀介を呼ばい、夜に紛れてあくがれ出でて、やがてかのところにいたるに、媛女はさめざめとうち嘆きて、この日ごろ語らいし睦(むつび)さえ、さむるばかりのありさまに、文治郎はあきれ惑い、
こは何としたることにや
と、かつ いたわり かつ なだめて尋ね詫ぶるに、媛女ようように涙をとどめ、
おおよそ悲(かなしみ)の湧きてかなしきは、逢いみる人に別るるより悲しきは無しとや、これをしも しのばば、何をか しのぶべからざらん、
今は君の父君母ぎみにも、このごろの逢瀬をさとらせ給えば、この後またも相まみゆること叶うべからず、
何をか隠しまいらせん、妾(わらわ)はこれ文明十二年四月十六日という日、この館にて失せにし、畠山尾張守政長が女(むすめ)、仙の前にて侍るなり。
君は又、細川勝元君(きみ)の御二男 右衛門佐政行殿の後身へ給えるにて、
前に政行殿 政長が養子となり給い、妾に伉儷(めあわ)せ給うとて、すでに婚礼近づきしに、妾 風のここちして、かりそめの病に世を儚(はかの)うせしに、
さるにても輪廻の執心さりがたく、君が影身に添わんとするに、忘執の霧立ちこめて、現世(うつつのよ)の人を見さだむること難く、はやくも後身へ給える君とも知らで、さいつよろ妾が塚を弔ひ給える縁にひかれ、かりの浮世のかり枕、いやましの迷いに沈みしかど、今は既にうつつの父君母君にも、この事しらせ給う上は、また逢い奉る事なしがたし、
また召し具し給える儀介ぬしの、小侍従に語らい侍るも、これまたもとゆかりある身にしあれば、かくも契を交わせしなり、さらば妾も小侍従も、今よりはまた長き闇地に迷う身にしあれば、
きみ現世(うつせみのよ)に玉椿の、八千代までもいのちながらえ給い、この程の夢の契を忘れ給わずば、時折の思いぐさに、唯一遍の回向をもなし給え、あら名残惜しの我君よとて、有りつる姿は消え消えと失せしかば、文治郎も儀介も、天に呼ばい地に臥して、しばしとどむる影さえ見えねば、はかなしといふもさらなり。
ただ泣きに泣き倒れしが、夜はほのぼのと明けわたりぬ。
扠(さて)しもあるべきことならねば、父森右衛門にもこの由をつばらに告ぐるに、人々奇異の思いをなし、いざや打ちつれて岡山に到り、ことの実否をたださんと、各々かしこに行き向い、土に埋みて苔むしたる塚を堀り穿ちてみるに、五尺あまりの五輪にして、大なる台石据えたり。
これを発(あば)くに、畳十枚ばかり敷くほどにして、みな切石をもて築き重ねたり。内には東山殿(筆者注:室町幕府第8代将軍足利義政のこと)より賜りたる諸(もろもろ)の器械をならべて、金銀珠玉のかざりしたる、目の光を奪えり。この内の文箱は、前に文治郎におこせたると同じきも不思議なり。
中央には石の唐櫃(からびつ)二つありて、これには白骨をのみ納めたり。表に蓮光院光譽智證大姉の霊、傍(わき)に文明十二庚子四月十六日、横に畠山尾張守源政長女仙之前行年二十 一つには随泉院妙遠信女霊、傍に文明十二庚子四月十六日、横に童名小侍従 追二主死一自害(主の死を追うて自害す)行年十七 と鐫(ほ)りつけたり。
さては疑うべくもあらずとて、皆もろともに袖をこそは絞りけれ。
かくてもあるべきにもあらざれば、畠山はもと由良の興國寺に由縁ある寺なればとて、ともに興國寺に改葬し、佛事作善いとねんごろなりしとかや。
※読みやすさを考慮して漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためるとともに、必要に応じて改行を加えた。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。