生石高原の麓から

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若狭の八百比丘尼 ~貴志川町(現紀の川市)丸栖~

 人魚を食べると不死身になる~。そんな話は西欧に多いが、この日本版とでもいえそうな話が貴志川に残されている。

 

 もう、ずい分と昔のこと。この地の高橋という男が、一人の美人の家で催された庚申講に招かれた。

 帰るとき、女は「はじめて会った日、あなたの講に入れてもらったお礼です」といい、土産に小さな人魚を渡された。ところが、家へ帰って着替えるとき、懐から人魚がポトリと落ち、そばにいた娘が食べてしまった。以来この娘は、少しも年をとらず、数百年たってから若狭へ移り住んで尼になったとか。


 その男が住んでいた家の下の渕を「尼が渕」と呼んだとも。川の相は、もうすっかり変わったようだが、丸田川が合流するあたり、左岸のハッサク畑の下方の小さなよどみが、その渕のあとという。

 

(メモ:尼が渕は高島橋の上流900メートル。対岸には、県農協連の近代的なジュース工場がある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)


尼が渕周辺の貴志川
  • 人魚にまつわる物語は世界各地で語り継がれているが、その容姿は地域によって大きく異なる。ヨーロッパでは上半身がヒトで下半身が魚類のことが多く、マーメイド(上半身が若い女性のもの)・マーマン(上半身が男性のもの)という呼び名がよく知られている。これに対して、中国最古の地誌とされる「山海経(せんがいきょう)」では、人魚のことを「鮪魚(なまず)の如く四足にして、声は嬰児の如し」と記述しており、オオサンショウウオを指すと考える研究者もいる。
  • 我が国では、「日本書記」に推古天皇27年(619)「(摂津国で)物有りて罟(あみ)に入る。其の形 兒の如し。魚にも非ず、人にも非ず、名づけむ所を知らず。」との記述があるのが人魚についての最初の記録とされる。
  • 文化2年(1805)に発行された瓦版には、越中国放生渕四方浦(えっちゅうのくに ほうじょうがふち よものうら)という場所で漁師を悩ませていた人魚を鉄砲450挺で撃ち仕留めたとの記事がある。これに描かれた人魚の絵(「瓦版人魚図」として知られる)は、魚体に人間の顔がついた姿で、髪は長く、額には角が2本あり、いわゆる「人面魚」に似た姿をしている。この瓦版によれば、「此魚を一度見る人は寿命長久し、悪事災難をのがれ一生仕幸せよく 福徳幸を得る」とされている。
  • 西光寺橋本市)の学文路苅萱堂(かむろ かるかやどう)には、千数百年前に滋賀県の蒲生川で捕らわれたといわれる「人魚のミイラ」が伝えられており、真偽は別として、当地に伝わる民間信仰の貴重な資料として県の有形民俗文化財に指定されている。
  • 本文中には「人魚を食べると不死身になる~。そんな話は西欧に多い」とあるが、人魚を食べることで不老長寿が得られるという伝承は日本に特有のものと考えられており、少なくとも西欧には類似の伝承はないとされている。
  • 庚申講(こうしんこう)は、十干・十二支(じっかん じゅうにし)の暦に基づいて60日に1度訪れる「庚申(かのえ さる)」の日に、神仏を祀って飲食や遊戯をしながら徹夜するという行事のこと。中国の民俗宗教である道教では、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・上尸、彭常子・中尸、命児子・下尸)がいて、庚申の日の夜、その人が寝ている間に天に昇って天帝(または閻魔大王)に日頃の行いを報告するので、その報告の内容によっては寿命が縮められたり、死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると信じられていた。そこで、庚申の日の夜には人々が集まって神々を祀り、飲食や遊戯などを行って一睡もせずに過ごすことで、三尸の虫が天に登れないようにするというのが、庚申講の始まりであったとされる。日本では平安時代から行われるようになったとされ、当初は公家や僧侶が徹夜で双六や詩歌管弦を楽しんでいたが、江戸時代に入ってからは民間でも広く行われるようになり、地域住民の親睦行事としての意味合いが強くなっていった。
  • 比丘尼(びくに)は、仏教に帰依して出家した女性、尼僧のことを指す。語源はサンスクリット語の「bhikṣuṇī(ビクシュニー)」。男性の「(ひじり)」と同様に、諸国をまわって説法や歌、絵解きなどで信仰を普及する活動を行う(熊野比丘尼比丘尼絵解比丘尼など)ほか、巫女(みこ)として祈祷や占いなどを行う者もあらわれ、後には遊女となる者もいた。
  • 八百比丘尼(やおびくに、はっぴゃくびくに)は、人魚の肉を食べたことにより、若々しい姿を保ったまま不老不死の体を得たという伝説上の女性である。日本全国に類似の物語があるとされ、高橋晴美氏の研究によれば、その分布は全国28都県89区市町村121か所にわたり、伝承数は166に及ぶとされる。(「八百比丘尼伝説研究」 東洋大学短期大学論集 日本文学篇 第18号 1982 )
  • 我が国を代表する民俗学者である柳田國男が記した「雪国の春」には、丸栖の八百比丘尼に関する次のような記述がある。 

紀州那賀郡丸栖村の高橋氏でも、庚申講の亭主をしていると、見なれぬ美人がきて所望をして仲間に入った。
その次の庚申の日には私の家へきて下さいと招かれたが、その晩土産といって紙に包んでくれたのが、例の人魚の一臠(きれ)であった。
帰って帯を解くときふと取落とすと、その折二、三歳の家の小娘が拾ってのみ込んでしまった云々と伝え、今もその家の子孫という某は住んでいるが、この事あって以来いつも庚申の晩には、算(かぞ)えてみると人が一人ずつ多くいるというので、とうとう庚申講は営まぬことになった。
ここでもどういうわけか八百比丘尼は、末に貴志川へ身を投げて果てたと伝えている。

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記 巻三十五」にも、「紀伊国那賀郡丸栖村大字丸栖の村老相伝えて、八百比丘尼は、此の村の産と云うている。今その証拠となるべきは何も無いが、此の事は若狭でも信じていると云う。」との記述がある。
  • かつらぎ町天野に所在する丹生都比売神(にうつひめじんじゃ)にも八百比丘尼に関わる伝承がある。これによれば、昔、若狭国八百比丘尼がこの神社に詣でたおり、水面に映る自分の姿をみて、八百歳にしてその美しさ若々しさがいつまでも変わらないことを嘆き悲しみ、懐に持っていた鏡を取りだして水面に映る自分の姿に投げつけたので、この池を「鏡池」と呼ぶ、とされている。
  • 全国に伝わる八百比丘尼の伝承の多くが、出家した比丘尼は全国を行脚するが、最後には若狭福井県南部)にたどり着いて入定(永遠の瞑想に入る)したと伝える。福井県小浜市にある空印寺(くういんじ)には、八百比丘尼が入定した場所であるとされる「八百比丘尼入定の洞穴」がある。
  • 柳田國男が書いた「山島民譚集 二」という著作によれば、室町時代に刊行された「臥雲日件録」「唐橋綱光卿記」「中原康富記」という3つの日記の文安6年(1449)の項に「若狭から800歳の尼が京へやってきた」との記述があることから、柳田は八百比丘尼の生誕時期を「大化から大同の間(645 - 810)」と推測している。ただ、この尼を見るのに金が必要であったとの記述もあることから、この尼僧は偽りの「見世物」であった可能性も否定できない。
  • メモ欄中にあるジュース工場とは、和歌山ノーキョー食品工業株式会社の桃山工場。昭和49年(1974)、和歌山県産みかんの搾汁工場として操業を開始し、国内で初めてペットボトルの充填施設(ホットパック)を稼働するなど意欲的に最新鋭の設備を導入。自社の「JOIN」ブランドで各種果汁飲料を生産しているほか、国内大手メーカー商品のOEM生産にも積極的に取り組んでいる。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。