広い境内は、閑散としていた。大門のあたりのざわめきも、枯山水の石庭のあたりまでは届かず三々五々、本堂を訪れる参拝客の、ひそやかな話し声だけ。
宝亀元年(770)、この地の猟師、大伴孔子古(おおともの くじこ)の開創になるという粉河寺には、本尊・千手観音にまつわる話や遺跡が、いくつか残る。そして鎌倉初期(12世紀後半)の作という国宝「粉河寺縁起」には、千手観音の奇蹟と霊験が記される。
「父母の恵みも深き粉河寺 仏の誓いたのもしの身や」~。西国三番札所のここは、いまもなお多くの善男善女たちが、はるばると訪れる信仰の地だ。
(メモ:国鉄和歌山線粉河駅から徒歩15分。国道24号線から一キロ。石庭は国指定文化財、大門と童男堂は県指定文化財。)
- 風猛山粉河寺(ふうもうざん/かざらぎさん こかわでら)は天台宗系の粉河観音宗総本山で、西国三十三所観音霊場の第3番札所。
- 粉河寺の創建については「粉河寺縁起絵巻(こかわでら えんぎ えまき)」に詳しく描かれている。同絵巻は、天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州征伐で粉河寺が焼失した際に甚だしい焼損を受けて一部が失われているものの、作者不詳ながら我が国の絵巻物の代表的作品の一つとして高く評価されており、国宝に指定されている。
粉河寺縁起絵巻 - Wikipedia
第59回『粉河寺縁起』第一話「猟師の家」を読み解く | 絵巻で見る 平安時代の暮らし(倉田 実) | 三省堂 ことばのコラム
第58回『粉河寺縁起』第二話「長者の家」を読み解く | 絵巻で見る 平安時代の暮らし(倉田 実) | 三省堂 ことばのコラム
- 粉河寺縁起絵巻には、大きく分けて二つの物語が描かれている。その一つは粉河寺の草創と本尊千手観音像の由来に関するもので、もう一つは千手観音の霊験にまつわるものである。これについて、粉河寺のWebサイトでは次のように説明している。
奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む猟師大伴孔子古(おおともの くじこ)は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。
後日、一夜を泊めてもらった童行者(どうぎょうじゃ、髪を剃っていない有髪の修業者)は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が訪ね来て千手陀羅尼(千手観音の功徳 を説いた経)を誦して祈祷、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去った。
翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川を遡り庵を発見した。扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。
粉河寺の草創と沿革|粉河寺|西国第三番札所|厄除観音|和歌山紀の川市
- この絵巻に登場する河内の長者佐太夫というのは、現在の東大阪市の名士である塩川家ゆかりの人物あるとされている。小泉内閣時代に財務大臣を務め、「塩爺(しおじい)」の愛称で親しまれた元自民党衆院議員の故塩川正十郎(しおかわ まさじゅうろう)氏はこの塩川家の末裔とされ、山門には正十郎の父である塩川正三が巨額の寄進を行ったことを記念する石碑がある。
塩川正十郎 - Wikipedia
- 粉河寺の本尊である千手観音像は絶対の秘仏とされており、火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされるが、創建以来一度も公開された記録はない。本堂内陣には、「お前立ち」像と呼ばれる千手観音像が安置されているが、この像も「秘仏」とされており、毎年12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、一般公開はされたことがない。この「お前立ち」像と似た姿であると伝えられる千手堂の千手観音像は、平成20年(2008)に西国巡礼中興の祖である花山法王の一千年御忌を記念した「西国三十三所結縁御開帳」の際に一般公開されたことがあるが、これも記録上は217年ぶりの公開であったとされている。
わかやま新報:10月に217年ぶりのご開帳 粉河寺の千手千眼観世音菩薩/和歌山
- 内陣背面に安置された「裏観音」と称する千手観音像は拝観可能であり、一般的な参詣ではこの裏観音を拝観することになる。裏観音については、令和2年(2020)に西国三十三所巡礼1300年を記念して京都国立博物館で開催中の特別展「聖地をたずねて-西国三十三所の信仰と至宝」で展示が行われている。
特別展「聖地をたずねて―西国三十三所の信仰と至宝―」 京都国立博物館で開催中 – 美術展ナビ
- 西国三十三所(さいごく さんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)」では、観世音菩薩が衆生を救うときに33の姿に変化すると説かれており、これに基づいて33の霊場を巡拝することにより、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。日本で最初の巡礼であり、令和元年(2019)度、文化庁により「1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜」として「日本遺産」に認定された。
- 日本遺産のWebサイトでは西国三十三所の起源について次のように解説されている。
「中山寺由来記」によれば、西国三十三所観音巡礼を始めたのは、徳道上人という僧侶であった。養老2(718)年、徳道上人は突然の病により、仮死状態に陥った。
そこで冥途に赴いたところ、閻魔大王に出会う。閻魔大王はこのように告げた。「世の中が乱れ、人の心が荒んでいる。そのため、生前の悪行によって地獄に堕ちるものが多くなった。あなたは観音の教えを広め、人々を巡礼に導きなさい」。そして、33の宝印と起請文(誓いの文書)を託され、上人は現世に戻された。
上人は各地の観音の霊地で閻魔大王から授かった宝印を配った。閻魔大王の約束の証である宝印を33すべての寺院で集めると、極楽浄土への通行手形となる。これが西国三十三所観音巡礼の始まりであり、現在の「御朱印」の発祥である。一度は廃れてしまった西国巡礼であったが、徳道上人亡き後、花山法皇がお告げに従って自ら三十三所を歩み、これを再興した。その時、参詣の証に寺院に札を打ち付けたことから「札所」と呼ばれるようになり、花山法皇がそれぞれの寺で観音を称えて詠んだ歌が「御詠歌」となった。
- 本文にもあるが、粉河寺の御詠歌は次のとおり。
ちちははの恵みも深き粉河寺 佛の誓ひたのもしの身や
国宝 紙本著色粉河寺縁起絵巻 1巻(絵画)
京都国立博物館に寄託。
重要文化財 本堂、千手堂、中門(附・棟札1枚)、大門
国の名勝 粉河寺庭園
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。