一面に、桃畑がひろがっていた。ピンク色のみごとなジュウタンが姿を消したあとの畑では、濃緑の葉の中に、みずみずしい桃が、日ごとにいろどりを増して行く。桃山の一年は、桃に明け、桃に暮れる。
そんな中に、きらびやかな社があった。天正18年(1590)、応其上人が再建したという三船神社。神武天皇が大和に宮殿をつくるとき、この地へ用材を求めにきた忌部一族が、そのまま居つき、その祖、太玉命(ふとだまのみこと)と彦狭知命(ひこさちのみこと)をまつったのだとか。
昭和の大修理(昭和47~49年)を終えた社殿は、桃山様式そのままに、極彩色の壁画と彫刻も復活した。だが、あたりをおおっていた老松の多くは伐り倒されて、いま椎と楠の老樹が、わずかにそのおもかげをとどめるだけ。
(メモ:町の中心部、市場の国道424号線から南へ約1キロ。近くには、欅の大木が二本あるだけの「古宮」もある。例祭は十月十六日。)
当社は、人皇十代崇神天皇の皇女豊入日売命の創祀と伝えられ、鳥羽法皇、美福門院の御信仰もあつく、古くから安楽川荘中の産土神として祀られた社である。
『紀伊国神名帳』には「正一位御船大神」と記され、神田浦垣に奉祀されたのが初めといわれる。
本殿には木霊屋船神、太玉命、彦狭知命、摂社には丹生都比売命、高野御子神が祀られ、明治の末ころから旧安楽川村四ヶ大字の各神社祭神を合祀している。
現在の社殿は、天正のはじめころ社殿が焼失したのち高野山座主木食応其上人により天正19(1591)年に本殿が再建され、摂社はやや遅れて慶長4(1599)年の造営になるものである。
3社殿は全体に保存がよく、各所に種々の彫刻が施されたうえ極彩色にいろどられ、和歌山県下における華麗な桃山時代の形式、手法を示す社殿として価値のある遺構である。
昭和47年10月より2ヶ年にわたり、文化財保護法による解体復原修理が行われた。
またその後、平成15年より2ヶ年にわたり、屋根葺替・塗装修理が行われた。
和歌山県神社庁-三船神社 みふねじんじゃ-
- 上記引用文にあるとおり、社伝によれば、同社は10代崇神天皇(3 ~ 4世紀)の皇女である豊鍬入日売命(とよすきいり ひめの みこと)の創祀と伝えられる。豊鍬入日売命の母は、紀国造(きの くにのみやつこ 朝廷から任命された世襲制の地方管理者の職)である荒河戸畔(あらかわとべ)の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつ あゆめ まくわし ひめ)であるとされる。
- 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」の「神田村」の項には「御船明神社」として下記のような記述があり、ここでは御船明神社(三船神社)の祭神である御船大神は、伊勢国度会郡大神の御船神社(三重県多気郡多気町)の祭神と同神としている。伊勢の御船神社は、伊勢神宮内宮を創建した倭姫命(やまとひめの みこと)が聖地を求めて巡行の途中にここで船を降りたことに由来するとされる※1が、この聖地探しの旅はもともと豊鍬入日売命が担っていた役割であり、後にその使命を倭姫命に引き継いだ※2ものであった。このため、続風土記では、豊鍬入日売命が、自分の母親の出身地である荒川の地に、倭姫命の業績を称えて御船大神として祀ったものであろうと考察している。同時に、同書では本文にある「忌部一族の祖神を祀る」という説については「憶説」であるとしている。
※1 参考:御船神社(伊勢神宮 内宮摂社)|伊勢志摩の観光スポットを探す|伊勢志摩観光ナビ
※2 豊鍬入姫命は崇神天皇の命により宮中に祀られていた天照大御神を大和の笠縫邑(かさぬいむら)へ移し、後に倭姫命が垂仁天皇の命により鎮座地を求めて各地を巡行した後、現在の伊勢神宮の地に祀ることとなった。伊勢神宮のルーツを古事記からひも解く伊勢神宮入門 – 1 | Discover Japan|ディスカバー・ジャパンー日本の魅力再発見ー
御船明神社 境内森山 東西二十間 南北百八十間
(略)
村中にあり
安楽川荘中の産土神なり
三代実録
貞願3年(861)7月2日甲戌授紀伊国正六位上御船神従五位下
とある
即此神なり
当社天正の始焼失して伝記等今伝わらず
祀神御姫大神は
延喜式神名帳に伊勢国度合郡大神の御船神社
と見江たると同神なるべし
其社に延暦儀式帳に
御船神社一處称大神之御蔭川形無倭姫内親王定祝とありて
倭姫 世紀に天照大御伊蘇宮(筆者注:現在の三重県伊勢市 磯神社)より御船に御し
寒川に御船をとどめ給ひて其所に御船神社定給ふ由を記せり
按ずるに此地は
天照大御神の御船代を戴き奉れる
豊鋤入姫命の母君の産土なれば
此神を祀れるも深き由縁ある事なるべし
天正19年(1591)木食応其当社の衰廃を歎きて再興せしより社殿等やゝ備われり
其後宝暦年中(1751)再営に
御船は社号と思ひしにや
丹生高野の神を祀れるよしの棟札あり
是高野領なるを以て謾(筆者注:あざむき)に此神とせしなり
又近世其説を非として齊部氏の祖神を祀るという説ありて
荒川を御木麁香(筆者注:みき あらか 「古語拾遺」で彦狭知命の後裔が居住するとされた名草郡御木郷・麁香郷)の麁香と一とし
御船神を水霊屋船神の又名とせり
是又甚しき臆説なり※筆者注:読みやすさを考慮して漢字、かなづかいを適宜現代のものにあらためた
- 大殿祭(おおとの ほがい)と呼ばれる宮廷殿舎の災害予防を祈願する祭祀の祝詞(のりと)に、「屋船久久遅命<是は木の霊なり>、屋船豊宇気姫命と<是は稲の霊なり(略)>御名をば称へ奉りて・・・」とあるように、屋船久久遅命(やふね くくのちの みこと)は木の霊であるとされており、これと同じく「屋船」の名を有する木霊屋船神は屋船久久遅命の別名であると考えられる。国学院大学古事記学センターのWebページでは屋船久久遅命について次のような解釈がなされており、家屋の神であるとみなしている。
「屋船」は家屋全体をふね(槽、容器)に見立てた語とする説があり、家屋の神として祭られていることによる称と捉えられている。
この神は、御殿の木材の神格化とする説があるが、また、山の神を祭って伐り出した材で造った神聖な柱、忌柱(いみばしら)に宿った神で、樹木の神ククノチを家屋の柱に移して家屋の神として祭ったものと捉える説もある。
久々能智神 – 國學院大學 古事記学センターウェブサイト
- 太玉命は、天孫降臨(てんそんこうりん)の際、邇邇藝命(ににぎの みこと)とともに高天原から高千穂へ天降(あまくだ)った5柱の神(五伴緒 いつのともお)のうちの1柱で、忌部(いむべ)氏の祖とされる。他の4神は次のとおり。
天児屋命(あめの こやねの みこと)・・・中臣(なかとみ)氏の祖
天鈿女命(あめの うずめの みこと)・・・猿女(さるめ)氏の祖
石凝姥命(いしこりどめの みこと)・・・・鏡作(かがみつくり)氏の祖
玉屋命(たまのやの みこと)・・・・・・・玉作(たまつくり)氏の祖
天日鷲命(あめの ひわしの みこと)・・・・阿波忌部氏の祖
手置帆負命(たおき ほおひの みこと)・・・讃岐忌部氏の祖
櫛明玉命(くしあかる たまの みこと)・・・出雲国 玉作氏の祖
天目一箇命(あめの まひとつの かみ)・・・筑紫国、伊勢国忌部氏の祖
- 大同2年(807)に忌部氏に属する斎部広成(いんべの ひろなり)が記した「古語拾遺」によれば、天照大御神が天岩戸に籠った際、手置帆負命と彦狭知命が天御量(あめの みはかり 定規)を使って木材を集め、瑞殿(みずの みあらか 御殿)を造営したとされることから、この2柱の神は「大工の神様」として土木、建築技術者から崇敬を集めている。
- 同じく「古語拾遺」によれば、神武天皇が大和橿原宮を建立した際、手置帆負命・彦狭知命の子孫が紀伊国で材木を調達し、正殿の建築に大いに活躍したので、この地に地領を与えられ住み暮らすようになったとされ、これが紀伊忌部氏の祖となった。後に手置帆負命は四国に渡り、讃岐忌部氏の祖となったが、日本書紀では、彦狭知命を作盾者(たてぬい)、手置帆負命を作笠者(かさぬい)、としており、それぞれ役割の異なる専門技術者であったとみられる。
※紀伊忌部氏の祖については、別項「夜泣き石」において詳述しているのでこちらも参照されたい。
夜泣き石 ~和歌山市下三毛~ - 生石高原の麓から
- 応其上人(おうご しょうにん 1536 - 1608)は、安土桃山時代の真言宗の僧で、木食行(もくじきぎょう 火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けたことから木食応其(もくじき おうご)とも呼ばれる。天正13年(1585)、豊臣秀吉による紀州征伐の際、高野山の使者として秀吉と交渉し、全山降伏と引き換えに高野山を焼き討ちから救ったばかりか、秀吉の信任を得て高野山の寺領回復や金堂、大塔の建立などを進めたことで知られる。
木食応其とは - コトバンク
- 先述のように、三船神社は天正年間に焼失しているが、その原因が秀吉の紀州征伐などの戦乱によるものかどうかは不明である。しかしながら、当時、三船神社のある荒川荘は高野山領となっていたため、応其上人が高野山再興の一環として再建に携わったものと考えられる。
- 本殿は天正18年(1590)建築、摂社丹生明神社本殿・摂社高野明神社本殿は慶長4年(1599)建築で、いずれも全体に保存がよく、各所に種々の彫刻が施されたうえ極彩色にいろどられており、桃山時代の形式、手法をよく表す建築物として国の重要文化財に指定されている。
- 三船神社古宮(ふるみや)は、三船神社から南西約400メートル、県道かつらぎ桃山線神田橋近くにある。現在は毎年10月の第3日曜日に開催されている三船神社の秋祭りでは、神輿や稚児行列が三船神社と古宮との間を往復する
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。