生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

秋葉の大蛇 ~和歌山市和歌浦東~

 国道42号線を高松から少し南へ行ったところに、秋葉山がある。そのすぐ南側、羅漢寺裏手の秋葉大権現への参道途中に、小さな祠がある。
 「秋葉の大蛇」をまつるという。

 

  明和3年(1766)。この山の沼にいた大蛇が、よく参道へ姿を見せるようになった。人々は恐れて、なかなか権現さんまでお参りに行けない。そこで藩命を受けた男が、これを退治し、さらに何年かたって、大蛇の霊を供養して祠をつくった……とか。

 

 大蛇がいたというあたりは、いまは県民プールがつくられて、もうそんな、おもかげは全くない。四季析々に散策に訪れる多くの市民も、そんな話は知らないのだろう。明るい歓声がこだまするばかり。

 

 ただ、うっそうとした雑木におおわれ、国道の喧燥もウソのように静かな参道に立つとき、200年も前のお話が、いかにも真実味をおびてくる。
 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

秋葉山周辺
  • この物語について、和歌山市が昭和57年(1982)に発行した「和歌山むかしむかし」という書籍では「秋葉山の大蛇」という題名で次のように紹介されている。

秋葉山の大蛇

 昔、明和年間(筆者注:1764 - 1772)の頃、秋葉山大蛇が棲んでいた。
 山中池二つあり、と古書にあるが、この池に潜んでいた。この蛇が雑賀(さいか)の荘の人々に危 害を加えた。
 山のすぐ下はお成り街道と呼ばれ、殿様が東照宮参詣の時に通られる道である。その道に大蛇が出没してはご威光にかかわる。
 ところがこの大蛇、そんなことにはおかまいなしに現われた。
 老松が茂っていたが、昼はその枝にとぐろを巻いて昼寝をする。
 見事な松じゃ
と、思って道行く人が見上げると、大蛇が鎌首をもたげて通る人の目の前へにゅうっと首を突き出すものだから、人々は肝をつぶし、腰をぬかした。
だれか退治をする者はいないか。
と言うことで、剣の使い手として名を鳴らした橋本某という武士が、退治を申し出た。
 蛇はその日も沼から出て、草むらでごし、ごしと泥をこすってから気持よく昼寝をしていた。そこを、そっと近づいて一刀のもとに大蛇の首を刎ねた
 このことで、この男の名は更に有名になったが、この後が悪かった。例のタタリというやつである。
 今までは夢など見ることなしに、ぐっすりと寝られたのに、夜な夜な夢を見るようになった。それも、自分の退治した大蛇が出て来て、ぐるぐる巻きにして締めつける。
 なにお!負けるものか!
と、力んでみても、ぐいぐいと蛇のウロコが体に食い込んで、棒のように細くなり声も出せない。
 又、次の日は大蛇に呑み込まれ、まっ暗なはらわたの中を、ふわあ、ふわあと歩かされる。まるで、奈落の底で吊り橋を渡っているようなものである。
 そして最後は、明かりが見えるのでやれうれしや、と思って出てみるとそこは蛇の尻の穴であったり、いやはや散々な夢を見るようになった。
 そして、しまいは何時も決まって、
 ひとの寝首を掻くとは武士にもあるまじき男じゃ。これからはこの恨みを果すため、夜な夜な夢の中で痛みつけてやるわ、ハッハッハ・・・
という捨て科白(ぜりふ)の中で夢が覚めるのであった。
 毎晩こんな調子で悩まされるものだから、さすが大力無双、勇名をとどろかした橋本某も、夢の中で無限地獄に落ちたようで、目だけがギョロリと光って、勇者の面影は見られなくなってしまった。
 思案に余って、ふもとの五百羅漢寺の和尚に相談したところ、それならば蛇供養を、ということで大蛇供養を行ない、蛇塚を建立したところ、その日からばったり夢を見なくなった、ということである。
(文・伊藤孝文

 

  • 現在「秋葉山」と呼ばれている山は、「弥勒寺山(みろくじさん)」「御坊山ごぼうやま)」との別名を持つ。戦国時代には、この山頂に弥勒という寺院があったとされ、その名を取って「弥勒寺山」と呼ばれていた。ここには戦国時代最強の傭兵集団と言われる雑賀衆の本拠である「弥勒寺山城」が置かれており、天正5年(1577)、紀州攻めを敢行した織田信長の大軍勢を事実上の敗退に追い込んだ合戦の舞台となったことで知られる。

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秋葉山古戦場説明板

 

 

 秋葉信仰とは,もともとは秋葉山ないし秋葉権現に対する信仰であり,修験道を基盤としている(田村 1998,2014)。越後の修験者・秋葉三尺坊への信仰が核になったとされるが,信仰そのものの起源や成立過程については,歴史学的に実証されている事柄は少なく,未解明の点が多い。近世中頃以降,越後国常安寺(現在の秋葉三尺坊大権現新潟県長岡市遠江国秋葉寺(同じく秋葉山本宮秋葉神社静岡県浜松市が核となって流行し,江戸のように火事に悩まされた都市でも信仰を集め,東海道を往来する旅人が寄り道して参拝するようにもなった。しかし明治の神仏分離において,秋葉信仰の拠点となった修験道の寺院の多くが神道へと転向し,火の神カグツチなどを祀る秋葉神社として再出発した。そのため現在の秋葉信仰は,近世までのあり方とはかなり異なり,修験道神道が混在したような判りにくい姿のまま現在に至っているのが特徴である。
Kyoto University Research Information Repository: 秋葉信仰の広がり --秋葉神社の分布に着目して--

  • 江戸時代中期には「秋葉山詣で」が「伊勢参り」に匹敵するほどの爆発的なブームになったとされ、寛政9年(1797)に刊行された「東海道名所図会」には、東海道沿いの名所とは別に遠州秋葉山への参詣道がわざわざ取り上げられている。これについて、 谷釜尋徳氏は「近世後期における伊勢参宮の旅のルートと名所見物-江戸近郊地の庶民の場合-日本体育大学日本体育大学紀要35巻第2号」(2006)」において次のように述べている。

3.2.3 掛川御油間(秋葉街道)の名所

 秋葉街道の行程中において最大の名所は,表3中の旅日記のうち大半が見物した旨を記録している秋葉山である。秋葉山は山頂に火之迦具土神秋葉大権現)を祀り,火防の神として広く信仰を集めた。近世における当地への参詣は,江戸をはじめとする東国地方では広汎かつ相当多量に及んでいたという。秋葉山の隆盛ぶりは,『東海道名所図会』(1797) の「近年都鄙の参詣暑寒を嫌はず,蟻の如く道につどひ,秋葉講とて、國々縣(あがた)々にて,多くの人數を聚め,・・・」という記述からも知ることができよう。
日体大リポジトリ

 

  • 紀州弥勒寺山に秋葉権現社が建立されたのはちょうどこのような時期にあたることから、秋葉権現社の建立は火伏祈念の必要に迫られてというよりはむしろ全国的な「秋葉信仰ブーム」の流れに乗ったものと考えるほうが適当と思われる。

 

 

  • 本文中で触れられている県民プールは、昭和41年(1966)に開業した「秋葉山公園県民水泳場(通称:秋葉山プール)」。昭和46年(1971)に開催された国民体育大会黒潮国体)の水泳競技会場にもなったが、老朽化したことに加え夏期しか利用できない屋外プールであったことから、平成27年(2015)の二巡目国体(2015紀の国わかやま国体)に向けて競技用の屋内プールを備えた施設に全面改修され、平成25年(2013)にリニューアルオープンした。

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(新)秋葉山プール

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。