生石高原の麓から

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べんずりさん ~野上町(現紀美野町)釜滝~

 「釜滝薬師」は別名「べんずりさん」。眼の病気を治してくれるという。

 

  天台宗山門派の開祖、円仁(慈覚大師、794~864年)が長旅の途中、生石山にさしかかると、大釜を伏せたような奇岩のそばに滝があったので、毎日、行をした。村人たちを集めて説教もしたが、眼の悪い子供が多いので薬師如来を彫り、眼病回復をお順いした。間もなく村人たちの眼はよくなり、そのうち「お参りしたら、よくなった」「べんずりさんの眼をなでたら治った」と評判になったという。「ベんずり」とは、「面をする」という言葉がなまったもので、それが薬師さんの名前になった~と。

 

 村人たちがお礼に建てたお堂は、その後、焼けてしまったが、薬師さんだけは、あの「釜石」のところにすわっていた~と。

 

(メモ:県道海南高野線の松瀬の落合橋西詰めを北へ入って、二キロ余り。野上電鉄の終点登山口駅から約5キロ。1月8日の「初会式」と8月6日の「千日参り」には、近郊からも大勢の人が参詣する。)

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紀伊国名所図会 三編三之巻 釜滝薬師 (国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 紀美野町に合併する前の旧野上町が作成した「野上町誌」には、釜滝薬師(正式名は釜滝薬師金剛寺)の創建について次のような記載がある。

金剛寺の創建は天長12年(835)山城国京都府天台山慈覚大師(円仁)がこの地に来り、山下の釜の淵の奇瑞に感じ、一刀三禮、木像を作りこれを当山に安置した。この像は本尊薬師如来であるという。

創建当時は現在の寺院の側にある小高い丘に草庵を結び、そこに本尊を安置していたが鎌倉時代の初めごろ、泉州大阪府日根野シナという人が本尊に帰依すること厚く、この人の寄進で伽藍を建て、ここに本尊を移した。脇士2躰は作者不詳であるが、天保2年(1645)仏工を招いて修覆しようとしたが成らず後高野山良霊密師が補修を加えて開眼した。

天正年間(1573~1591)織田信長根来攻めに当たって兵火にかかり本堂は焼失した。その後150年間の消息は詳らかではないが、享保20年(1735)2月8日高野山唯心院一世、阿遮梨快応が入寺してから、再建を志し16年間の艱難苦心を積み、宝暦3年(1753)3月8日本堂を竣工した。棟梁は粉川太郎作である。明治43年(1910)補修を加え現在に至る。庫裏は昭和33年(1958)5月再建。什物として薬師如来本願功徳経一巻があり弘法大師筆といわれる。

  • 同寺のWebサイトによれば、慈覚大師(円仁)は、心身の病気平癒、特に目の守護仏として薬師如来像をつくったとされる。ある時、この辺りに住む人々の目が赤くなるという病に見舞われたが、同寺の薬師如来像を拝むと治るという話が広まり、以降、「目の薬師」として眼病平癒祈願に多くの参拝者が訪れるようになった。
  • 円仁(えんにん、794~864)は、平安時代初期の天台宗の高僧。15歳で比叡山延暦寺に上り、最澄に師事する。最澄の没後、最後の遣唐使で唐に留学するが天台山での修業は認められず、幾多の困難を経た後、多数の経典や曼荼羅等を得て帰国した。帰国後、61歳で第3代天台座主となった円仁は天台宗密教化を推進し、積極的に天皇や貴族らに結縁灌頂や授戒などの儀式を行って天台宗の教勢伸張を図った。この成果もあり、円仁の死没から2年後の貞観8年(866)、清和天皇から円仁に「慈覚大師」、最澄に「伝教大師」の諡号(しごう、おくりな)が贈られた。これが最初の大師号であるとされ、3人目となる空海醍醐天皇から「弘法大師」号が贈られたのはそれより55年後の延喜21年(921)、空海入滅(835)から86年後のことであった。
  • 円仁は各地で積極的に寺院の開基や再興をすすめたことでも知られ、一説では円仁ゆかりの寺院は浅草の浅草寺、平泉中尊寺など関東に209寺、東北に331寺余あるとされる(Wikipedia「円仁」の項参照)。西日本には比較的少ないとのことであるが、この釜滝薬師金剛寺の創建にまつわる物語は、こうした円仁ゆかりの伝承のひとつと考えられる。
  • 慈覚大師が奇瑞(きずい めでたいことの前兆)を感じたとされる「釜ノ淵」とは、真国川の河原にある「釜滝の甌穴(県指定天然記念物)」であるとされている。「甌穴」は、急流の川底の岩面にできた鍋状の穴で、小石が何かのきっかけで岩のくぼみにはまり、それが長年の間に岩面を削って大きな穴となったもの。当地では、鍋状の穴を「釜」と呼び、そこに落ち込む流水を「滝」と呼ぶので、「釜滝」という地名がついたとの伝承がある。
  • べんずりさん」の名については、境内にある「賓頭盧尊者(びんずる そんじゃ)」の像に由来するという解釈が一般的である。
  • 仏教の修行を完成して悟りの境地に達した者のことを阿羅漢、これを略して「羅漢」と呼ぶが、賓頭盧尊者十六羅漢(釈迦がこの世を去る時に、永くこの世にとどまって各地で仏法を守るよう命じた16人の最高位の羅漢)の筆頭とされる。
  • 賓頭盧尊者の本名はサンスクリット語で「ピンドーラ・バーラドヴァージャ(Piṇḍola-bhāradvāja)」といい、これを漢訳した「賓頭盧 頗羅堕」という名が「大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記西遊記で知られる僧玄奘 (げんじょう、602~664)が漢訳した経典)」に記載されたのが初出とされる。
  • 通説によれば、賓頭盧は羅漢の中でも特に神通力にすぐれていたものの、みだりにその力を用いたために釈迦の呵責を受けて涅槃に達することを許されず、釈迦入滅後も衆生を救い続けるよう命ぜられたとされる。これにより、日本では、賓頭盧尊者の木造を堂の前など多くの人がさわれる場所に置き、その像を撫でた手で患部に触れれば病が治るとする「撫で仏」としての信仰が広まった(伝染病媒介のおそれがあるため現在は推奨されない)。
  • 他の地域では、「おびんづるさん」「おびんづるさま」などと呼ばれることが多いが、当地では音韻が変化して「べんずりさん」に転じたものと考えられる。
  • 野上町誌によれば、同寺は織田信長根来攻めの際に本堂が焼失したとされているが、織田信長が直接根来攻めを行ったという資料はない。天正5年(1577)、信長軍は石山合戦の一環として雑賀川(現在の和歌川)沿いに立てこもる雑賀衆を攻めた(第一次紀州征伐)が、この際、根来衆は信長方について共に雑賀衆と戦っている。この後では、天正9年(1581)に高野山が信長に反旗を翻した荒木村重の家臣を匿ったことに端を発した信長方による「高野攻め」が行われている。詳細は不詳だが、後年になって高野山で記された「高野春秋編年輯録」によれば信長方は高野七口(保田、麻生津、学文路、大和、大峯、龍神、熊野)に総勢137,220余人を配置したとしているため、この戦いの一環として本堂が焼かれた可能性は否定できない(この場合は「根来攻め」ではなく「高野攻め」によることになる)。なお、根来寺が直接戦火を受けたのは天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州攻め第二次紀州征伐)である。この戦いでは、根来寺粉河の寺坊の大半が焼失したほか、太田城水攻めにより雑賀衆がほぼ壊滅、他の地域でも国人衆による散発的な戦闘が相次ぎ、最終的には紀伊国のほぼ全域が秀吉の支配下に置かれることとなった。こうしたことを考慮すると、釜滝薬師の本堂焼失は秀吉の紀州攻めに関連したものではないかと考えることもできる。
  • 海南市を拠点とする市民団体「ふるさともりあげ妖怪」では、平成30年(2018)と令和元年(2019)の2回にわたって「妖怪まつり」が開催された。この中で「妖怪百鬼夜行」と題したスタンプラリーでは、漫画家のマエオカテツヤ氏による「ふるさと盛り上げ妖怪 釜滝薬師のべんずりさん」が釜滝薬師のキャラクターとして登場した。
  • メモ欄中、県道海南高野線は、現在国道370号。また、野上電鉄は既に廃線となっている。大十オレンジバス「登山口」停留所が同所。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。