生石高原の麓から

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虎御前 ~打田町(現紀の川市)池田新~

 神通へ向う打田線の途中。玉ネギ畑の奥の権現寺の土塀は朽ちかけていた。その境内右はずれの一角に、曽我十郎の愛人だったという虎御前の墓がある。

 

  昭和55年5月建立の石碑の中央に「曽我家先祖代々覚霊菩提」。右側に「高宗院殿峯岳良雲大禅定門」(十郎)、左に「貞巌院玉浦禅定尼」()の戒名。すぐ前に、幅50センチ、長さ1メートルばかりの平べったい石。かつてはその上に、虎御前の丸っこい墓石があったとか。そして左手に、虎御前の守り本尊という「地蔵尊」の像。


 虎御前がこの地へ来たのは、建久4年(1193)。富士のすそ野で、父の仇、工藤祐経を討ったあと捕えられ、誅殺された五郎、十郎兄弟の遺骨を抱いて熊野へ詣でる途中、ここで病死したといい、いまも兄弟の位牌や、二振りの守り刀などが残るという。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

  • 虎御前(とらごぜん)は鎌倉時代初期の遊女。「日本三大仇討ち」のひとつとされる「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我五郎・十郎の兄弟のうち、兄の曾我十郎祐成(そが じゅうろう すけなり)の妾。
  • 「日本三大仇討ち」とは、「曾我兄弟の仇討ち」「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」を指し、かつて武士社会においては仇討ちの模範とされた。
  • 曾我兄弟の仇討ち鎌倉時代初期の建久4年(1193)の出来事であるとされ、鎌倉幕府が編纂した歴史書である「吾妻鏡」にもその記録があるものの、同書が書かれたのは事件から約100年後であるため、どこまでが事実であるかは諸説ある。
  • 曾我兄弟の仇討ちが有名になったのは、鎌倉時代頃から大衆の間で広まった芸能・文芸としての「軍記物語」によるところが大きい。曾我兄弟の仇討ちをテーマにした軍記物語は特に「曾我物語」と呼ばれ、当初は主に歩き巫女(特定の神社に所属せず全国各地を遍歴して祈祷や勧進などを行う巫女)や瞽女(ごぜ、女性の盲目の旅芸人)などによる口承で全国に広められた。最初に口承を始めたのは本文にある虎御前であるという。
  • 書物として残る「曾我物語」には多数の異本があり、作者は不詳であるが、現在確認されている最古のものは「真名本(まなぼん)」と呼ばれ、室町時代の天文15年(1546)に書写されたとの奥書がある写本である。
  • 口承により人気を博した曾我物語はやがて人形浄瑠璃で取り上げられるようになり、江戸時代には「曾我もの」として歌舞伎の人気作品となった。特に、「荒事(超人的な能力を持つ主人公が悪人退治に大活躍する出し物)」という表現様式を確立したとされる初代市川團十郎(1660~1704)が演じた曾我五郎は大当りとなり、これ以後歌舞伎の正月興行には欠かせない出し物となった。
  • 曾我物語の中心となるストーリーは次のとおり。但し、長年にわたり歌舞伎の正月興行で毎年のように新作が上演されていたため、本筋とは直接関係のないサイドストーリー的な物語も多い。

平安時代の末期、伊豆の伊東荘の領主の嫡男であった工藤祐経くどう すけつね)は、父が幼い頃に亡くなったため、叔父・伊東祐親(いとう すけちか)が後見となった。しかし、祐親はかねてから領地について不満を持っており、工藤が平重盛に仕えて上洛している間に伊東荘を占拠してしまった。
工藤は訴えを起こしたものの奏功せず、これを恨みに思って伊藤祐親とその子・河津祐泰(かわづ すけやす)を襲撃し、祐泰が落命した。


河津祐泰の遺児となった5歳の一萬丸と3歳の箱王丸の兄弟は、母の満江御前相模国曾我荘の領主・曾我祐信と再婚したことにより曾我姓を名乗ることとなったが、実の父の仇工藤祐経であることを知って仇討ちを決意する。


平氏が倒れ、鎌倉幕府が開かれた頃、兄の一萬丸は曾我氏を継いで曾我十郎祐成(そが じゅうろう すけなり)となった。
弟の箱王丸は父・河津祐泰の菩提を弔うため箱根権現社にて修業を積んでいたが、元服した後は曾我五郎時致(そが ごろう ときむね)と名乗った。


建久4年(1193)、源頼朝が富士の裾野で盛大な巻狩(軍事訓練を兼ねた大規模な狩猟)を開催した。これに工藤祐経も参加していたことから、曽我兄弟は巻狩最後の夜にひそかに寝所に押し入り、ついに親の仇である工藤祐経を討ち果たした。
騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちに取り囲まれた兄弟はここで10人斬りの働きをするものの、兄の祐成はこの場で討たれ、弟の時致は、取り押さえられたのち斬首された。

  • 曽我物語の成立は鎌倉時代の初期であり、武士社会の体制が固まりつつある時期であったが、この物語はいわゆる「かたき討ち」制度の源流であるものと位置づけられており、ある意味で武士社会の倫理規範を示すものとして大衆に受け入れられたものと考えられる。また、歌舞伎などの大衆芸能にあっては、仇討ちの場面よりもむしろ、兄弟が仇討を決意して長年にわたり艱難辛苦を乗り越えていく、またその過程で様々な人々と関わっていく、というサイドストーリーの豊富さと面白さが人気を博した秘訣であったと言える。
  • 現在、演劇学校やアナウンサー養成所などでその台詞(拙者親方と申すは、お立ち会いの中に、御存知のお方も御座りましょうが・・・)が活舌の練習教材となっている「外郎売(ういろううり)」もいわゆる「曾我もの」のひとつである。この物語では、父の仇である工藤祐経のもとへ外郎売が現れて外郎(薬)の故事来歴や効能を弁舌鮮やかに述べ立てるが、実はこの外郎売は曾我五郎であり、その場にかけつけた兄の十郎と共に工藤を討とうとするものの、工藤は兄弟に時節を待つように言い、両者は再会を約束して別れる・・・、という話になっている。
  • 曾我物語によれば、曾我兄弟はいずれも早くから父の仇を討とうと考えていたので妻を持つことを考えていなかったが、弟時致の勧めにより兄祐成は妾を持つことになり、自分の死後のことを考えて遊女を選んだとする。このとき祐成20歳、虎17歳であった。
  • 本文では虎御前がこの地を訪れたのは建久4年(1193)のこととされているが、和歌山県大正12年から14年にかけて作成した「和歌山県史蹟名勝天然記念物調査会報告」の第4輯には「虎御前墓」として次のような記述があり、大日本史抄録の記述に基づき寛元3年(1245)正月に71歳で亡くなったとしている。

所在地
那賀部池田村大字池田新五番地 三熊山陽瀧院權現寺境内

管理者
那賀那池田村大字池田權現寺 住職 小野啓典

由来伝説 
大磯 母は大磯の長者某の女にして父は伏見大納言なり
虎は歌を善くし容貌美なり、
曾我祐成廔廔(しばしば)大磯に遊び虎を見て之を悦ぶ
虎亦相愛す、

祐成讐を報して闘死するに及び箱根山に登り僧行實に請て祐成の冥福を修し遂に尼となり信濃善光寺に往く 年十九、寬元三年正月紀州熊野に沒すと 年七十一。(大日本史抄録)

寺記に依れば虎御前は曾我兄弟の死後其の遺骨並に遺物を携えて遙々熊野に詣で之を奉納せんと志し、大磯を出て二十餘日を費して紀伊路に入りしとき俄に病にかゝり、今は容易に歩を運び難し、偶々此の地に熊野權現を祀りし社あるを聞きて、虎うれしと思ひ辛ふじて當寺に詣で合掌して程なく息絶えたり、里人及寺僧之を葬り碑を建つ、後文明元年(死後二百二十四年)寺僧願海阿闍梨曾我の遺骨を高野山に納めたりと

寺の東方丘上に虎御前の墓あり、碑面に玉浦禪定尼と鐫(ほ)ると紀伊名所図繪にあれど、今殘存せるは笠石のみ

現状
寫真版に見ゆる如く一個の笠石五個の球形の小石を一枚の緑泥片岩の臺石の上に載せたるのみ 
寺寶とせるものには
 曾我兄弟の守刀二口
   一口は九寸五分無銘にして、他の一口は一尺二寸信舍と銘あり
 曾我十郎祐成自詠自筆ノ歌
   けふとてゝめぐりあはずばおぐるまの
   この世のうちになしとしれきみ
 曾我兄弟ノ位牌
   高崇院殿峯岳良雪大禪定門
     十郎祐成  建久四癸丑五月二十八日
   膺嶽院殿士山良富大居士
     五郎時致  建久四癸丑五月二十九日
 大磯虎の竹杖一本 三尺五寸 煤竹に草花及び文字の毛彫あり

保存の要件
附近の空地は以前竹籔なりしが近年開墾して桑畑となり、やうやく十四坪ばかりの地積は取殘され居れり、石碑も十数年前までは完全なりしに、何時となく荒廢に歸して現状を呈するに至りしは遺憾なりとす、圍柵を作りて保存を要す 

  • 前述の「真名本」によれば、虎御前は熊野、太子、吉野などを回国し、天王寺に滞留したあと、東海道を下って曾我の里で兄弟の一周忌を行ったとされる。このほか全国各地に虎御前にまつわる伝承があり、大磯町(神奈川県)、足柄峠静岡県)、大分市などには虎御前ゆかりの「虎が石」があるほか、朝来市兵庫県)にも虎御前のがある。当地も含め、こうした各地の伝承は、初期に曾我物語を全国に口承で広めた歩き巫女らが自らを虎御前と称したことに由来するのではないかと考えられる。
  • 権現寺の周辺は京奈和自動車道や県道泉佐野打田線などの整備が進み、大きく様変わりしている。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。