生石高原の麓から

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興津権之丞 ~野上町(現紀美野町)奥佐々~

 約400年前、生石山のふもとに興津権之丞という、弓の名人が住んでいた。農民の味方で、村には梅が多いことから、「梅本殿」といわれるほど尊敬されていた。

 

 この村を治めていたのは高野山。だが、年貢が高いため、権之丞は役人に訴えようと、山をへだてた福田村美里町福田)まで、書状をつけた矢を放った。これが高野山に、謀反とみられ、さらに権之丞が、高野山を攻めた織田勢にカを貸したことから怒り心頭に達し、とうとうだまし討ちにしてしまった。

 

 妻と二人の子供も殺された。残る二人の子供は何とか逃げのび、村人たちの手で、だれも近寄らない谷川の岩穴にかくまわれたという。

 

 この谷川は、いまも「守川」と呼ばれ、権之丞が埋められた田を「成敗田」と呼んで権之丞をしのんでいる。

 

(メモ:野上電鉄の終点登山口駅から県道三田生石口線を約5キロいくと奥佐々。なだらかなスロープのひろがる生石高原にも近い。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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子守不動(紀美野町坂本)
  • 通称「生石山(おいしやま)」は、紀美野町有田川町の町境にある「生石ヶ峰(標高870m)」のこと。山頂一帯は「生石高原」と呼ばれる約13haのススキ草原となっていて、ハイキングなどの観光客が多く訪れる。平成15年から草原維持のための山焼きが定期的に行われている。
  • 平安時代から鎌倉時代にかけて、現在の紀美野町のうち旧野上町の範囲には主に野上(のかみ)荘が、旧美里町の範囲には主に神野(こうの)荘と真国(まくに)荘があったが、野上荘と神野・真国荘との間では永年にわたりその帰属をめぐって争いが続いた。神護寺京都市)が所蔵する「紀伊国神野・真国荘絵図重要文化財)」には両荘の境界付近である本川流域が詳細に描かれており、野上荘側は梅本川一本の大木が境界であると主張し、神野・真国荘側は梅本川左岸の佐々小河村が境目であると主張していたことがわかる。これより後の鎌倉時代に制作された「紀伊国真国荘絵図高野山正智院蔵)には、両荘の境界は「西堺一本木」と書かれており、これは、梅本川と貴志川の合流点付近にある「大木(だいぎ、紀美野町吉野)」という場所にあたると考えられていることから、この時点では野上荘の主張が認められていたものと考えられる。(参考:和歌山県立博物館ニュース コラム「紀伊国神野・真国荘絵図」2011/11/18)
  • 鎌倉時代以降も領地をめぐる争いは続き、紀北地方一帯の領有を主張する高野山金剛峯寺が神野・真国荘の荘園領主となったことにより、野上荘の荘園経営を行っていた石清水八幡宮(野上八幡宮との間で対立が激化した。これに対し、元弘3年(1333)、時の後醍醐天皇は、後に「元弘の勅裁」と呼ばれることになる綸旨天皇の意を受けて蔵人が発給する命令)を発し、高野山の主張を全面的に認める決定を下した。これにより、石清水八幡宮領のうち野上荘に含められていた小河荘(梅本川周辺)と柴目荘が、隅田南荘相賀南荘渋田荘鞆淵荘調月荘などとともに高野山領に移されることになった。(参考:角川日本地名大辞典
  • その後、南北朝時代にはこれらに加えて野上荘全体が高野山領となるが、江戸時代になると再び梅本川が境界となり、小河荘を東西に分割する形で西側が紀州藩領、東側が高野山領となった。このため、この話の舞台となる戦国時代末期には地域全体が高野山領であったと考えてよい。
  • 織田信長は各地の宗教勢力と敵対しており、中でも元亀2年(1571)の比叡山延暦寺で行われた戦いは凄惨を極めたと伝えられている。高野山との関係は、天正8年(1580)、信長に反旗を翻した荒木村重の家臣を金剛峯寺が匿い、探索に来た信長の家臣を殺害したことから急速に悪化した。天正9年(1581)には信長が諸国の高野聖(こうやひじり、高野山の信仰を広めるために全国を遊行する僧)数百人を捕らえて安土で処刑しており、これを端緒として高野攻めが行われたとされる。信長による高野攻めについては享保4年(1719)に成立した高野山編年史高野春秋編年輯録」に詳細が記載されているものの、信長方には明確な記録がなく、大規模な戦闘があったか否かは不詳であるが、天正10年(1582)6月に本能寺の変が発生したことにより高野攻めは終了したとされている。
  • 合併前の旧野上町が発行した「野上町誌」には、「信長内応の小川荘梅本村の権之丞」と題して次のような記載がある。

紀伊風土記』(五)「那賀郡小川荘梅本村」の項にいわく「古、此村に興津権之丞といふものあり、二心を懐きて織田信長に内応せしに依りて、天正16年河野秀道に命して戮せしむ、今にその屋敷跡あり」とある。金剛峯寺総分教栄木食興山上人応其連名にて、天正17年(1589)正月27日付で神野修理之丞宛に感状を与えている。それによると「天正9年織田信長高野攻めのみぎり、高野山に対しての忠勤あさからず、今また野心を抱いた者に対して、即時成敗あるべきところ、父子7人残らず討果した才覚は誠に御手柄御忠節あさからず。先年(天正9年)といい当時(天正16年)といい、まことに感嘆の至りである。今後諸公事免許、当時のかかり米これまた差置くと共に、青銅千疋を与え心底から其忠節に報いるものである」と述べている。

  •  興津氏の居館跡は判然としないが、伝承では現在の小川小学校があるあたりとされている。
  • 興津権之丞を討ったのは河野秀道(神野修理之丞)であるとされる。十三神社紀美野町野中)の社伝によれば、天正年間(1573~1593)に伊予国河野道直秀道父子が長宗我部元親との戦いに敗れて神野庄上ヶ井にたどり着いた際、一羽の霊鳥が傍を離れなかったので、その霊鳥を当地の十二社大権現に合祀して現在の十三神社が成立したと伝えられており、これを信ずれば、河野氏伊予国出身であると考えるのが妥当である。しかしながら、長宗我部元親が「河野水軍」の棟梁として知られる伊予の河野氏を倒して伊予を平定したのは天正13年(1585)であると考えられており、町誌にあるように神野荘の河野氏天正9年(1581)の高野攻めの際に貢献があったとすると伝承と矛盾が生じることになる。また、伊予の河野氏は「通」の字を「通字(とおりじ)」としており、「道」を通字とした者はない。ちなみに「道」を「通」に変えた河野通直(伊予の河野氏最後の当主)天正15年(1587)に竹原(現在の広島県竹原市)で死亡している。これについて、「和歌山県那賀郡誌(和歌山県那賀郡編 大正11-12)」では、「通直に至り伊豫の豪族長曾我部と戦ひ軍敗れて伊豫に止まるを得ず逃れて紀伊国に來り難を高野山淨蔵院に避け次で當地に来り近邊を押領せり 幾何もなくして安藝に赴き毛利氏に客過し竹原に在って病没せり 長男修理亮秀道留りて常地に居し天正中野中の氏神を建立せり」との記述があり、河野秀道は河野通直の長男で、通直は神野荘を支配した後に安芸(現在の広島県)に移り、竹原で死亡したものとしている。
  • 河野氏は興津権之丞を自らの屋敷に招いて宴を催し、宴を終えて権之丞が帰ろうとしたところを斬り殺したと伝えられている。河野の手の者はその後、一族を根絶やしにするために権之丞の館を急襲したが、異変にいち早く気づいた子守の女が残る二人の子供を連れて脱出し、山道を抜けて坂本と呼ばれる地区へと逃げ延びた。権之丞に恩義を感じていた坂本の住民は、子守の女と二人の子供を村から離れた谷川の岩陰にかくまい、成長を見守ったと伝えられており、その場所は今も「子守(こうもり)」と呼ばれ、「子守不動(こもりふどう)」が祀られている。
  • 子守不動では毎年2月に子供の息災を願って餅まきが行われていたが、関係者の高齢化により平成31年(2019)を最後に中止されている。

「成敗田」については、先述の「野上町誌」が「那賀郡誌」の記述として下記の内容を掲載している。

成敗田は下神野村大字市場字大野に在りて市場と福田との境界竜神街道の南に沿へる所なり。
面積は一反四畝二三歩を有す普通の田地と異なることなきが、天正年間織田信長高野攻の際小川荘梅本村の住人興津権之丞という者二心を抱き、織田氏に内応せんとせるより、河野秀道なる者高野の内命をうけ之を謀殺せり。
その功により永代六十石の扶持と左近の名を賜りたりと。此地は即ち之が謀殺の地にして、田に拓きし後も名付けて成敗田と称し居れり。

  •  かつて、旧野上町坂本と旧美里町南畑との境界付近に「弓引き松」と呼ばれる松の木があった(昭和9年室戸台風により倒れて枯死)。興津権之丞はここから眼下の福田村に向けて書状をつけた矢を放ったとの伝承がある。
  • メモ欄中、野上電鉄は平成6年(1994)に廃線となった。「登山口」駅には現在大十オレンジバスの停留所がある。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。