生石高原の麓から

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義人・内田馬之丞 ~打田町(現紀の川市)打田~

 慶安2年(1649)、打田の村人たちは、過酷な年貢の取り立てに塗炭の苦しみを味わっていた。前年、禁伐の山から用材を伐り出せという代官の命令を断わったがための仕打ちだった。

 

 だが、妻や娘までも売り払い、水がゆをすすって耐えしのんできた村人のがまんも、ついに限界にきた。
 「もうこれ以上、村の者を苦しめることはできない。」
 中ノ宮神社の神官、馬之丞は80の高齢をも顧みず、紀州藩主(初代頼宣)粉河詣での道中をねらって直訴した。
 幸い馬之丞は死罪を免れ、村人たちが法音寺の境内に恩徳碑を建てたという。

 

 かつての大和街道は打田駅のすぐ近く。そのわきの碑は、明治43年に建て替えられたものといい、馬之丞が直訴した山王神社の前は、ひろびろとした畑になっていた。そして馬之丞の墓も、子孫の生存もつまびらかではない。


(画像は法音寺)
  • 合併前の打田町が編纂した「打田町誌」には法音寺境内にある「内田馬之丞報恩碑」の全文が掲載されている。その内容は次のとおりであるが、馬之丞は山王神社に潜入したとされており、神官とはしていない(読み下しは筆者)。

今を去る262年前
打田村民暴吏のため困窮し、まさに塗炭の苦しみを嘗めんとす
時に内田馬之丞翁慨然として斯民を救う志あり
たまたま藩主粉河に詣ず
翁、機を見て山王神社の域内に潜入し
路傍に伏し、おもむろに訴状を捧げて遂に初志を貫遂す
村民安堵す
実に慶安元年(1648)翁年八十一才なり
佐倉義民の木内氏と殆ど同年時、亦一奇と謂うべし
明和中(1764 - 1772)、村民、地を村の北方に卜(ぼく)し
一堂を建てて以て翁霊の祠とし
翁の徳を紀念し、名付けて恩徳堂という
今、堂宇は廃頽(はいたい)し再建を要す
即ち相謀り地を此処に卜(ぼく)し
碑を建て
別に事蹟を録し、之を法音寺に蔵す
明治43年12月

  • 内田馬之丞については不詳。旧町名の「打田町」は、紀の川と烏子川の内側にあった田ということで「内田」と呼ばれていたものが「打田」に変わったという伝承があることから、地名をもって苗字としていたものか。前述の「打田町誌」では、当時百姓は苗字を名乗ることは無かったことから「打田村馬之丞」を「内田馬之丞」と伝えたものとの説を取っている。
  • 橋本市の「義人・戸谷新右衛門」の項において詳述しているように、碑文にある「佐倉義民の木内氏」は江戸時代後期から講談・歌舞伎の人気演目となった「佐倉義民伝」の主人公佐倉惣五郎を指す。明治に入ってから、自由民権運動の高まりとともに各地の義民伝承が取り上げられるようになり、ことに橋本市の戸谷新右衛門の話は義民伝承の代表的なものとして新聞や書籍で全国に紹介された。前述の報恩碑が建立された明治43年は、ちょうど中里介山(後に「大菩薩峠」で大人気作家となる)が「都新聞」紙上に戸谷新右衛門を主人公にした作品「高野の義人」を連載した年であることから、この碑の建立は橋本の戸谷新右衛門に勝るとも劣らない人物が打田に居たことを広くアピールするための一つの方策であったと見ることができる。

    義人・戸谷新右衛門 ~橋本市南馬場~ - 生石高原の麓から

  • 碑文の内容は伝承に基づくものであり、現存する文献資料等とは一部矛盾する点があるため全てを真実とすることはできないものの、百姓らからの願出に基づいて検地の見直しが行われたことは間違いないとされている。
  • 和歌山県地名大辞典(角川書店」の「打田村」の項によれば、「慶長検地高目録」では村高1,746石余であったものが、元禄2年(1689) の「田中組指出帳」では村高1,201石余に減少している。これについて同辞典では次のように解説している。

元禄2年に村高が減少している。これについては当村百姓中が奉行あてに提出したと思われる願書の写が現存しており、本文書や言い伝えによれば、慶長検地が厳しすぎたため内田馬之亟なる人が藩主に直訴し、その後再検地が行われ修正されたという。

  • 馬之丞が神官を務めていたという中ノ宮神社(中村神社)は、昭和20年(1945)に一之宮神社若宮神社とともに日吉神社の社地に移転し、翌21年(1946)に日吉神社を含む4社をあわせて東田中神社と改称した。
  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「那賀郡 田中荘 打田村」の項には「中ノ宮」として次のような記載がある。なお、この時点では神主は井畑氏となっており内田氏ではない。

村中にあり 
荘中8社の一にして打田、上野、窪、東大井四箇村の産土神なり
祀神詳ならす 
此の社の巽に若宮八幡あり これを上ノ宮といふ 
尾崎村にある若宮八幡宮を下ノ宮と称ふ 
此の神社その中間にあれば中の宮と称するならむ 
上下両社は同神なれとも当社は万事別なれは別神なるへけれとも
其の神いまた考え得す 
古は社田三町餘あり 天正の後廃絶すといふ 
神主井畑氏なり

村の東の端にあり 
打田、上野、花野、中井坂、下井坂、阪馬場、西大井、東大井、黒土、竹房、窪11箇村ノ産土神なり 田中ノ荘8社の一にして総社といふ 
相伝ふ天長年中慈覚大師 勅命を蒙り江州坂本より勧請す 
因りて祭礼の式坂本の如し

又「源平盛衰記」に曰 
嘉保2年(1095)叡山ノ衆徒訴訟の事に因りて洛中に押来り陣頭へ参る 後二条関白師道公中務丞頼治といふ侍に命して法に任せて禦ぐべしと下知せられたれは頼治散々に禦きて疵を蒙る神民6人死する者2人祢宣友實が背に矢立ければ社司寺官皆逃れ帰りぬ 

夫れより一山の衆徒関白殿を呪詛しけるとそ 関白殿の夢に比叡の大嶽己れの身に頽れ壓り又東坂本の方より鏑矢来りて寝殿の上に立つとみて夢さめて青侍をして見せしめらるヽに寝殿の狐戸にしでの付たる榊一本立たり又殿の髪際に悪瘡出来ければ御母儀并に北政所嘆かせ給ひて様々の御祈あり 

紀伊ノ国田中ノ荘は殿下の荘園なれとも八王子に御寄付あり これに依りて問答講とて後々まても退転なしとなり 
此の事長瀬本平家物語にも出たり

或説に此の地に山王を祀るは此の時より始まるといへり 
今按するに旧より此の地に山王を祀り来りしに嘉保2年より此の荘を叡山に寄付せられしより此の社益々繁栄して社殿等壮麗を極め荘中8社の総社なといふに至りなるへし 
社領も4町9段餘なりしといふ 
天正の兵火に社堂雑舎神宝文書等悉焼亡して社田神祭も皆廃絶す 
其の後氏人等再造営せり 
古に復するには足らすといへとも祠宇(しう やしろ)頗(すこぶる)盛なり 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。