生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

蛇岩大明神 ~美里町(現紀美野町)上ケ井~

 弘法大師上ケ井(あげい)の里を通ったとき。道にいた小さな蛇をまたいだところ、蛇は「わしは上ケ井の里の守り神じや。またぐとは何じゃ」と怒り、見る間に大蛇になった。そして「わしは大きくも小さくもなるんじゃ」と、今度は小さくなって岩の中へ入ってしまった。そこに建てたのが蛇岩大明神。4月1日の「蛇岩さんの祭り」は、餅投げもあってにぎわう。

 

 ところで、このお宮は、合格祈願の神さまとして、つとに有名。蛇の好物という生卵を供えて、ひとつだけ祈願するとご利益があるという。地元だけでなく、和歌山あたりからも訪れる人が多い。地元では、初詣での社としても親しまれている。

 

(メモ:野上電鉄登山口駅から神野市場までバス、そこから徒歩1時間。車なら海南から約1時問。ここから清水町との境界までは1キロたらず。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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蛇岩大明神
  • 蛇岩神社奉賛会が作成した「蛇岩の由来」によれば、当社創建の由来は次のとおりとされる。

伝説によれば昔諸国行脚の僧この坂を登りきた時、黄金色の一匹の蛇が道に横たわっていた。

僧は気にもせず股ごえで行こうとすると、蛇は急に鎌首をもたげ、「僧の身であり乍ら無作法だぞ」と怒り、みるみるうちに大蛇となり遙か向こうの山の光り松(今はなし)に胴をかけ真っ赤な炎を口よりはくもの凄さに僧は驚き深く非礼を詫び合掌黙したところ其の姿は消えて元の静けさにかえっていた。

僧は直ちに里人に謀り岩のある所から「蛇岩」として祀り始めたと言われる。

以来今日に至る迄一願必成の霊験あらたかな神として知られるところであります。

ちなみに僧は弘法大師と伝えられる。 

 

  • 紀伊風土記」巻之四十「那賀郡神野荘 三尾川村」には「蛇岩」の項目があり、「玉泉寺より南十八町許(ばかり) 山上遠井辻の下にあり 高一丈(約3メートル)許 横六尺(約1.8メートル)許 此岩の隙より時々小蛇の姿見えることあり 丹生明神の垂迹といひ伝ふ。」との記述があり、神社ではなく岩そのものが名所であったとみることができる。この記述にある通り、この岩は丹生明神(丹生都比売神垂迹(この世に現れること)したものであると考えられていたようで、祭神である「蛇岩大明神」は「丹生都比売神」と同一神とされる。なお、後述の十三神社でも境内社として第二宮に丹生明神が祀られている。

 

 

  • 紀美野町野中にある十三(じゅうさん)神社の祭神である十三柱の神(十三所大明神)が垂迹したのがこの蛇岩の地であるとの伝承がある。なお、十三神社の祭神については、蛇岩の伝承にあるように創建当初から「十三所大明神」を祭神としていた(後に河野氏により祭神の入れ替えが生じた)とも、当初は神代七世・神世五世の十二神を祀っていたが後に河野氏大山祇神大三島明神)を加えて「十三所権現」と呼ばれるようになったとも言われる。
    和歌山県神社庁-十三神社 じゅうさんじんじゃ-

 

  • もともとは、特別に崇敬される神のことを「明神」「大明神」と呼んでいたが、本地垂迹(日本古来の神々は仏教の神が姿を変えて日本に現れたもの、とする考え方)が広まるにつれて神と仏が一体的に考えられるようになり、きわめて雑駁に言えば仏教の側に軸足を置いて神の姿を見た場合に「権現」「大権現」、神道の側に軸足を置いて仏法を守護し衆生を救済する神を見た場合に「明神」「大明神」と呼ぶことが多くなった。

 

  • メモ欄中、野上電鉄は平成6年(1994)に廃線となった。紀美野町コミュニティバスが上ケ井地区を運行しているものの、便数は非常に少ない。自動車利用の場合は、国道370号線(高野西街道)の紀美野町樋下地区で平成大橋南詰を直進、「花いちばん KOIBITOひろば」を通り過ぎて県道美里龍神線へ。以後誘導看板があるものの道は険しい。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。