生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

興津権之丞 ~野上町(現紀美野町)奥佐々~

 約400年前、生石山のふもとに興津権之丞という、弓の名人が住んでいた。農民の味方で、村には梅が多いことから、「梅本殿」といわれるほど尊敬されていた。

 

 この村を治めていたのは高野山。だが、年貢が高いため、権之丞は役人に訴えようと、山をへだてた福田村美里町福田)まで、書状をつけた矢を放った。これが高野山に、謀反とみられ、さらに権之丞が、高野山を攻めた織田勢にカを貸したことから怒り心頭に達し、とうとうだまし討ちにしてしまった。

 

 妻と二人の子供も殺された。残る二人の子供は何とか逃げのび、村人たちの手で、だれも近寄らない谷川の岩穴にかくまわれたという。

 

 この谷川は、いまも「守川」と呼ばれ、権之丞が埋められた田を「成敗田」と呼んで権之丞をしのんでいる。

 

(メモ:野上電鉄の終点登山口駅から県道三田生石口線を約5キロいくと奥佐々。なだらかなスロープのひろがる生石高原にも近い。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

f:id:oishikogen_fumoto:20201125103350j:plain

子守不動(紀美野町坂本)

 

  • この物語について、和歌山県那賀郡役所が大正11~12年(1922~23)に発行した「和歌山縣那賀郡誌 下巻」の「旧蹟」に、「成敗田」及び「河野城墟」の項があり、興津権之丞を謀殺した河野氏の視点からみた記述がある。

成敗田
 下神野村大字市場字大野に在りて市場と福田との境界 龍神街道の南に沿える所なり
 面積は一段四畝二十三步(約1464平方メートル)を有する
 普通の田地と異なるなきが、天正年間 織田信長高野攻の際 小川庄梅本村の住人 興津権之丞 というもの二心を懐(いだ)織田氏に内通せんとするより 河野秀道なるもの 高野の内命をうけ之を謀殺せり 其功に依り永代六十石の扶持と左近の名を賜りたりと
 此地は即ち之が謀殺の地にして 田に拓きし後も名づけて成敗田と称し居れり
 此田 中古迄は 興津権之丞の墳ありしといえど 今は全く其跡をとどめず
 しかれども 此田を所有せば崇ると称して忌避し居れり

河野城墟
 同村福田に三ヶ所あり
 即ち村の南 神野川を隔てたる城山と名づくる所に一つ
 ここは麓より一町半許(ばかり)の山上に広さ方六間(約10.9メートル四方 118.8平方メートル)許の平地あり
 天正17年(1589)河野一祐入道 暫く居住せしという
 又 落合の東方にある愛宕山上に一ヶ所 又 同大字中一の小丘上平なる所方三十間(約54.5メートル四方 約2975平方メートル)なる場所にも河野氏の城ありしと
 蓋(けだし)河野秀道なるもの織田氏の高野攻の時 高野の為めに一方を防ぎ大功を立てしにより高野より多くの恩賞を賜わり諸公事を免許さる 河野城は此頃に築きしものと称せらる
和歌山県那賀郡誌. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかい等を現代のものにあらためたほか、適宜空白、改行を加えている。
※筆者注:( )内は筆者による。 

  • 合併前の旧野上町が発行した「野上町誌」には、「信長内応の小川荘梅本村の権之丞」と題して次のような記載がある。

 『紀伊風土記』(五)「那賀郡小川荘梅本村」の項にいわく「古、此村に興津権之丞といふものあり、二心を懐きて織田信長に内応せしに依りて、天正16年河野秀道に命して戮せしむ、今にその屋敷跡あり」とある。金剛峯寺総分教栄木食興山上人応其連名にて、天正17年(1589)正月27日付で神野修理之丞宛に感状を与えている。それによると「天正9年織田信長高野攻めのみぎり、高野山に対しての忠勤あさからず、今また野心を抱いた者に対して、即時成敗あるべきところ、父子7人残らず討果した才覚は誠に御手柄御忠節あさからず。先年(天正9年)といい当時(天正16年)といい、まことに感嘆の至りである。今後諸公事免許、当時のかかり米これまた差置くと共に、青銅千疋を与え心底から其忠節に報いるものである」と述べている。

 

  •  上記のように、史料によれば河野氏が興津氏を討ったのは織田信長に内通したことが原因であるとされているが、地元では、本文にあるように重税を矢文によって役人に直訴しようとしたことが原因であるとの伝承がある。旧野上町坂本と旧美里町南畑との境界付近にはかつて「弓引き松」と呼ばれる松の木があり、興津権之丞はここから眼下の福田村に向けて書状をつけた矢を放ったと伝えられている。(弓引き松は昭和9年室戸台風により倒れて枯死した)

 

  •  興津氏の居館跡は判然としないが、伝承では現在の紀美野町立小川小学校があるあたりとされている。

 

  • 上記の引用文にあるように、興津権之丞を討ったのは河野秀道(神野修理之丞)であるとされる。十三神社紀美野町野中)の社伝によれば、天正年間(1573~1593)に伊予国河野道直秀道父子が長宗我部元親との戦いに敗れて神野庄上ヶ井にたどり着いた際、一羽の霊鳥が傍を離れなかったので、その霊鳥を当地の十二社大権現に合祀して現在の十三神社が成立したと伝えられており、これを信ずれば、河野氏伊予国出身であると考えるのが妥当である。
    和歌山県神社庁-十三神社 じゅうさんじんじゃ-

 

  • しかしながら、長宗我部元親が「河野水軍」の棟梁として知られる伊予の河野氏を倒して伊予を平定したのは天正13年(1585)であると考えられており、町誌にあるように神野荘の河野氏天正9年(1581)の高野攻めの際に貢献があったとすると伝承と矛盾が生じることになる。また、伊予の河野氏では「通」の字を「通字(とおりじ)」としており、「道」を通字とした者はない。ちなみに「道」を「通」に変えた河野通直(伊予の河野氏最後の当主)天正15年(1587)に竹原(現在の広島県竹原市で死亡している。これについて、「和歌山県那賀郡誌和歌山県那賀郡編 大正11-12)」では、通直は長曾我部に敗れた後、一旦は高野山淨蔵院に入って近隣に領地を得たが、じきに安藝に赴いて竹原で没したとし、秀道は通直の長男であるとする。

河野氏
 下神野村福田の名門にて権勢南那賀に冠たりし旧家なり
 其先 伊予の名族河野氏より出づ 
 伝えいう 弘安の役 虜船に突撃して其名を唄われたる通有の後裔刑部大夫通直に至り 伊予の豪族長會我部と戦い 軍敗れて伊予に止まるを得ず 逃れて紀伊国に来り 難を高野山浄蔵院に避け 次で当地に来り近辺を押領せり
 幾何もなくして安芸に赴き 毛利氏に客遇し竹原に在って病没せり
 長男修理亮秀道留りて当地に居し 天正中 野中の氏神を建立せり
 織田氏高野を攻むるの時 秀道赴きて其難を救い 一方を防ぎて大功を立つ
 是より先 隣庄 小川の地に梅本権之丞なるあり
 弓術を以て著わる
 竊(ひそか)に信長の為めに内応をなすの計あり
 小川神野二庄の境界に鳶ヶ巣山あり 其の山脚延びて河辺に及び 安井の東を限り 山頂平坦なる所 城の平と呼び 福田とは指呼の間にあり
 権之丞ここに居して常に河野氏の背面を覗う
 河野氏深く之を恐る 其異円を挟めるを以て高野山の内命を承けて巧みに之を譎(あざむ)き 権之丞を謀殺せり
 後世 其所を呼んで 成敗田 と称せり
 左の文書は野山(筆者注:「高野山」のことか)より其勲功を賞せし咸状なり

  先年 小川乃曰権丞事 成敗之段
  無2此類1御忠節 不2レ及是非1其外
  毎度普請以下 被2御精1
  殊其辺 高野江程遠候條
  貴所之儀諸事無2疎略1事 肝要
  然永代諸公事可為2免許1候間
  可2其意1
  為2後日1代状如
     8月18日
         木食興山上人應其
  神野修理之丞殿御宿所


 其後数年を経て天正16年に至り庄內に郡戸軍なるあり
 常に表裏を構え 野心を蔵し機会だにあらば野山に向い反旗を飜さんとせり
 秀道復奇計を以て其が父子七人を誅戮し永く患害を絶ちしかば 高野山よりは先年の忠節といい 今回の才覚といい 功績顕著なりとの故を以て激賞されしこと 左の文書の一節に窺うを得


   先年といい 当時といい 咸嘆不遇之候
   然は 向後新儀に申掛候 
   諸公事令免許並ニ当時の懸米 是又指置申候
   将又 雖些少之儀 青銅千疋進候
   誠ニ以為心底計仍而報儀 如件


 当時同家の田祖の免許高三百石に及び世之を呼んで左近田といえり 蓋(けだ)し左近は河野家の通称なり
 秀道より三世を経て秀信に至り 南龍公(筆者注:紀州徳川家初代藩主徳川頼宜)之を待遇するに客位を以てし 廩米(筆者注:りんまい 俸禄として与えられる米)六十石を賜い 地士に列す
 孫貞通の時三十石に減禄せらる 再後九代安作歌に至る迄相継いで此世禄を受け 以て維新に及び止む
 安作歌の父は即ち木川にして碩学にて世務に長ぜるを以て縷々要路に立ち画策する所甚だ多かりし
 其後 家道大に衰え邸宅廃絶 僅かに痕跡の昔時の壮麗を物語るあり
 弘安の役通有の軍陣に飜したりという旗幟伝えて家に在り 蠧蝕濕腐の裡 当年の猛勇を偲ばしむ

※筆者注:読みやすさを考慮して漢字、かなづかいを現代のものにあらためたほか、適宜空白、改行等を加えた

 

  • 河野氏興津権之丞を自らの屋敷に招いて宴を催し、宴を終えて権之丞が帰ろうとしたところを斬り殺したと伝えられている。河野の手の者はその後、一族を根絶やしにするために権之丞の館を急襲したが、異変にいち早く気づいた子守の女が残る二人の子供を連れて脱出し、山道を抜けて坂本と呼ばれる地区へと逃げ延びた。権之丞に恩義を感じていた坂本の住民は、子守の女と二人の子供を村から離れた谷川の岩陰にかくまい、成長を見守ったと伝えられており、その場所は今も「子守(こうもり)」と呼ばれ、「子守不動(こもりふどう)」が祀られている。
  • 子守不動では毎年2月に子供の息災を願って餅まきが行われていたが、関係者の高齢化により平成31年(2019)を最後に中止されている。

 

  • 通称「生石山(おいしやま)」は、紀美野町有田川町の町境にある「生石ヶ峰(標高870m)」のこと。山頂一帯は「生石高原」と呼ばれる約13haのススキ草原となっていて、ハイキングなどの観光客が多く訪れる。平成15年から草原維持のための山焼きが定期的に行われている。

 

  • 鎌倉時代以降も領地をめぐる争いは続き、紀北地方一帯の領有を主張する高野山金剛峯寺が神野・真国荘の荘園領主となったことにより、野上荘の荘園経営を行っていた石清水八幡宮(野上八幡宮との間で対立が激化した。これに対し、元弘3年(1333)、時の後醍醐天皇は、後に「元弘の勅裁」と呼ばれることになる綸旨天皇の意を受けて蔵人が発給する命令)を発し、高野山の主張を全面的に認める決定を下した。これにより、石清水八幡宮領のうち野上荘に含められていた小河荘(梅本川周辺)柴目荘が、隅田南荘相賀南荘渋田荘鞆淵荘調月荘などとともに高野山領に移されることになった。(参考:角川日本地名大辞典
  • その後、南北朝時代にはこれらに加えて野上荘全体が高野山領となるが、江戸時代になると再び梅本川が境界となり、小河荘を東西に分割する形で西側が紀州藩領、東側が高野山領となった。このため、この話の舞台となる戦国時代末期には地域全体が高野山領であったと考えてよい。
  • 以上のような経過について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」では次のように解説されている。

野上荘と小河柴目荘
 当町域には、野上荘小河柴目荘があった。野上荘は、延久4年(1072)の太政官牒によれば、すでに治安2年(1022)石清水八幡宮の荘園となっている(石清水文書)。荘内には石清水八幡宮の別宮が勧請され、これが野上八幡の起源となった。東隣の神野(こうの)荘・真国荘と境を接していて、その境の佐々小河(現梅本川、佐々小河西峰をめぐって12世紀半ばごろより相論(筆者注:そうろん 紛争すること、特に土地を巡る争いを指すことが多い)が起きている。
 康治2年(1143)の神野真国荘絵図神護寺蔵)によれば、佐々小河の東側に牓示(筆者注:ぼうじ 領地などの境界を示すために立てられた杭・石・札などのこと)があって、野上荘の地が川の東側に及ぶようになっている。
 寿永元年(1182)に神野荘・真国荘の領家職が神護寺に寄進されて間もなく、文治2年(1186)に神護寺の僧行慈が、野上荘の佐々小河村で押領したり、民家を焼き払うなどの押妨を働いたと、石清水八幡宮所司らが訴えている早稲田大学荻野研究室所蔵文書)
 鎌倉後期、弘安3年(1280)にはその境の地を含む小河・柴目両村に高野山の支配が及んでいることが知られ、元弘3年(1333)この両村が後醍醐天皇勅裁によって高野山領として確定された(束草集)。その直後、小河・柴目両村は、小河柴目荘としてみえ、その番頭百姓が高野山に対して敵対せず、大小の課役を勤めるべく起請文を差し出している。
 以後、室町期にもこの荘名がみえ、室町中期以降になると小河の地を小河荘とも称している。
 なお、近世には、柴目は野上荘に含まれて和歌山藩領となったが、小河は小川荘と称され高野山領として存続した。
※筆者注:改行は筆者による。

 

  • 織田信長は各地の宗教勢力と敵対しており、中でも元亀2年(1571)の比叡山延暦寺で行われた戦いは凄惨を極めたと伝えられている。高野山との関係は、天正8年(1580)、信長に反旗を翻した荒木村重の家臣を金剛峯寺が匿い、探索に来た信長の家臣を殺害したことから急速に悪化した。天正9年(1581)には信長が諸国の高野聖(こうやひじり、高野山の信仰を広めるために全国を遊行する僧)数百人を捕らえて安土で処刑しており、これを端緒として高野攻めが行われたとされる。信長による高野攻めについては享保4年(1719)に成立した高野山編年史高野春秋編年輯録」に詳細が記載されているものの、信長方には明確な記録がなく、大規模な戦闘があったか否かは不詳であるが、天正10年(1582)6月に本能寺の変が発生したことにより高野攻めは終了したとされている。

 

  • メモ欄中、野上電鉄は平成6年(1994)に廃線となった。「登山口」駅には現在大十オレンジバスの停留所がある。

 

*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。