生石高原の麓から

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塩塚のいわれ ~桃山町(現紀の川市)最上~

  山がちの紀州には珍しく、広々とした水田がひろがり、あちこちに桃畑とミカン畑が点在していた。そんな、のんびりとした田園地帯の片隅に、ひとつの碑があった。

 

   昭和7年の建立という、高さ2メートルばかりの碑の表に「塩谷(しおのや)伊勢守戦死跡」。ここが伊勢守の「首塚」という。すぐかたわらにその乗馬を葬った「馬塚」もあったが、明治はじめの道路改修の際、取り除かれたとか。

 

 伊勢守は、建武中興のあとに続いた、南北朝の争乱で名をはせた。南朝方、四条中納言隆俊の侍大将として、約3キロ東の最初ケ峯(標高285メートル)に陣を構えたものの、敵を深追いし、この地で討死にしたとか。正平15年(1360)4月のことといい、以来、このあたり一帯を塩塚と呼ぶようになった……と。

 

(メモ:伊勢守の碑は、国道424号線のかたわらにある。塩塚は市場の西約一キロの集落。) 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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塩谷伊勢守の碑
  • 塩塚」は紀の川市桃山町最上にある字の名称である。

 

 

 

 

  • 塩谷伊勢守が戦死した戦いは一般的に「龍門山の戦い」として知られており、南北朝時代の争乱における紀伊国での最大の戦闘である。

 

  • 紀伊国南朝の拠点である吉野に近いうえ、鎌倉幕府打倒の際に大塔宮護良親王が熊野地方の有力者の協力を得て潜行していたこともあり、南朝方への協力者が多かった。このため、足利尊氏は、足利一族の有力者である畠山国清(はたけやま くにきよ)紀伊国守護として派遣して支配を進めたが、湯浅党をはじめとする反対勢力の力は強く、その支配範囲は限定されたものであった。
    ※筆者注:湯浅党については別項「夜泣き松」において若干の解説を行っているので、こちらも参照されたい。夜泣き松 ~湯浅町吉川~ - 生石高原の麓から
  • こうした状況の中、正平14年/延文4年(1359)、龍門山の山頂に南朝四条隆俊(しじょう たかとし)が3千余騎を率いて集結したことから、これを抑えようとする北朝畠山義深(はたけやま よしふか/よしとお、畠山国清の弟)率いる3万余騎との激闘が始まった。これが「龍門山の戦い」である。
  • 龍門山の戦いについては、「太平記」巻三十四に「紀州龍門山軍事」として詳しい記述がある。

原文

紀州竜門山軍事

 四条中納言隆俊は、紀伊国の勢三千余騎を卒して、紀伊国最初峯に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山入道々誓が舎弟尾張守義深を大将にて、白旗一揆・平一揆・諏防祝部・千葉の一族・杉原が一類、彼れ此れ都合三万余騎、最初が峯へ差向らる。
 此勢則敵陣に相対したる和佐山に打上りて三日まで不進、先己が陣を堅して後に寄んとする勢に見へて、屏塗り櫓を掻ける間、是を忻らん為に宮方の侍大将塩谷伊勢守、其兵を引具して、最初峰を引退て、竜門山にぞ篭りける。
 畠山が執事、遊佐勘解由左衛門是を見て、
すはや敵は引けるぞ。何くまでも追懸て、打取れ者共。
とて馳向ふ。楯をも不用意、手分の沙汰もなく、勝に乗る処は、げにもさる事なれ共、事の体余りに周章ぞ見へたりける。
 彼竜門山と申は、岩竜頷に重なて路羊腸を遶れり。岸は松栢深ければ嵐も時の声を添へ、下には小篠茂りて露に馬蹄を立かねたり。
 され共麓までは下り合ふ敵なければ、勇む心を力にて坂中まで懸上り、一段平なる所に馬を休めて、息を継んと弓杖にすがり太刀を逆に突処に、軽々としたる一枚楯に、靭引付たる野伏共千余人、東西の尾崎へ立渡り、如雨降散散に射る。
 三万余騎の兵共が、僅なる谷底へ沓の子を打たる様に引へたる中へ、差下て射こむ矢なれば、人にはづるゝは馬に当り、馬にはづるゝは人に当る。一矢に二人は射らるれ共、はづるゝは更になし。
 進で懸散さんとすれば、岩石前に差覆て、懸上るべき便もなし。開ひて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶て、梯ならでは道もなし。
 いかゞせんと背をくゞめて、引やする引かれてやあると見る処に、黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紺糸の鎧のまだ巳の剋なるを著たる武者、濃紅の母衣懸て、四尺許に見へたる長刀の真中拳て、馬の平頚に引側め、塩谷伊勢守と名乗て真前に進めば、野上・山東・貴志・山本・恩地・牲河・志宇津・禿の兵共二千余騎、大山も崩れ鳴雷の落るが如く、喚き叫で懸たりける。
 敵を遥のかさに受て、引心地付たる兵共なれば、なじかは一足も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討るゝをも不顧、馬物具を脱捨て、さしも嶮き篠原を、すべる共なく転ぶ共なく、三十余町を逃たりける。
 塩谷は余りに深く長追して、馬に箭三筋立、鑓にて二処つかれければ、馬の足立兼て、嶮岨なる処より真逆様に転ければ、塩谷も五丈計岩崎より下に投ふれければ、落付よりして目くれ東西に迷、起上んとしける処を、蹈留敵余に多に依て、武具の迦れ内甲を散々にこみければ、つゞく御方はなし、塩谷終に討れにけり。
 半時許の合戦に、生慮六十七人、討るゝ者二百七十三人とぞ聞へし。其外捨たる馬・物具・弓矢・太刀・刀、幾千万と云数を不知。其中に遊佐勘解由左衛門が今度上洛之時、天下の人に目を驚かさせんとて金百両を以て作たる三尺八寸の太刀もあり。又日本第一の太刀と聞へたる禰津小次郎が六尺三寸の丸鞘の太刀も捨たりけり。されば大力も高名も不覚も時の運による者也。此禰津小次郎は自讃に常に申けるは、「坂東八箇国に弓矢を取人、駈合の時根津と知らで駈合せ太刀打違んは不知、是禰津よと知たらん者、我に太刀打んと思人は、恐くは不覚。」と申程の大力の剛の者なれ共、差たる事もせで力のある甲斐には、人より先に逃たりけり。
※筆者注:原文はWikispourceによる 
太平記/巻第三十四 - Wikisource

 

 現代語訳(抄) 

 四条中納言隆俊は三千余騎を率いて最初が峯に陣を張るとの情報を得て、畠山国清は弟の義深を大将として三万余騎を与えて最初が峯へ差し向けたが、義深勢は敵陣に相対する和佐山の上に砦を築くために三日間移動しなかった。

 そこで、南朝方の侍大将であった塩谷伊勢守は相手を罠にはめようとして、最初が峯から撤退したようにみせかけて龍門山まで兵を引いた。

 これを見た畠山家の執事・遊佐勘解由左衛門(ゆさ かげゆ ざえもん)は、
敵が逃げる。追いかけて打ち取れ。
と命じて兵を向かわせた。あまりにも急いだので、盾も用意せず、陣形の指示もないままであった。

 ところが、龍門山は岩が龍の顎のように重なって、道は羊腸のように曲がりくねっている。道端は松や柏が生い茂り、嵐の音がまるで鬨の声のように鳴り響く。崖の下には小笹が茂り、露に滑って馬の蹄も立たないありさまであった。

 義深の軍勢は山の麓までは敵にも逢わなかったので勇んで坂を駆け上がったが、途中に平坦な場所があったので、そこで馬を休めて息をととのえようとした。そのとき、軽量な楯を持ち矢を大量に携えた千人もの伏兵集団が東西の尾根に突然現れて上空から雨あられのごとくに矢を浴びせかけた。

 慌てた三万余騎の大量の兵がわずかに開けた谷道へ逃げようと殺到するところへ上からへ矢を射かけるものだから、人に当たらなければ馬に当たり、馬に当たらなければ人に当るという具合で、一矢で二人を射ることはあっても外れる矢は一本もない状態であった。

 義深の軍勢は反撃しようとするも、敵は尾根の上にあり、ハシゴもなければ道もないため近づく術がない。

 義深の軍勢が思案にくれているところに、黄瓦毛(きかわらげ、全体が黄色でたてがみや下肢が黒い馬)の太くて逞しい馬にまたがり、真新しい紺糸威(こんいと おどし)の鎧を着た武者が現れた。

 その武者は、濃紅色の母衣(ほろ、後方からの矢を防ぐための布)を付けて、四尺(刀長約120センチメートル)はあろうかと思われる長刀の真ん中あたりを握り、馬の平首に隠すように持ち、
塩谷伊勢守」と名乗って真ん前に進んだ。

 すると、野上、山東、貴志、山本、恩地、贄河(にえかわ)、志宇津(しうつ)、禿(かむろ)の兵ら二千余騎が、あたかも大山が崩れ、雷が落ちるかのように叫びかかってきた。

 既に退却しようと弱気になっていたところだけに、義深の軍勢は周囲の負傷者を助けようともせず、親や子が討たれても顧みず、馬や武器を捨て、甲冑も脱ぎ捨てて、さしも険しい笹原を滑るでもなく転ぶでもなく、三十余町(約3キロメートル)も逃げた。

塩谷伊勢守はこれを追撃したが、余りにも深追いしすぎたため馬に矢を3本射立てられ、槍で2箇所突かれて馬が転落、伊勢守も崖から5丈(約15メートル)ほど下に落下してしまった。

 その衝撃で目がくらみ、周りの様子もわからないまま起き上がろうとしたところ、思いがけなく多くの敵がいたため、伊勢守は武具の隙間や兜の内を徹底的に攻撃され、後に続く味方もなく塩谷はとうとう命を落とした。
半時(約1時間)ばかりの合戦で、北朝方の損害は生け捕り67人、討たれた者は273人だったと言われる。
※筆者注:現代語訳は筆者による

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紀伊国名所図会 三編三之巻 龍門山合戦
国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 龍門山への登山ルートのうち、勝神(かすかみ)ルートの中腹に、「青地谷」と呼ばれる場所がある。ここは、龍門山の戦いの際に多くの戦死者や負傷者が出て、谷に血があふれてできた血の渕が麓から見ると青く冴えて青い血が流れたように見えたことから「青血谷」と名付けられ、やがて「青地谷」に転じたと伝えられる。紀の川市が発行している広報紙「広報紀の川」の平成31年(2019)3月号には、「【わたしのまちの文化財】vol.138 青地谷(あおちたに)の伝説」として次のような物語が掲載されている。

青地谷の伝説

 「昔、龍門山で戦いがありました。激しい戦いのためにたくさんの戦死者や負傷者が出て、谷に血があふれて血の渕ができ、麓から見れば青く冴えていたし、青い血が流れたように見えました。それでここの谷の名が、青血谷となりました」という言い伝えがあります。現在では、青地谷と呼ばれています。
 青地谷は、龍門山へ登山する際の勝神(かすかみ)ルートの中腹にあり、青地薬師不動明王が奉られています。さらにその上に、戦死者の石碑があります。
 青地谷付近では春には桜が咲き、眼下には和歌山平野が一望できるほど、眺望が良い場所となっています。
 言い伝えにある「青い血が流れたように見えた戦い」とは、「龍門山の戦い」のことです。この戦いは、南北朝内乱期に、南朝北朝との対立の中で起こった戦いの一つです。正平14年(1359)、現在の和歌山市和佐山に陣取った畠山義深(はたけやま よしふか)などを中心とした北朝方と、最初が峰に陣取った塩谷伊勢守(しおのや いせのかみ)などを中心とした南朝方が戦い、南朝方がやがて龍門山に陣を移したという戦いがありました。「太平記」にも、「龍門山の戦い」のことが記されています。
 この戦いは激闘であったために、戦場付近に薬師如来不動明王を奉っています。薬師如来は現世の苦しみ、病気を治す仏で、不動明王は迷いの世界から煩悩を断ち切るように導く慈悲深い仏です。戦い、傷つき、亡くなった人を思い、地域や世の平和を祈願して奉られています。
 現在の青地谷は、樹木が生い茂り、小川のせせらぎが聞こえてきます。かつて激闘が繰り広げられたとは思えないような、静かな谷となっています。
広報紀の川 バックナンバー

 

  • 塩谷伊勢守が戦死した戦いは南朝方の一方的な勝利に終わったが、延文5年/正平15年(1360)に行われた二度目の合戦では南朝方の湯河庄司北朝方に寝返ったこともあり、北朝方の一方的な勝利に終わった。これにより南朝方のリーダーであった四条隆俊は阿瀬河城(現在の有田川町中原付近)に撤退することとなった。
    ※筆者注:湯河(湯川)氏については別項「湯川直春の亡霊」において若干の解説を行っているので、こちらも参照されたい。湯川直春の亡霊 ~日高町志賀~ - 生石高原の麓から

 

  • メモ欄中、伊勢守の碑の位置は、道路名称の変更により和歌山県道130号桃山丸栖線沿い、オークワ桃山店の約150メートル南西となっている。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。