800年ほど前というから、鎌倉初期の話か。小原にある正福寺に雷が落ち、村全部が焼けてしまった。
日照りが続いた翌年、待望の雨が降ったが、そのうち境内で、雷が落ちたような大きな音がした。だが、火の手はみえず、代わりに本堂の観音さまと、雷のやりとりの声が聞こえてきた。「お前はどうして落ちてくるのじゃ。この里は前にも、お前のために丸焼けにされてしもうた。二度と落ちないと約束しなさい」「痛い、痛い。わかりました。もう落ちませんからその手を放して下さい」。どうやら観音さまが、イタズラ雷をやっつけている様子。すっかり静かになったので、観音さまの手をみると、真っ黒にこげていたが、お蔭で小原の里には、もう二度と雷は落ちないとか。
(メモ:小原地区は、国道42号線から小原川に沿って東へ約1キロ。もうひとつ海南寄りに流れる宮川に沿って1.5キロさかのぼると、紀州徳川家の廟所のある長保寺がある。)
- この話と同名の物語が、荊木淳己編著 「むかし紀の国物語(宇治書店 1977)」に収載されている。
《海草郡下津町の民話》
やけど観音 =伝承民話より=むかし下津町の小原というところに、正福寺というお寺がありました。ある年の夏のことに雷が落ち、それが原因で火事を起し、この在所全部が焼けてしまったと伝えられます。
このお話は今から八〇〇年ほど前のことと伝えられています。その年の夏も、からりと晴れ渡った暑い日がつづき、山も野も村もすっかり乾ききってしまいました。
人々は一雨こないものかと待ちこがれていました。やがて日本晴れに晴れ渡った青空に、モクモクと入道雲が湧き上り、どうやら一雨きそうな気配が見えてきました。
だんだんに辺りが薄暗くなってくると、遠くの方からゴロゴロという雷の音が次第に近ずいてきたようです。
待望の雨です。人も動物も草も生き返るような激しい雨が降りはじめました。そして夏の夕立ちにつきものの、雷がゴロゴロ、ガラガラと鳴りはじめ、稲妻がピカピカと光りました。
そのうち、ガラガラピシャン-と雷が落ちたようです。小原の里の人々も、夕立ちは喜んだのですが、さて雷が頭の上で鳴りはじめると、もう生きた心地もありません。
正福寺の和尚さんも雷が大嫌いです。あわてて本堂へ走りこみ、ムニャムニャとお経をとなえて、気を鎮めていました。
そこへものすごく大きな音がして、雷が落ちてきました。もう和尚さんは恐ろしくてたまらず、仏さんの下へもぐりこんで
「クワバラ、クワバラ」
と頭をかかえています。
さっきの雷は、どうやら境内に落ちたようです。ひょっとすると、境内の大きな一本杉に落ちたのかも知れません。
和尚さんは、むかし在所全部が雷で焼けてしまったことがある・・・と聞いているだけに、”火事に ならねばよいが・・・”と思いました。
その時、頭の上の方で不思議な声が聞こえてきたのです。
「こりゃ、いたずら雷め、お前はどうして地上へ落ちてくるのじゃ。それにこの里は、一度はお前のために丸焼けにされてしもうたではないか。どうじゃ。返事次第では許さぬぞ」
その声は、やさしい中にも威厳があり、丁度、和尚さんの真上にまつられている観音さまの辺りから聞こえます。
するともう一人の声がして
「アイタ、イタイ、イタイ。どうかその手をゆるめて下さい。あのう、観音さまがここにいら っしゃるとは知りませんでしたので・・・。それにこの寺の一本杉は随分と高いので、飛び降りやすいんです。どうかお許し下さいませ」
どうやらその声は雷のようです。
観音さまに押えこまれていると見えて、ひどく苦しそうな声を出して謝っているようです。
しかし観音さまの方は、なかなかお許しになりません。
「いやいや、そうは簡単には許せません。前の火事があってから、里の人たちは毎年、夏になると”どうか私の家へ雷が落ちませんように”と、私のところへお参りにくるくらいじゃ。どうじゃ。ひとつ私と約束をしようではないか」
雷は答えました。
「ハイハイ。何でもお約束しますよ。何しろ観音さまには、かないっこないんだから・・・」
「これ、何をブツブツ云っているんです。いいですね。これからこの小原の里へ、二度と落ちてこないと約束しなさい。そうすれば許してあげます」
観音さまのお言葉に、雷は元気を取り戻したようです。
「ハイ、もう絶対に落ちてきません。きっと約束を守りますから、どうかお許し下さい」
そう答えています。観音さまは
「では約束しましたよ」
と云って、雷を放してやったようです。
夕立ちが通りすぎると、辺りは急に静かになりました。 そこで和尚さんは、おそるおそる仏檀の下から這い出しました。
もう一度お灯明をあげて、おそるおそる観音さまのお姿を見ますと、これはどうしたことでしょう。
観音さまの右手は真っ黒にこげ、まだくすぶっているではありませんか。あのアバレ雷を押えられた時、ヤケドされたに違いない・・・と和尚さんは気がつきました。もう勿体ないやら、有難いやらで、和尚さんは一生懸命にお経をあげはじめました。 その後、この御仏は”やけど観音”と呼ばれて、人々の信仰を集めました。
後世になって、この黒こげのお手を修理したのですが、この修理が問題となって、国宝の指定もれとなったのは残念でしたが、それは立派な観音さまで、今も小原の里に残されています。
それから、この里には長い間、雷は落ちてこなかったんですって。
[近世]小原村
(略)
「続風土記」では家数84軒・人数423。当村から有田郡中島村へ抜けることができ、小原越えと呼ばれた。隣村小畑村の蕪坂(筆者注:かぶらざか)を利用する以前の熊野道ともいう(浜中村誌)。
通行量は多かったと思われ、「名所図会」に
「若山より有田郡へゆくに、浜中の地を経て、此峠をこゆるもの多し」
とある。
村内では、ミカンやハゼの栽培が盛んに行われた。
寺院は浄土宗西山派小原山明秀寺。境内にある観音堂は、後醍醐天皇から寺領を寄進されたこともある古刹正福寺の本尊を、同寺廃寺後に安置するために建てられたと伝える。
- 上記引用文にもあるように現在「正福寺」は廃寺となっているが、これについて、旧下津町が編纂した「下津町史」では次のように解説している。
正福寺
現在の下津小学校の西、ハイマチ(筆者注:下津町小原の小字名 拝町(拝待とも))という所に、むかし正福寺という寺があったと伝えられている。その寺の本尊であったという十一面観音立像が、小原明秀寺境内の観音堂に安置されている。この幻の寺の興廃は詳かでないが、仏像は後世の塗金で古色を失っているが、藤原時代の面影が滲んでいて、この寺の草創の古さを物語っている。もとより伝えられるような大伽藍が想像されないが、永仁6年(1298)の『浜中南荘田数注進』にある小原堂は鎌倉時代の姿だと思われるし、『紀伊国続風土記第一輯』には
「古刹にて後醍醐帝より、山三町四方(筆者注:一町(長さの単位)は約110メートル 「三町四方」は約11ヘクタール)、田五段(筆者注:「段」は面積の単位で「反」に同じ 一段は約10アール )、畠五段御寄附ありしに、太閤の時没収せらるという。また弘安・建武・応永・寛正の棟札の写あり」
とあって、鎌倉時代から室町時代まで栄えて、天正の法難※で没落したとのべている。しかし室町後葉にはすでに衰頽(筆者注:すいたい 衰えること) に瀕していて、明秀上人が長福寺(筆者注:明秀寺の旧寺号。「紀伊続風土記」によれば開基は恵心上人で、中興の祖とされる明秀上人(1403 - 1487)が再建した後、寛文年間(1661 - 1672)に明秀寺と改めたとされる。)建立の時には、この古刹の復興をも考え、観音像を移し納めたのでないかとも推察できる。太閤法難※のときに、相当な寺容をもっておれば、浅野氏が寺領寄進した例が多いのだがそれも見つからない。
※筆者注:「天正の法難」「太閤法難」はいずれも天正13年(1585)に起きた秀吉の「第二次紀州征伐」を指すものと考えられる。
- 明示された資料は確認できていないが、本文でいう「やけど観音」は、おそらく上記引用文中で触れられている正福寺本尊の十一面観音立像を指すものであろう。
- 上記引用文で明秀寺(創建時は長福寺)の中興の祖とされる明秀上人(みょうしゅう しょうにん)は、紀州一円に浄土宗(西山派)の信仰を広めた名僧として知られる。平成18年(2006)に和歌山県立博物館が開催した企画展「浄教寺の文化財」に関連して同館の大河内学芸員が記したコラムでは、明秀上人について次のように紹介されている。
浄教寺開山・明秀上人
有田郡有田川町長田の浄教寺は、文明4年(1472)に創建された浄土宗西山派(西山浄土宗)の寺院である。和歌山県内では、和歌山市から紀中地域にかけて数多くの西山派寺院があり、南は田辺市までその教線は伸びている。この西山派の勢力拡張に功績があったのが、浄教寺の開山、明秀上人である。
明秀は応永10年(1403)の生まれで、若くして出家し、関東で浄土教学を学んだ。その後、永享年中(1429~41)に広川町に法蔵寺を建立したのをはじめに、和歌山市梶取の総持寺など紀伊国内に18か寺を建立・中興した。代表的な著作に『愚要鈔』があり、これは布教のための問答集といった内容で、その優れた民衆教化の力量をうかがうことができる。晩年は海南市曽根田に竹園社を建立して隠居し、長享元年(1487)に逝去した。廟所である石室が竹園社の境内に残されていて、和歌山県指定史跡となっている。
明秀の出自については、室町幕府成立の立役者、播磨国守護赤松則祐(円心)の孫とも、ひ孫とも伝承される。しかしそのことを裏付ける確かな史料は残されていない。実は、日高郡印南町西ノ地の赤松山に、赤松則祐が築城したという中世の城跡がある。あるいはこの城を根拠地とした「赤松氏」の存在も、明秀の出自を考える上で一考の余地がありそうだ。
コラム 浄教寺の文化財
明秀は、日本史上に著名な赤松一族の出身であると紀州・総持寺(和歌山市梶取)の寺伝が伝え、紀州一帯に十八ヵ寺の浄土宗寺院(現在は西山浄土宗に所属)を続々と建立し、六部に及ぶ大著を述作し、ついに今日の百八十院にも上る紀州浄土教団の基を開いたという伝説を残している。『総持寺伝』には明秀は「播州の人赤松義則の子にして円心則村の曾孫」「幼稚にして上州吾妻郡河戸村田部善導寺円光上人の室に投じて出家得度し浄教の習修年を累ね漸く一宗の故実奥義を究む」とあり、『明秀上人全集』(西山全書)の序文には「上人俗姓は源氏、村上天皇の皇子具平親王の後裔也。寺伝に曰く、播州揖保郡広山の人赤松義則の子也と。然れば彼の護良親王の令旨を奉じて勤王の義兵を挙げたる赤松則村円心の曽孫にして、嘉吉の変※に自刃せし満祐の舎弟なり」と明記する。従って宗門(浄土宗西山派)ではこの説が長らく伝承されて来ているが、浅羽本以下数種の「赤松系図」には明秀は明確に登場せず、学問的には明秀の郷貫を証明し得ない。
※筆者注:嘉吉の変(かきつのへん 嘉吉の乱とも)は、嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した後、幕府方討伐軍に敗れた事件。後に遺臣が赤松氏再興のために功を挙げようとして、一旦は後南朝に奪われた神璽(三種の神器のひとつ)を奪還する行動(長禄の変)を起こした。
(略)
何れにしても明秀が、吾妻善導寺二世円光の室に入って修学し、後に紀州にて百八十院にも上る浄土教団の基を開いた非凡な宗教活動と六部の著述を残した業績は厳然として明確に記録されている。
明秀の開基と伝える十八ヵ寺のうち、現在わかっているものは、総持寺(和歌山市梶取86)、明光寺(和歌山市直川1716)、竹園社(和歌山県海草郡下津町大字曽根田651)、明秀寺(和歌山県海草郡下津町小原1379)、浄教寺(和歌山県有田郡吉備町大字長田30)、深専寺(和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅785)、法蔵寺(和歌山県有田郡広川町上中野1181)、安楽寺(和歌山県日高郡日高町大字萩原小字東光寺1146)である。その他、法岸寺、常楽寺、光明寺、西岸寺、東光寺、観音寺等も明秀開基といわれる。
(略)
上州吾妻善導寺道場に上り、三十余年の修行により慈悲を得た明秀は、紀州に赴くことにより、智慧の世界に身を置くことになった。(略)南紀一帯の教線を張った明秀は、真宗の本願寺八世蓮如(1415 - 1499)が山科に本願寺を建立する文明11年頃、即ち文明10年(1478)8月から翌11年3月までかかって『選択集私鈔』三巻を著述して浄土教徒としての意味を主張した。77歳の人生観の披瀝が私鈔という一つの形を作ったのである。『選択集私鈔』を著述し終った老僧明秀は、間もなく三十年にわたった総持寺の生活を退いて加茂の小原、長福寺に閑居した。この寺は後に寛文年中に寺号を明秀寺と改めて今日に及んでいる。長福寺に在住した明秀は、更に山を背にした曽根田郷に竹園社を創めて移り住んだ。そして、集まり来る雲衲(筆者注:うんのう 衲衣(のうえ 禅僧が修業のために着る衣。語義としてはぼろ布を繕って作った袈裟を指す。)を来て修行する僧。)のために寄宿舎まで建てて講義を行なった。
Tokaigakuen University Repository: 当麻曼陀羅註記明秀鈔聞書
- 同地区から約4キロメートル北東にある橘本地区の「岩屋山金剛寿院福勝寺」は弘法大師空海が開いた霊場とされ、空海が刻んだとされる本尊の千手観世音菩薩は「旅立の観音」「厄除の観音」として知られているほか、「雷除けの観音」としての霊験もあると伝えられている。同寺の本尊も観音菩薩であり、この「やけど観音」の伝承と何らかの関わりがある可能性がある。
- メモ欄中、「長保寺(ちょうほうじ)」は、海南市下津町上にある寺院。寺伝によれば、平安時代中期の長保2年(1000)、一条天皇の勅願により慈覚大師円仁の弟子の性空によって創建された。寛文6年(1666)、紀州徳川家初代藩主徳川頼宣が紀州徳川家の菩提寺に定め、紀州徳川家歴代藩主の墓がある(ただし、5代藩主吉宗(8代将軍)と13代藩主慶福(後の14代将軍家茂)の墓は東京の寛永寺と増上寺にある)ことで知られる。本堂・多宝塔・大門は国宝。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。