生石高原の麓から

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鶴千代姫物語 ~粉河町(現紀の川市)中鞆渕~

 紀の川の水面がキラキラと輝やき、その向うに、飯盛山がなだらかな起伏をみせていた。
 飯盛山(標高746メートル)と竜門山(757メートル)で、紀の川流域と区切られた鞆渕には、後堀河天皇(在位1222~1232年)の局となった鶴千代姫が、天皇のはからいで石清水八幡宮の輿に乗ってふるさとへ帰ったという話が伝わる。その輿は、いま国宝。

 

  それは、横暴の限りをつくす地頭と、薄幸の兄妹の深いきずな、そして皇室と鎌倉幕府の葛藤を語るものだ。


 深い木立ちに囲まれた鞆渕八幡宮の高い石段は、そんなことを思いながら歩を運ぶにふさわしく、静まり返っていた。

 

(メモ:鞆渕八幡宮へは、国鉄和歌山線船戸または笠田駅から、車で40分。県道かつらぎ桃山線わきにある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

  • 鞆渕地区(現在の紀の川市上鞆淵・中鞆淵・下鞆淵)は、平安時代から鎌倉時代にかけて「鞆淵荘」として石清水八幡宮の領地となっており、「鞆淵薗(ともぶちのその)」、「鞆淵庄(ともぶちのしょう)」等とも呼ばれていた。

 

八幡神社

 鞆渕応神山の南麓、老杉古檜に囲まれた当神社は、古くより鞆渕荘の産土神として、信仰されてきた神社である。
 創祀年代は未詳であるが、平安時代石清水八幡宮より勧請され、その別宮として創建されたと思われる。
 鞆渕は、寛弘5(1008)年にすでに石清水領となっていた。
 鎌倉期の安貞2(1228)年、石清水八幡宮より当社へ神輿が送られている。
 奉送目録もつけられ来歴が明らかで、数少ない平安期の神輿の中でも傑作である為、国宝に指定され鶴姫伝説と共に現在も人々に親しまれている
 弘安2(1279)年に遷宮が行われ本殿の外に摂社として、若宮社、高良社、武内社があり、神職として神主、大炊祢宜、若宮神主、権祢宜、神人がいたことが記録されている。
 この神人らは、百姓と結束し、荘官下司、公文と対立し斗争している。
 元弘3(1333)年、後醍醐天皇の勅裁により、当地は高野山領となるが、百姓らは、下司・公文や高野山に抵抗し室町時代にかけ、度々に激しい斗争を行った。
 この斗争の中で、当神社は荘民の鎮守として信仰され、惣として団結する精神的支柱となっていった。
室町時代から、宮座が作られ、宮山も設けられた。
寛正3(1463)年には、社殿が造営され、現在の三間社流造の本殿が完成している。
棟札と共に国の重文指定
江戸期には、本殿の外に、未社8、本地堂、御供所、舞台、神楽所、庁、宝蔵、神宮寺などあり、祭りの庁座の着座次第も厳しく定められていた。
また、高野街道沿いのため、多くの参詣人があった。
和歌山県神社庁-八幡神社 はちまんじんじゃ-

 

 鞆渕の里にある兄妹がおりました。妹は鶴姫紀伊国名所図会では「千代鶴姫」)と言い、絶世の美女だったと言います。
 そんな二人に対し、教育熱心な父親は勉強をさせようと厳しく接しました。頭の良い兄に対し妹は思うようにはいかず、いつも叱られてばかり。
そんなある日、ついに父親は怒りのあまり、妹めがけて木の枕を投げました。枕は柱にあたって割れてしまいました。居たたまれなくなった妹は割れた枕の片割れを持って家出してしまいます。

 月日は流れ、やがて京都に当時の天皇後堀河天皇)に寵愛を受けているたいへんな美女がいると評判が上がりました。しかも、どうやら紀州の人らしいとのこと。うわさを聞き付けた兄は、残されていた枕の片割れを持って京都を訪れました。身分の違いから難儀もありましたが、ようやく会う機会を得て、二人はお互いの枕を合わせて確認し、涙の対面となったのです。

 この麗しい兄弟愛を耳にした天皇は、二人で紀州に帰り、地元、鞆渕の地を納めるように言ったとのこと。その土産にと与えられたのが、この沃懸地螺鈿金銅装神輿。この神輿を京都から山越え谷越え運んだことは、大変な労力であったことでしょう。道中には神輿が通ったことを示す地名も多く残っています。

  •  本文では、鶴千代姫が「石清水八幡宮の輿に乗ってふるさとへ帰った」との伝承があるとしているが、上記引用文では鶴千代姫兄弟に「土産」として与えられたとしている。現在残されているものはあくまでも「神輿(しんよ、みこし)」であり、神の宿るものであることを考えると、これに乗って鶴千代姫らが帰ってきたということは、たとえ伝承であったとしてもあり得ないことと思われる。

 

  • 同じく江戸時代に編纂された地誌「紀伊風土記」には次のような記述があり、ここでは姫の名を「鶴千代姫」としている。また、「千楠丸」という人物が姫の兄であると伝承されているがこれは異なる時代の人物で、誤伝であるとも述べられている。

安貞の頃 荘司の先祖の妹に鶴千代姫というあり
宮仕しての寵を蒙り 後故郷へ帰る時
八幡宮は元より産土神なれば 
更に男山の祭式に象らしめ
神輿を送らしめ給うとなり
是より宮居盆壮麗を盡せしなるへし

社伝には此地旧天神ありしに
安貞2年(1228)荘司の家 
男山の八幡宮(筆者注:石清水八幡宮の旧称)を勧請せしという
然れども 其元より在せし天神というは
即 八幡宮なる事 古を考えて知るべし
又荘司の家にては 鶴千代姫下司千楠丸の妹をいう
千楠丸は応永(1394 - 1428)頃の人なれば
是も亦 伝の誤なり

※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかいを適宜現代のものにあらためた 

  • 応永30年(1423)の「高野山連著衆集会評定事書」及びその翌年の「当荘連著一味契状」「金剛峯寺宗徒一味起請契状」等によると、鞆淵荘の百姓等が訴えた下司・公文の非礼について評定が行われた結果、訴えが認められて当時の下司であった鞆淵範景が追放され、その後任に範景の子である千楠丸が任じられたとの記録がある角川日本地名大辞典。上記「紀伊風土記」に「千楠丸は応永頃の人」とあるのはこの記録を踏まえた判断であろうと考えられる。

 

  • 鶴千代姫が鞆淵に持ち帰ったとされる神輿は、もともとは後堀河天皇の勅により石清水八幡宮に贈られたと伝えられているもので、平安後期の傑作とされ、「沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじ らでん こんどうそう しんよ)」として昭和31年(1956)国宝に指定された。「日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「鞆淵八幡神社」の項ではこの神輿について下記のように解説しており、後堀河天皇中宮(ちゅうぐう、皇后の別称)であった藤原長子(ふじわらの ながこ)石清水八幡宮へ新しい神輿を奉納したため、不用となった同宮の神輿を石清水八幡宮の別宮である鞆渕八幡神社へ奉送したものであるとする。
    沃懸地螺鈿金銅装神輿

 鎌倉期の安貞2年8月には石清水八幡宮から神輿が送られている。
 この神輿は現存し、国宝に指定されている。屋蓋部・軸部・台座部の3つに分けることができ、頂に鳳凰をのせた方形の照起りのある屋蓋を4本の角柱で支えて軸部となし、それを轅(筆者注:ながえ)と呼ばれる2本の太い棒でかつぐ形式で、金銅の地板をはり、その上に透彫り・毛彫りを施した飾り鬘金具をはりつめ、また、軸部の周囲には金銅製の幡(筆者注:ばん)・華鬘(筆者注:けまん)などをたらし善美を尽くしている。装厳金具の意匠は精緻を極め、華麗な螺鈿も配しており、数少ない平安期の神輿の中でも傑出した作品といえる。
 また神興奉送目録も伝来していることにより、来歴の明確な価値の高いものとなっている。中宮藤原長子石清水八幡宮に神輿を奉納したため、在来の神輿を当社に奉 送したものといわれる(和歌山県文化財2)。

 

  • 鞆淵荘は、前述したように早くから石清水八幡宮の領地となっていたが、東側に位置する高野山、西側に位置する神野真国荘(こうの まくに の しょう)との間で頻繁に領地争いが発生した。
  • 建保4年(1216)には、鞆淵荘が神野真国荘の石走村を押領。正嘉年間(1257~1259)に石走村の住人らが訴訟を起こそうとしたとき、「鞆淵神人(じんにん、神職者)等」が石走村に乱入、刃傷・殺害に及んだため住人らが山伏とともにこれを石走村から追い出したという。(角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985))

 

  • 鎌倉末期になると、本来は荘園領主の使用人であった下司(げし、領地支配を行う下級役人)公文(くもん、荘園の下級荘官が自らの裁量範囲を高め、在地領主としての地位を確立していく動きが始まるが、神人百姓はこれに抵抗し、両者の対立が激化した。正和2年(1313 )の「六波羅探題連署書状」等によれば、両者の争いはついに殺害事件にまで発展し、紀伊国御家人の息女が当荘の百姓を六波羅に提訴している。角川日本地名大辞典

 

  • 元弘3年(1333)、後醍醐天皇が後に「元弘の勅裁」と呼ばれることになる綸旨天皇の意を受けて蔵人が発給する命令)を発し、鞆淵荘を含む石清水八幡宮領の多くを高野山領とする決定を行った。しかしながら、その後も下司・公文と神人・百姓の対立はおさまらず、「鞆淵動乱」などと称される闘争は最終的に天正年間後期(1590年頃)に始まる太閤検地まで続くこととなる。
  • 正平12年(1357)に作成された「鞆淵惣荘置文」には、上段に引導(代表)の氏名があり、中段に8人、下段に12人の農民が署名している。このうち、中段の8人を通称「八人百姓」、下段の12人を通称「十二人番頭」と呼び、一般的に「惣村」と呼ばれるような自治制度が定着していたものと考えられる。(角川日本地名大辞典

 

 

 

  • 龍門山(りゅうもんざん)は、紀の川市にある山で龍門山脈の主峰。紀の川下流方面から見ると富士山に似た形をしているところから「紀州富士」とも呼ばれる。南北朝時代の正平14年(1359)、山頂に南朝四条隆俊が3千余騎を率いて集結し、北朝畠山義深率いる3万余騎との激闘が繰り広げられた「龍門山の戦い」の古戦場として知られる。絶滅危惧種の蝶「ギフチョウ」や和歌山県固有種の植物「キイシモツケ」、県指定天然記念物の「磁石岩」など、見どころも多く、ハイキングコースが整備されている。
    龍門山ハイキングコース

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。