生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

籠祇王物語 ~粉河町(現紀の川市)粉河~

 粉河寺から東へしばらく行くと、小山にはさまれた小広い一角にたどりつく。このあたりが白拍子祇王(ろうぎおう)が、捕われの父のために舞いを舞ったところという。

 

  はるばる京へ上り、当代随一の白拍子となった祇王。前途ある若者の身代りとなって牢につながれた父親。観音さまのお告げでそれを知る娘~。謡曲にもうたわれるこの物語には、父と娘の、切っても切れない情愛のきずなと、観音さまのありがたいお慈悲が底流にある。

 

 だが、小田用水の流れるそのあたりは、一面にミカン畑がつらなり、小山の両側には、新しい団地がひろがって、ただ「舞田」の地名が残るだけ。そして水門のコンクリート柱に残されたスプレーの落書きが“時代”を感じさせてくれる。
 ふと振り返った南の空に、竜門山が立ちはだかっていた。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

中央付近の水田地帯周辺が「舞田」

 

  • 祇王」は成立年不詳の謡曲(能の声楽部分のみが独立したもの)の題名で、世阿弥の長男とされる観世元雅(かんぜ もとまさ)の作との説もある(下記の岩崎正彦氏による考察ほか)。上記本文では「祇王」を白拍子の名前としているが、正しくは「祇王」であり、「籠(かご)」に囚われた父と「祇王、あるいは「籠の鳥」として清盛に囲われた「祇王、というような意味を表したものであろうか。

 

  • 「籠祇王」の主人公たる祇王(ぎおう)は、「平家物語」第一巻の6「祇王」に登場する白拍子(しらびょうし)白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて広まった歌舞の一種で、男装で歌や舞を披露する遊女のことを言うが、貴族の屋敷に出入りすることもあり見識の高い者が多かったとされる。

 むかし、太政大臣平清盛公、出家してからは浄海と申し上げるお方がいらっしゃいました。天下の権力を一手に握り、傍若無人に振る舞っておいででした。そのころ都に祇王(ぎおう)祇女(ぎにょ)という有名な白拍子(しらびょうし)の姉妹がおりました。白拍子というのは、今様という流行歌を歌ったり舞を舞ったりする女の芸能者のことです。)清盛公は、祇王をことのほかお気に召していらっしゃいました。

 そのおかげで、妹の祇女や母の刀自(とじ)も丁重に扱われ、立派なお屋敷を建てていただき、毎月たくさんのお扶持を賜って、何不自由なく豊かに暮らしておりました。都の白拍子たちはみな、祇王をうらやんだりねたんだりしていました。

 ところがそうして三年ほどたった頃、仏御前(ほとけごぜん)という十六歳の白拍子が都にやってきて、古今まれなる舞の名人と大評判になりました。仏御前は、「同じことなら天下の清盛公の御前で……」と思い、西八条にある清盛公のお屋敷へ自ら参上しました。祇王に夢中の清盛公は、「召してもおらぬに、突然参るとは無礼な」と怒り、追い帰そうとなさいました。しかし、まだ幼い仏御前に同情したのでしょうか、祇王が「せめてお会いになるだけでも」と取りなしましたので、清盛公も折れて、仏御前をお召しになりました。

 仏御前は、清盛公のご命令で今様を歌い、舞も披露しました。姿形が美しい上に、声がきれいで歌は上手、もちろん舞も引けを取るものではありません。その舞いぶりに感心した清盛公は、仏御前をすっかり気に入って、屋敷に留め置こうとなさいました。

 仏御前にとって、祇王は恩のある人。その祇王に遠慮して退出することを願いましたが、清盛公はお許しにならず、それどころか「祇王を追い出せ」とのご命令です。催促のお使いが何度も参りましたので、祇王はやむなく出ていくことにしました。さすがに三年も住んだ所ゆえ、名残惜しさもひとしおです。襖にこのような歌を書き残してから、車に乗り込みました。

 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に逢はで果つべき

 (芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、秋になると枯れ果ててしまうのです。人もまた、誰しもいつかは恋人に飽きられてしまうのでしょう)

 

 実家に戻った祇王は、母や妹の問いかけにも泣き伏すばかりです。やがて毎月のお扶持も止められて生活は苦しくなり、代わって仏御前の縁者が富み栄えるようになりました。祇王が清盛公に追い出されたと聞きつけて、手紙や使者を遣わす男たちもおりましたが、祇王は今さら相手にする気にもなれず、ただ涙にくれる日々でした。

 翌年の春、清盛公からの使者がやってきました。「参って歌うなり舞うなりして、仏御前の所在なさを慰めよ」との仰せです。祇王はただ泣くばかりで、お返事もできません。はその様子を見て、「男女の仲のはかなさは世の習い。この天が下にある限り、清盛公に背くことなどできるものではない。この老いた母への孝行と思って、仰せのとおり参上しておくれ」と、涙ながらに教訓しました。

 母にそう言われては仕方なく、祇王は祇女とともに西八条のお屋敷へ参りました。いつもの場所よりずっと下がった所に座らされ、我が身の境涯の変化を改めて思い知ります。清盛公は仏御前の取りなしも聞き入れず、祇王に今様を歌わせました。祇王の哀切な歌声に、並み居る人々は感涙を抑えられず、清盛公も上機嫌のご様子。またもや辛い目にあった祇王は、泣く泣く我が家へ帰ったのでした。

 

 祇王に向かって、「生きていればまたこのような辛い目にあうかもしれません。もう身を投げて死んでしまおうと思います」と訴えました。祇女も、「お姉さまが死ぬとおっしゃるのならば、私もご一緒に」と言います。母はまた涙ながらに、「お前が私を恨むのも無理はないけれど、二人の娘に死なれては、私も生きていられようか。そんな親不孝の罪を犯さないでおくれ」と教訓しました。

 そこで祇王は自害を思いとどまりましたが、このまま都に住んでいては再び辛い目にあうかもしれないと、嵯峨野の奥の山里に草庵をしつらえ、尼となって引きこもりました。母や妹もそれに従い、ひたすら後生を願って念仏を唱える生活に入りました。時に祇王二十一歳、祇女十九歳、は四十五歳。やがて季節は巡り、秋がやってきました。夕日が西の山の端に沈むのを見ても、尼たちは西方極楽浄土を思うのでした。

 その夜、母子三人が念仏を唱えていると、竹の編戸をトントンとたたく音がします。みな驚いて、「こんな山里へ、しかも夜更けに、誰が訪ねて来るものか。きっと魔物が念仏の邪魔をしにきたにちがいない」と恐ろしがっていました。

 「でも開けないというのも不人情。きっと仏様がお守り下さるでしょうから」と思い直して、念仏を唱えながら編戸を開けてみると、そこにいたのは魔物ではなく、あの仏御前でした。祇王は「これはまあ、仏御前殿ではありませんか。夢ではないかしら」と、目に涙をためています。

 仏御前は、「ご恩を受けましたあなた様をかえって追い出すことになってしまい、心苦しく存じておりました。また、我が身もいつ同じ目にあうことやらと思うと、清盛公のご寵愛すら全くうれしくもございませんでした。みな様ご一緒に出家を遂げられたと承りましてうらやましく、はかないこの世の楽しみにふけるよりは後生を願いたいと思い、清盛公のお許しはいただけませんでしたが、今朝忍んで出て参ったのでございます」と言って、かぶっていた衣を取りますと、現れたのはなんと髪を下ろした尼の姿でした。

 仏御前は「この尼姿に免じてこれまでのことはお許し下さいませ。もし許していただけるなら、ここでみな様とご一緒に念仏して後生を願いとうございます」と熱心に頼みます。それを聞いた祇王も、「あなた様がそれほどまでに思っていらっしゃるとはつゆ知らず、あなた様をお恨み申し上げたこともございました。その恨みも今となっては晴れました。私たちは世を恨んで出家いたしましたが、あなた様は何不自由ない身で、しかも十七歳という若さで自ら髪を下ろされました。何という尊いおこころざしでしょう。あなた様こそ私たちを極楽へ導いて下さる方です。ご一緒に後世を願いましょう」と涙ながらに答えます。

 四人の尼たちは一心に後世を願って念仏を唱えて暮らしました。その甲斐あって、最後には四人そろって極楽往生を遂げたということです。 南無阿弥陀仏

挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第7話 祇王 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

 

  • 祇王らが暮らした奥嵯峨の庵は往生院という寺に属しており、この故事により同寺はやがて祇王寺と呼ばれるようになったが、明治初年に廃寺となった。その後、これを惜しんだ大覚寺門跡楠玉諦師の尽力により、明治28年(1895)に元京都府知事北垣国道氏が所有する別荘の寄付を受けて現在の祇王寺が再興された。現在の祇王寺には、「妓王妓女佛刀自の旧跡 明和八年辛卯正当六百年忌 往生院現住尼 法専建之」の石碑があり、この碑の右側に祇王のことと思われる「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八月十五日寂」の文字が刻まれている。
    祇王寺について | 祇王寺

 

 

  • 謡曲「籠祇王については、高橋半魚(高橋明彦)氏が運営するWebサイト「半漁文庫」内にある「謡曲三百五十番 (utahi) ◆ いまはなにをかつゝむべき」の項においてテキストデータがダウンロード可能である( yo115.txt[籠祗王])
    UTAHI.半魚文庫
  • 岩崎雅彦氏は、「中世文学49巻(中世文学会2004)」に掲載された「『景清』の位置 -能作史上における-」において、「籠祇王」のあらすじを次のようにまとめている。

 紀州粉河の某は隣郷の林の某と口論し、敵方の若者を捕えて牢に入れ、所の地下人祇王の父)に番をさせていたが、番の者が囚人を逃がしたので、代わりにこの番の者を籠舎させた。
 粉河の某は下人に番を言いつける。

 都に住む祇王は父の籠舎を聞き、従者とともに粉河へ下る。
 従者が下人を通して父への面会を申し入れると、粉河の某は面会を許す代わりに祇王に舞を所望する。

 祇王は父と対面し、父は囚人を逃がしたいきさつ(筆者注:囚人は争いの当事者ではなく、まだ年も若く親が嘆くであろうから、我が身は罪に問われようと、助けるのは菩薩の行いであると思う一念であった)を語る。

 祇王は泣き沈み舞を舞うことを固辞するが、父に諌められ、父から相伝した舞を舞う〔序ノ舞〕
 父と祇王は数珠と経を取り交わす。

 粉河の某が父の首を討とうと太刀を振り上げると、経の光に目が舷んで太刀を取り落とし、太刀は二つに折れる。
 粉河の某は父を許し、祇王は父とともに帰って行く。

「景清」の位置

 

江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」には、「祇王舞田」の項があり、謡曲「籠祇王」にある祇王ゆかりの地であると記載されている。

紀伊国名所図会「妓王の舞田の故事」 

紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻 三編(一之巻) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

  • 大正12年から14年(1293 - 1295)にかけて発行された「和歌山県史蹟名勝天然記念物調査会報告 第4輯和歌山県)」には、「祇王舞田」の項があり、次のような報告が掲載されている。但し、ここでは報告者(重田重一氏)の見解として、この地に祇王という人物の墓があったことは認めるものの、これが平家物語に登場する祇王と同一人物であったかどうかは疑わしいとしている。

祇王舞田
   委員 重田重一報告
所在地
 那賀郡粉河
現状
 県立粉河高等女学校より東方一帯洪積層の高台地域は水蝕によりて南北に並走せる数條の谷及び峰を形成せり。谷は海拔50メートル 峰は高き所にて100メートル位、而して学校より東方三つ目の谷は即ち小字名を舞田と呼ぶ所にして小田井の小流を限り南は花山白河両法皇熊野行幸の御時仮宮とせられし御跡と称する御所の芝の地にして 其の北は即ち祇王の舞田なり 谷を縦走して王子村井田より粉河町中の方に通ずる小径あり
 現時其の谷筋は水田にして西峰は山林、東峰は密柑山なり 人家に遠く離れ又遺跡トシテ何等の証徴すべきものなけれども謡曲祇王より推して此の地を祇王が父の罪を赦されんがために歌舞せし地なりと言い伝う、なお牢ノ內立聞ノ薮等地名もその附近に残れり
(略)
 長田村大字長田中阿彌陀堂は林氏の支配にして祇王祇女の墓は此にありしが安永年中(今より150年前 筆者注:1772 - 1781)住僧大和国へ携え行きしと 按ずるに紀伊国名所図会にも祇王はもと粉河の産なる由見ゆれども平家物語など見ゆる平清盛に仕えし祇王と果して同一人なりや疑わし 新群書類従、西澤文庫にも
  城州嵯峨往生院の開山妓王妓女は江州野州郡永原村北村中北村の出所にて恵那九郎時長の娘也
とあり

※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字及びかなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

  • 小田井用水は、紀ノ川から取水した水を紀ノ川北岸の田畑へ供給するために江戸時代に開削された水路で、総延長は現在の橋本市から岩出市まで約33kmに及ぶ。宝永4年(1707)、紀州徳川家藩5代藩主吉宗の命を受け、旧学文路村の庄屋であった大畑才蔵が指揮を執り完成させた。現在の水準器と同じ仕組みの「水盛台(みずもりだい)」やサイフォンの原理を利用した「伏越(ふせこし)」など、高度な土木技術を駆使して作られた用水路は約1000haもの田畑を潤し、その大半が改修を受けながらも現在まで利用され続けている。河川に強固な直線堤防を設けて氾濫原を新田として開拓するとともに、川に並行して長大な用水路を設けて周辺地域の水不足を解消するという治水・灌漑手法は「紀州」と呼ばれ、吉宗が将軍となった後は全国でこの手法が採用されて新田開発が促進された。この功績が認められ、小田井用水は平成29年(2017)に「世界かんがい施設遺産」に登録された。
    小田井用水について | 水土里ネット小田井

 

(追記)

 令和5年(2023)6月18日、京都観世会館において開催された「京都観世会第7回復曲試演の会」で復曲能「粉河祇王が上演される。この会は、永らく上演が途絶えていた作品を現代の能舞台に復活させるという趣旨で継続的に開催されているもので、今回の公演に先立って行われたプレ公演と記者会見について次のように報じられている。

京都観世会 第7回復曲試演の会(6月18日)
復曲能「粉河祇王」〜プレ公演より〜

 2023年6月18日(日)13時より京都観世会館で催される、京都観世会第7回復曲試演の会に先立ち、4月13日(木)、京都観世会館にて復曲能「粉河祇王(こかわぎおう)のプレ公演と記者会見が行われた。

 京都観世会の「復曲試演の会」は2010年に復曲チームを発足し、2012年に第1回として「阿古屋松(シテ 片山幽雪)を上演し、以後、作品ごとにチームを編成して今回で7作品目となる。上演が途絶えていた作品を現代の能舞台に復活させるというこの取り組みは、「もし上演され続けていたら、現代に生きる能楽師はどのように演じるか」を思いながら、文献をひもとき、2年がかりで節付けや型付けなどを行い、上演に臨んでいる(第7回復曲試演の会 委員会 片山九郎右衛門・青木道喜・浦田保親・橋本光史・田茂井廣道・松井美樹・河村和貴・大江広祐)

 復曲委員長の山九郎右衛門師は「現在の自分たちのスキルを次世代へ繋げてゆくため、過去に先人たちが苦労して能を作り上げた、その道筋をたどる作業をみんなでやってゆこうという思いで始めた」と、復曲試演の会立ち上げの理由を語った。

 「粉河祇王」は、平清盛の寵愛を受けた白拍子の名手・祇王とその父の、情愛と観音信仰の功徳を描く。別名「祇王(ろうぎおう)」とも呼ばれる本作は、世阿弥の息子・十郎元雅かその周辺の人物が作ったと目され、世阿弥伝書にも登場する「風月延年(ふげつえんねん。寿命を延ばす効用の意)」や「遊楽(いうがく。能が遊楽たることを強調した言葉)」の言葉が詞章に見える。

 「粉河」とは地名で、『枕草子』にも登場する粉河和歌山県紀の川市周辺を祇王の出身地とする説があり、祇王が父のために舞ったという「舞田」の地名が残る。

(以下略)

magazine.hinoki-shoten.co.jp

 
京都観世会館 | 復曲試演の会(令和5年) 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。