初生谷(ういだに)を過ぎ、真国川をさらに奥へ入ると、金の茶わんが流れてきたという鍋谷川がある。山深く、訪れる人も少ないが、孝行娘の話が残っている。
昔。この村の女が眼を患った。たった一人の娘は、遠く離れた神社へ毎日のように願をかけていたところ、ある晩、夢をみた。鍋谷川に茶わんが浮いていて、その茶わんで汲んだ水で母の眼を洗うと、とたんに治ったという夢だった。
翌日、その渕をみると、夢と司じように金の茶わんが浮いていたので、さっそく水を汲み、母の眼を洗うと、何と眼が見えるようになったではないか。評判の孝行娘のことだけに、村人も大喜び。それ以来、茶わんを拾ったところを「茶わん渕」と呼ぶようになったという。
その後、金の茶わんがどうなったか知る由もないが、この呼び名だけは今も残っている。
(鍋谷川と思われる小河川(後述)と真国川との合流地点付近)
- 上記本文では、鍋谷川について「初生谷を過ぎ、真国川をさらに奥へ入る」と書いているが、旧美里町が平成17年(2005)に発行した「美里町誌・自然編 わたしたちの町」に掲載された図によれば、初生谷の西側、真国宮と花野原の間で真国川の北側にある谷を「鍋谷」としており、この谷を流れる小河川を「鍋谷川」と呼ぶのではないかと思われる(上記googleマップ参照)。
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この物語は、和歌山県小学校教育研究会国語部会編著「和歌山の伝説(日本標準 1979)」において次のように紹介されている。
むかし、鍋谷(なべたに)川の川上に、木村という家がありました。母とむすめの二人だけのくらしでしたが、楽しくくらしていました。
むすめは、たいへん美しく、気だてがやさしくてよく働くむすめで、村のみんなからかわいがられていました。
ところが、おかあさんは、かわいそうに、ふとしたことから目が見えなくなり、むすめの手をかりなければ、すごせないようになりました。
むすめは、毎日毎日悲しんで、なんとかして、おかあさんの目をなおしたいと思い、村人から教えてもらったことは、どんなことでもやってみましたが、なかなかよくなりませんでした。
こうなったら、神さまにすがるより方法はない、と考えて、毎日朝の暗いうちから起きて、半里(約2キロメートル)の道を、雨の日も、あらしの日もいとわずに、お宮まいりをして、
「どうか、おかあさんの目がなおりますように。」
といって、手を合わせておいのりをしました。
冬の寒いある晩のこと、むすめはゆめを見ました。それは、鍋谷川の渕に、お茶わんが浮いていて、そのお茶わんで、おかあさんの目をあらうと、目はだんだんとよくなり、目が見えるようになったのです。
はっと、ゆめからさめると、もう朝がたでした。むすめはいつものようにお宮まいりに出かけました。冷えこみがきびしい朝でした。川の流れにそって下って行くと、川の渕にゆめで見た、お茶わんのようなものが浮いていました。むすめは、目を大きく開いてよく見ると、金のお茶わんでした。
ゆめの中と同じようなことが目の前にあらわれたのです。
むすめは、こおりつくような水の冷たさもわすれて、そのお茶わんをひろい、いそいでお宮まいりをすませて、金のお茶わんにきれいな水をくんで、家に持って帰り、
「おかあさん、目をあらってあげましよう。きっとよくなるから。」
と、やさしくいいながらあらってあげました。
すると、むすめのねがいがかなったのか、おかあさんの目は、ぱっと見えるようになりました。
おかあさんは、
「ありがとう。ありがとう。」
と、なみだをながしてよろこびました。
そして、このことが村じゅうにひろがって、村人たちも、
「よかった。よかった。」
と、自分のことのように大よろこびをしました。
そのことがあってから、お茶わんをひろった渕を「茶わんぶち」というようになりました。
それから後、二人は、しあわせな生活をおくることができたということです。しかし、その後木村という家も、金のお茶わんもどうなったかはわかりません。ただ、茶わんぶちという名まえだけが、今も残っているだけです。
(文・森本渉)
- 上記「和歌山の伝説」によれば、娘が母の祈願のために毎日参ったとされるお宮は鍋谷川の上流から約2キロメートルほど離れた場所にあったとされており、その位置関係を考慮すると、「真国丹生神社」がこの「お宮」に該当するのではないかと考えられる。
- 真国丹生神社は天文5年(1536)建立と伝えられ、無病息災、不老長寿、農業・養蚕にご利益のある丹生都比売命(にうつひめのみこと)を主祭神とする。
きみのめぐりコンシェルジュ@紀美野町観光協会 - 同神社には、「御田(おんた)の舞」あるいは「春鍬(はるくわ)儀式」と呼ばれる芸能が伝えられている。これは、「予祝芸能(予め祝福することでその事の実現を祈願する芸能)」の一種で、毎年旧暦の1月7日に神前において1年間の米作りの模様をお囃子と舞で演じることによって五穀豊穣を祈願するものである。地域住民の高齢化などにより一時は途絶えていたが、りら創造芸術高等専修学校(平成19年(2007)紀美野町真国宮に開校、現在は「りら創造芸術高等学校」)の一期生が平成21年(2009)に卒業研究の一環として復活させたことを契機として、同校の生徒により代々継承されている。
真国御田春鍬儀式 | 和歌山県文化情報アーカイブ
《地域から引き継ぐ伝統芸能》御田の舞を奉納 - ダンス・演劇・音楽・美術をプロから学ぶ りら創造芸術高等学校
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。