生石高原の麓から

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浮いた仮面 ~貴志川町(現紀の川市)国主~

 高野山を源にして59キロ。やがて紀の川に合流しようというあたりの貴志川は、古くからホタルの名所。いま、こどもたちの手で、ホタルの復活運動が盛り上がっている。
 そんな貴志川にも、のぞけば思わず引き込まれそうな深い渕がいくつかある。国主渕(くにしぶち)もそのひとつ。

 

  文禄元年(1592)のことという。大干ばつに見舞われたこの年の夏、村人たちは渕の水を汲み上げてしのいだが、そのとき、底の大木を動かすと大豪雨となり、同時に数知れぬほどの仮面が浮かんだ。

 

 桜井刑部という豪の者が、そのうち三つを拾い上げ、当時の領主と高野山、それに水汲みを指揮した郷士橋口家で保管したという。

 

(メモ:国主渕は諸井橋の上流約200メートル。その左岸に「大飯祭」を伝える大国主神社がある。仮面のひとつは、いまも岸小野の橋口家に保存されている。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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紀伊国名所図会 二編六之巻上 大国主神社と国主渕

国立国会図書館デジタルコレクション)

  • 国主渕は、大国主命(おおくにぬしの みこと)を創建の由緒とする大国主神(おおくにぬしじんじゃ)にほど近い場所にある貴志川の(深く水を湛えたところ)。かつては名勝として知られる行楽地で、周辺には烏帽子(えぼし)鞍懸(くらかけ)天狗岩龍宮岩などの名前が付いた大岩があり、屋形船による遊覧も行われていた。

 

  • 現在、国主渕近くの貴志川沿いには「きしべの里公園 ほたるの館」があり、ゲンジボタルの人工飼育を行っている。毎年6月には公園上流にある観賞池でゲンジボタルの乱舞を見ることができる。
    きしべの里

 

  • 紀の川市教育委員会が作成した「国主渕」の案内看板には、「伝説」として次のような記載がある。

伝説 生き面

文禄元年(1592)大旱魃(かんばつ)があり、国主渕だけに水があった。
村人たちは35回も水をくみ上げたが、ついには呑水(のみみず)も枯れてしまった。

そこで、36回目に龍宮の洞穴にはまだ水があると見た村人達は、洞穴を塞ぐ大木を取り除くよう橋口隼人正(はやとのかみ)に頼み、橋口隼人正の客人となっていた桜井刑部(ぎょうぶ)が龍宮洞穴の大木を取り除いたところ、一天(いってん)にわかに掻き曇り豪雨と共に生き面が3面浮かび上がった。

三番叟面は高野山に、翁面は時の領主(現在十河(そごう)家に伝わる)に、残る鬼面橋口家に伝わった。

  • 和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では、この物語を「国主淵(くにしぶち)の生き面」と題して次のように紹介している。

国主淵の生き面

昔、ある年のこと、貴志(きし)の谷一帯に、久しく雨が降らなかった。
日照りが続いた。
諸井堰(もろいぜき)からくる用水も絶えた。まわり一里あまり、広さ一七町といわれる平池でさえ、池底は、ひびわれ、水草は干からびていた。
それでもなお、日はカッカッと照りつけて、すみきった空には雲のかげすらなかった。
田は枯れはてた。
家々の井戸水にも、事欠くようになった。
きょうもまた、平池の堤へ、村人たちは、麦わらを持って集まっていった。
雨乞いである。
高野山からタバッテきた、貧者の一燈の火も着いた。甘露寺(かんろじ)の方に、西日がまったく沈んでしまうと、あたりは急に暗くなった。
闇夜の中に「パチ、パチ」と、からをはぜて鳴る、麦わらの炎だけが息づいた。
平池の堤に、人びとは、火を囲んで、般若心経を一心に唱えた。

かんじーざいぼーさつ、
ぎょうじんはんにゃ、
はーらーみった。
じーしょうけんご
うんかいくうど・・・

いつまでも、祈りの声は続いた。
さっきまで、焼けつく太陽をうけて、あたりの草は、暗闇の中にムッと熱かった。
最後の火がどっと燃えたぎり、やがて尽きてしまうと、読経の声も低くなり、またひときわ高くなって、終わったようであった。
人びとは、あぜ道をひとすじに、並んで帰った。
闇の中に赤く天をこがしているあの火は、北村の雨乞の火だ。あの火は井ノ口西谷池あたりだろう。北のあの火は、行者山へんと知れた。
いったい、いつになったら、降ってくれるんやろか。
ほんの、ひとしずくでもええ、降ってくれたら、ええんやけどなあ
人びとは、同じ思いで歩いていった。乾ききった田の土が、暗闇に白っぽく浮かんで見える。
ここの田ァ、民右ヱ門はんとこの田ァや
あそかあ、藤兵ヱはんの田ァや
そこァ、兵右ヱ門はんとこの田や
こかぁ、喜左ヱ門はんとのや
ひとつひとつ数えながら、田の水を涸らすまいとした苦労のひとつひとつを思い出していた。もうとっくに、桶で溝っこをかすった。家の井戸、野井戸からも汲み上げて運んだ。
涸れ尽くした貴志の谷界わいで、深い水をたたえた所が、ひとつところだけあった。
それは、国主淵であった。
貴志川が、大国主の命をまつる、大国主神の下を流れるところ。ここ、国主淵には、岸の大木が、どんよりとした、青黒い水をおおって、昼なお暗く、烏帽子(えぼし)岩、鞍懸(くらかけ)岩、天狗岩、龍宮岩のあるあたりは、最も深くて、人びとは、国主淵と呼んでいた。平池の底と通じているといわれる龍宮岩の奥深くには、大国主明神の使いである大蛇が住んで、人びとは、ここを恐れていた。
もう、しやない。国主淵をかすらんか
そうや。もうあかん。こうなったら、淵の水をかすりよそらェ
村人たちは、この国主淵の水を汲み始めた。おうこ(筆者注:天秤棒のこと)で荷ない桶をかついでは、すこしずつ運んでいった。
かつては、人びとの恐れて、近づけなかった淵の岸でさえ、しだいに、干上がって、岩のすそをあらわしていった。
その時である。
ある人は、そこに異様なものを見た。
龍宮岩の水の奥に、大木が横たわって、その様は、大蛇の姿とも見えたのだ。
龍宮の入口ィ、おーきな木ィや、はさまって、水の湧き口、とめてるっちゅうこっちゃ
その木ィ、どけやなんだら、もう、水ァ、のうなってしまうど
だえ(筆者注:誰)ぞ、あの木ィ、どけてくれんかなァ
噂は、広がり、互いになげきあう声と変わった。しかし、神の怒りを恐れて、再び、国主淵へ近よろうとする者がなかった。
そのころ。
貴志の荘小野村郷士橋口隼人(はしぐちはやと)の家に客人として、世話をうけていた、桜井刑部(ぎょうぶ)という武士がいた。
日ごろは、恩義をこうむりながら、お礼をするなにものもござらぬ。ただ、拙者も武士、いささか武芸の心得もござる故、大木とやら、大蛇とやらを除いて進ぜよう。お任せ下され。
それは、すまんことで、ございますのし。ほやけども、わしらの恐れている大蛇のことやよってにのー。気ィつけて、いたーかひてよー。
人びとは、桜井刑部の好意をうけて、その身を案じつつも、かすかな望みをここに託したのであった。
死をかけて、桜井刑部は、橋口家、重代の志野のなぎなたを、小脇にかかえ、烏帽子岩から、淵の水へと身をおどらせていった。
大蛇の住むという淵の水は、青くよどんではかり知れぬ深さをたたえている。
あの横たわるものは、蛇か、木か。
刑部は、水をけり、抜き手を切って、近づくと、この大なぎなたをふりかぶり、満身の力をこめて、切りつけた。
と、みるみる、動いた。
大蛇だ。
刑部が構えなおした、その時、岩の下からドッと、濁水が、ほとばしった。
らんらんと、光るまなこ。形相おそろしくいどみかかる大蛇にむかって、一撃。右に、左にかわしては、また一撃。
血潮が、目の前をおおった。
大蛇は、荒れ狂った。
吹き出す渦にもまれながら、刑部は、そこに動きまわる生き面を見た。
一つ。二つ。三つ。
大蛇と戦い、泡立つ波間を縫っては、これを掴みとり、
ひとつ。ふたつ。みっつ。
と、手にして、水面に浮かびあがった時、怪しげな風、淵の面を撫でて、空はまっ暗となった。
ポツリ、ポツリ。
大粒の雨が、水面をたたく。
ほっと、ひと息ついた時、ゴォーッと水鳴りの音がして、あっと思う一瞬、かの志津のなぎなたは、水中深く吸いこまれていった。
雷が、光った。
しのつくばかりの大雨となった。
濁水は、溢れて、川は、走った。
貴志の谷の草木は、生きかえった。
人びとも、生きかえった。
村人たちは、喜びのおもてを、雨にうたせながら、いつまでも、田の稲を見つめていた。
桜井刑部の得た面のうち、ひとつは、高野山に納めた。小野村は高野領であった。ひとつは、虎伏山竹垣城の浅野の殿さま(筆者注:関ヶ原の戦いの後に初代紀州藩主となった浅野幸長及びその弟の二代藩主浅野長晟を指す。長晟は、後に徳川頼宜紀州藩主となったことにより安芸国に移り、広島藩初代藩主となる。)にさし上げた。残るひとつは、橋口家の宝として伝えられることになった。
その後、貴志の谷が、ひやけ(日照り)の年、橋口家の当主、この面をかぶって、神前で能を舞えば、空かきくもって、たちどころに、雨が降ったという。
この面は橋口家当主より余の者がかぶると面の精気に当たって、病むのが常であったという。
浅野侯に献上した、翁の面は、次の紀伊国守、徳川侯に伝わった。
やはり、生き面のこととて、これをかぶって、最後まで能を舞い終える者がなかった中に、十河(そごう)源左衛門、この面をつけて舞い終えたので、時の領主、その剛気をめでて、面を与えたという。
オイは、三月、もり物三本。
貴志の大飯(おおめし)、見にいこら。
いつのころからか、大国主神社、四月三日の祭には、大飯なる盛物を、大国主神社に、奉納するようになった。
そのひとつは、明神の使い、大蛇の住む、国主淵に供えるのを例とした。
貴志川は、きょうもかわらぬ、清らかな流れをみせている。
貴志川町:国主淵(くにしぶち)の生き面 | 和歌山県文化情報アーカイブ

  • 紀州の伝説 (日本の伝説39) (角川書店 1979)」によれば、桜井刑部は橋口家に伝わる名刀「村雲」を携えて淵に飛び込み大木に切りつけたが、大木と見えたのは実は大蛇で、刑部は大蛇との戦いの最中に水中に現れた「生き面」のうち三つを捕らえて岸に這い上がったものの、大蛇は名刀を奪って逃げ去ったとする。また、面の行き先については、一面は紀州藩士の末孫十河弘氏宅、一面は橋口隼人の末孫橋口幸吉氏宅にあり、「橋口宅の面は、日照りで困ったとき、橋口家の子孫がこれをかぶって能を舞えば、たちどころに雨が降る、と信じられている」とする。
  • また「日本伝説体系 第9巻(みずうみ書房 1984)」によれば、桜井刑部が携えた刀は帝から頂いた銘刀「国次」とされ、大木が泥水とともに消え去った際に銘刀を失い、同時に水面に面が浮かんだとする。刑部は刀を探して再び渕に飛び込むが面のうち三面を捕らえたのみに終わったため、その後も毎日渕へ通ったが、7日後に急死したという。

 

  • 大正11-12年(1922 - 23)に発行された「和歌山県那賀郡誌 下巻(和歌山県那賀郡役所)」の「伝説」の項には、「国主淵面の由来」という一節があり、この物語について考察を含め詳細な解説が記されている。長文になるが、その内容を下記に引用する。

国主淵面の由来

 中貴志村大字国主に鎮座せる国主神社の南涯深く浸蝕し絶壁をなす。貴志川此所に来りて俄に深潭となり、碧水淀みて流れざること数町。世、之を国主淵という。
 相伝う、往昔此淵に国主明神の御使なる龍神棲息せし故、舟行するもの皆、祟を恐れて言語を慎めりという。又云う、此淵の最も深き所大なる洞穴ありて、遙に紀の川経が淵に通ぜりと。
 按ずるに、文禄元年(1593)五月に至り、天雨を降さず川々枯れて到る所川床を露出し僅に所々の深淵に潴(ちょ)水の残留するのみとなり、六月に入りて村々より雨講ひ火降り等氏神に祈願せるも何の効験なく、愈々旱魃の兆候を呈しぬ。
 此の淵の終りに諸井堰あり。一の堰にて貴志領高野寺領とにかかるものなるが、東西の井路に一水も上らず田圃悉く亀裂して稲苗将(まさ)に枯死せんとするを以て、関係せる村々より人足出でて湯口及水路の修理掘凌等を行うこと数十度に及ぶと雖も、更に其甲斐なく六月半を過ぎて天に陰翳だも見えず照り続くのみなれば、今に飲料水にも事欠くに至れり。
 村々協議の上、今は手を空しくして傍観すべきにあらず、幸いここは深淵を控ゆることなれば、村々より人数を駆り集め此の淵をかすり灌漑に努めんものと、六月二十一日東西より人数五百余人を集め、百数十挺の水車を連ねて交替にてかすり上げたり。これぞ前代未聞の大作業にして、此の不可思議なる淵の謎を解くべき時来れりとて、四方より見物人の集ること夥しかりき。
 明神の下の岸根に亀甲の如き巌あり。其下洞穴を為して深さ知るべからず。此時見れば此岩穴の内へ大水滔々として流れ入り、殊に大木、彼の岩穴へ流れかかり穴の口を塞ぎければ、此の木を取り除くことも又水をかすることもならず、皆呆然として只打眺むるのみ。其水冷きこと限りなく、人々惧(おそ)れ逡(しりぞ)いて一人も近寄ものもらず。斯くて折角の大作業も未だ功半ばに達せずして中止されんとせり。
 然るに、爰(ここ)東岸(ひがしきし 地名)の庄中小野村橋口又右衛門なるものあり。其祖先は嘉吉(1441 - 1444)以来屢々(しばしば)高野の冠を防ぎ勲功を立てたる賞として幾度か領地を加増され、今は五百七十石を有する地方唯一の豪族となり威望並ぶものなく、又其家臣に桜井刑部というもの、勇猛絶倫廔々戦場に往来して其名遠近に知らるるあり。群衆今や此の大木の支障に力尽き使を馳せて之を橋口家に告ぐ。
 又右衛門、刑部に命じて之を視せしむ。刑部、時に年七十三、尚钁鑠(かくしゃく)壮者を凌ぐの風あり。即ち使と共に現場に赴き、直ちに身を跳らせて水中に飛び込み、岩穴の様子を伺えば、大木の先端岩穴中に深く入り込み、之を動かさんと欲すれど微動だにせず。さりとて木に閉塞されたれば、穴中を探ることもあらず。さすがの刑部すら合点参らずとして一旦浮き上り、其儘帰宅の上、橋口に斯(か)くと復命に及べば、橋口は然らば我等が家に伝うる雨雲の太刀を佩き今一度彼岩穴へ参り、右の木に縄をかけ引き出すべしと命ずれば、刑部再び到りて多くの人々をして綱を引かせしが動かす能わず。
 刑部、右の木の末端に手を掛け金剛力を出して引出せば、不思議やさすがの大木も動き出すと共に岩穴より濁水奔注、空に迸(ほとばし)ること三十間(約55メートル)に及び、夫(それ)より右の怪木、手を触れざるに自然に転回すること限りなく、人々余りの不思議に蛇体か鬼神の変怪にやと恐を抱けり。折りも折、明神の上空より墨を流せし如き黒雲現れしやと見る中に、あたり一面薄暗くなり、閃電荐(しき)りに放射し、雷鳴殷々として耳を劈(つんざ)くの光景物凄く、加うるに暴雨竿を投ぐるに似て四面模糊、今は人の顔さえ見分け難くなれるに、人々是れ唯事に非らじと鍬唐鍬其他諸道具を悉く投げ棄て、先を争いて遁逃せり
 刑部も一先づ帰りて我腰を見れば、豈計らんや佩きたる太刀鞘諸共取落して姿なきにぞ。こは無念なり、稀代の名刀取り残しては弓矢取る身の恥辱なりと、再び元の淵辺に立帰り岩穴の周囲を能く見れば、水上何とも知れざる怪物の無数に浮び出であるに、勇猛なる刑部、此の怪物を捕えて正体を見届けんと復も身を跳らせて川に飛び込み、左の脇に数個の怪物を抱え、其儘岸に上りしが余は皆洞穴の中に沈没し了(おわ)れりという。
 然(しか)も遂に太刀を探り得ず、失望の余(あまり)悄然として帰途に就きしが、彼の左の脇に抱え捕え獲し怪物は不思議や三顆の仮面にて、一は三番叟、一は翁、残り一つは鬼の面なりとぞ。
 刑部は夫より毎日太刀を尋ねんが為め川中に入り隈なく探りしが、遂に見当らざるのみか、彼の大木も穴に入りしや行方知れずなれり。然るに六月二十八日の夜半、刑部ふと身まかりし(身罷りし 突然亡くなったこと)も不思議の一つと言われたり。
 其後、高野山よりは余りの怪しさに実地調査の為め地査のため南谷善心小田原相膳坊の両使僧指越され逐一取調べし上、帰参し復命に及ばれ、東岸中へ其年の御年貢総はねと称して米三百石下され、橋口が家へは田地御割内引高御年貢九十二石五斗其時の褒美の為め皆無とせられたり。而(しか)して関係の村々よりは刑部の弔料として其子刑部八郎に銀三枚米二十石を贈れりと。

 以上は面の由来として文禄元年橋口又右衛門手記中より抄録せしものなるが、其後三顆の面の中、一は高野山に納め一は本藩主に献じ一は橋口家に保存せりと。紀伊名所図絵に仮面の事を記して「深淵より出現したるというこは 文禄年中大旱の時 雨祈りの祭を修したるに 不思議なるかな三面を得たり 其の一面は本藩十河氏にあり」云々。此事風土記に「領主に献ぜしもの 今転じて藩中の士十河氏の家に伝う 十河氏伝うる所の面 小児の疱瘡の守なりとて 諸人多く尊信す」云々。即ち此時の面なりという。同書に又「橋口の家に古き仮面を蔵む 文禄年中 桜井刑部 貴志川国主社の傍の淵に入りて取り来る所という 高野領内神社改造供養の時 神前にて其面を着けて舞をなす 祖先又三郎の故事(永禄元年天下大旱の時 高野に勅して雨を祈らしむ 橋口又三郎というもの時に八歳にて勅使の前に出で謡曲をなす時に 大雨忽ち降れり 帝叡感ありて高野山に黄金百枚を賜い 又三郎に国次の太刀及黄金一枚を賜う)によるという」云々。
 又同書国主淵御手洗淵の条に、水かすりの際、刑部淵中にて三面を取得たるは永禄元年にして、曩(さき)に橋口の条に文禄年中刑部の取得たる由を記す。前後矛盾蓋(けだし)誤植によるにや。他書悉く文禄元年と記せり。今之に従う。
 然るに、高野山軍記に左の意味の記事あり。茲(ここ)に併せ記して暫く疑いを存す。


 天正九年織田信長高野攻を行われしとき、大軍を発して高野七口の塞を攻む。一山の危急此一戦にあるの際、東岸小野の豪士橋口隼人正重藤軍師として防禦軍の為に計策し、屢々(しばしば)織田の軍を苦しめて殊功を現わし、或時は信孝の妹背の陣所を夜襲して敵胆を寒からしめ遂に一山全きを得たるの後、黄金作りの陣刀一口及高野の霊宝たる木彫の古面二個の中一個を恩賞に与えたるが此面。子孫に伝わり、今猶該家に秘蔵せりと。


 孰(いず)れにしても稀代の古面たりしに、何時の頃なりしか野山の悪僧、橋口が家に伝わるものを得んとして垂涎措かず譌(あざむ)くに一覧を講うを以てせり。同家にては之を諾して貸与せるが、後に至り返礼されしは他の面とすりかえられたる全く偽物なりと言う。而も、其偽物の面も大正年度迄同家の末裔某が秘蔵しありしが、大坂の商人某に売却せりとぞ。

※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字及びかなづかいを現代のものに改めるとともに、適宜改行、句読点などを加えた。また、( )内は筆者による。

  

  • 橋口隼人正の家系に連なる橋口家は地域の旧家で、紀北・泉南地域の村々の祭りで神事能「翁」を奉納した「貴志大夫(きし だゆう)」の家として知られているほか、室町時代以来、数度にわたって高野山を戦乱から守った家でもある。同家には多数の古文書などが残されており、中には、伊達政宗の書状や木食応其(もくじき おうご)に関わる古文書などの貴重なものもある。また、上記で引用した「和歌山県那賀郡誌」では橋口家に伝わる仮面は偽物にすり替えられ、またその偽物も売却されたとしているが、下記リンク先の資料によれば当該仮面は現在でも橋口家で所蔵されており、室町時代の作と見られているとする。
    参考:
    和歌山県立博物館 企画展「高野山麓の西端で―貴志川流域の文化財―」 令和元年
    企画展「高野山麓の西端で」:和歌山県立博物館

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「國主村」「國主明神社」の 項にある「大飯神事」の説明には次のような記述があり、国主渕に住む龍蛇を抑えるために毎年生贄を捧げていたとの伝説があることが記されている。

大飯神事
(略)
古老の伝えに
此祭は昔当社前の淵に龍蛇ありて
多く人をとり殺しゝかは
其蛇を神と祀り
年々生贄とて人一人を備えける
後此大飯に代えて備うといえり
古伝説なるべし
神代ノ巻八股ノ蛇の故事
又今昔物語に飛騨ノ國にて猿を神と祭リて生贄を備えしこと
遠江ノ国桜池の故事等似たることなり

※筆者注:読みやすさを考慮して漢字、かなづかいを適宜現代のもにあらためた

  • 但し、上記引用文にあるとおり、同記は生贄の話は「古伝説なるべし」としており、当時(江戸時代後期)では生贄の代わりに「貴志ノ大飯(きしの おい)」を作って供えることになっていると続ける。「貴志ノ大飯」とは、「白米12俵を飯に炊き、数万の団飯とし串に刺す。その串の数一万三千本。飯を大桶の上に山の如く積上げ、真中に幣を刺し、車に載せ数百人これを引きて神前に備へ、又社前の淵にも沈むるなり。」とあり、12俵分の白米で作った握り飯を串に刺して神前と国主渕に供えたとされる。
  • この行事は、「大飯盛物祭(おい もりもの まつり)」として現在も継承されている。準備の負担が非常に大きいため不定期の開催となっているが、直近では平成28年(2016)4月3日に開催された。この際には、竹軸で作った高さ約5メートル、直径約3メートルの熱気球様のものの表面に竹串に刺した6,000個の餅を取り付けて薦(こも)で覆った「盛物(もりもの)」を台車に乗せ、獅子舞やみこしなどに先導されて、紀の川市役所貴志川支所から大国主神社までの約2キロメートルの区間を「盛物節の歌」を唄いながら2時間以上かけて練り歩いた。
    紀の川市指定民俗文化財 大飯盛物祭

 

  • 前述の「紀伊風土記」では、その創建について次のような記述があり、大国主命が兄弟神に命を狙われた際に母親の教えに従って紀国の大屋毘古神(おおやびこのかみ 伊太祁曽神社主祭神である五十猛命(いたけるの みこと)の別名)のもとへ向かう際にここに立ち寄ったのが由来であるとしている。続けて、我が国に大国主命を祀る神社は多いが、当社がその本宮であるとも記述している。

古事記
大國主ノ神の兄弟八十神ましヽヽしに
八十神達、大國主ノ命を妬みて殺し奉らんと種々に困めしを
其御母神告教給ひていまし
此間にいまさは遂に八十神に滅ぼされんとの給ひて
木ノ國大屋毘古ノ神の御所(もと)にいそかしやり給ふ
とあり 
然れは 此地は 
其時大國主ノ神の來り坐しゝ地にて即其に斎き祀れるならむ
本國に大國主ノ神を祀る所の多きも此によれるなるへくして
當社其本宮なるへし

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。