生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

白岩谷と土蜘蛛 ~責志川町(現紀の川市)尼寺~

 町の北、和歌山市に接する山の斜面が、ゴルフ場に生まれ変って久しい。だが、かつてはこのあたり一帯に土蜘蛛(つちぐも)がはびこり、村人たちを悩ましたという。

 

  その土蜘妹を退治したのが、坂上田村麻呂(758~811年)。天皇の命を受けた田村麻呂は、手あたりしだいに土蜘珠を討ち取った。そのとき、あたり一面に血が飛び散り、斜面に露出していた真っ白い大岩を赤く染めた~とか。
 以来、この白岩に朱の斑点ができたともいう。

 

 土蜘珠。それはやはり、略奪をほしいままにした「土匪」の類であったのだろう。だが、伝説の拠点となったその岩さえ、いまどこにあるのか、土地の人たちも知らない。ただ「白岩」の地名と「白岩池」が残り、町内に多い「坂(阪)上」「田村」の姓が、田村麻呂との結びつきを語るにすぎない。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

現在の貴志川ゴルフクラブの東端付近に「白岩」の地名が残る
白岩池は御茶屋御殿山山頂から約1.2km南にある堤頂長134.5mのため池
(堤頂長は「和歌山県 農業用ため池データベース」による)

 

  • 近畿民俗学の機関誌「近畿民俗」通巻82号(1980年)には、「和歌山県那賀郡貴志川町 共同調査報告書」が掲載されており、その「口頭伝承」の項に坊上坂上の誤りか)田村麿にまつわる伝承として次のような話が収載されている。
口頭伝承
伝説
<田村麿> 貴志川町尼寺に白岩谷がある。その白い岩に斑点がついている。それは、坊上田村麿がクモという賊を退治した時の血であるという。この賊は手強く、北丸楢の藤神の近くにカタメ竹(片目竹)があり、これで弓を作って射るとクモを退治することができるという夢のお告げがあり、それによってはじめて退治することができたといわれている。
(丸楢 北山タカ氏談)
近畿民俗 = Bulletin of the Folklore Society of Kinki : 近畿民俗学会会報 (82) - 国立国会図書館デジタルコレクション
(国立国会デジタルコレクションの閲覧には無料の会員登録が必要。以下同様。)

 

  • 大正11-12年(1922 - 23)に発行された「和歌山県那賀郡誌 下巻和歌山県那賀郡役所)」の「伝説」の項では、「白岩谷」という題名で次のような物語が紹介されている。

白岩谷
 同村大字尼寺の北方に一渓谷あり。谷深からず而も傾斜急に附近頳々たるを以て遠くより望見するを得。
 下より登ること二町許(ばかり)にして白色の岩石大小数十雑布置して、三、四町(327~436メートル)の間に裸出せり。故に名づけて白岩谷という。夫婦岩畳岩烏帽子岩等、各々形によって名を附す。
 大なるもの方三丈(約9メートル四方)に及ぶ。石質は皆硅酸質なるが、風雨幾千年、所々黒黴を生じ、黄朱の斑点を生ぜり。平凡の山容中、此奇蹟を存す。亦、珍とするに足る近時、工業の原料として若干破壊されたるは惜むべし。
 名所図絵(筆者注:江戸時代後期に出版された地誌)

紀伊国白岩谷という所は、紀の川の南、岩出里の未申(ひつじさる 西南)の方に大なる石数多あり。皆赤く血の色の如し。往古は色潔白にありけるが、当所に土蜘蛛ありて人を取る。因て時の帝より勅を下し玉いて是を退治けるが、其即ち白岩を穢し、今に其色変ぜず血色なり。然れども、往古の白岩谷をところの名とすという。
 此岩の東なる峯に巌あり。其所に方五、六尋(約9~11メートル四方)なる岩穴あり。深さ知るものなし。或は言う、昔此谷は山賊埋伏して鬼魅妖怪を企てなし、人を威して物を奪う賊を号して土蜘蛛という
 此所、南の方晴れて貴志郷の里村、野上の峯々 を眺望の景色言うばかりなし。遠く眺むれば重山畳々として波濤の如し。数十の白岩、或は一尋(約1.8メートル)、又三、五尋ばかりなるが、谷の頂より麓まで程よく林泉の如く其間に清泉流れたり。かかる風景、他にあるべくとも覚えず
 土人呼んで蜘血石といいて附会の話をなす。ここの石は至て白石にして金砂を帯びたり。その性質によりて或は黒く、或は赤く銹(さ)びたるもあり、域内の一奇観というべし。」云々

 俗説紛々(ふんぷん)取るに足らざれども、此山の東に高い幡山あり。往古蜘蛛住みて民害をなす。田村麻呂、王命を奉じて来りて之を討滅せること地方の伝説に残れり。今此所の蜘血石は此れに因みて捏造せるものか。

 ※筆者注:読みやすさを考慮して漢字、かなづかいを適宜現在のものにあらためるとともに、改行、句読点などを追加した。

 

  • 平成21年3月に紀の川市が発行した「恵みの源 受け継がれてきた水資源」によれば、次のとおり白岩谷池の周辺で大蜘蛛を誅したのは鎌倉時代の貴志荘の代官となっている。

 南面する緩やかな傾斜地に棚田が広がる尼寺地区
 その一角を占める白岩谷池の周囲は、古来、純白の巨岩に黒い斑点がみえると言われ、『紀伊風土記』では、人間を害した大蜘蛛が誅されて、その骨が化石となったものと記しています。
 この大蜘蛛を誅したのが岸(貴志)正平という鎌倉時代はじめの貴志荘の代官(下司)で、数々の功績により人々から崇められ、「権大神」として祀られたといいます。
恵みの源~受け継がれてきた水資源~

  • 上記引用文にある「紀伊風土記」は、「那賀郡誌」で引用された「紀伊国名所図会」と同様に江戸時代後期に編纂された地誌であるが、「名所図会」は個人の出版であるのに対し、「続風土記」は紀州藩の事業として編纂されたものであるためその記載内容はより公的な意味合いが強い。「続風土記」における白岩谷の記述は下記のとおりとなっている。

村の北五町許に南北一条の小谷あり
山足より登ること二町許
純白の巌 大小錯雑磊々落々として三四町の間に連亘す
大なる者は方三丈 或は二丈余なる者最多し
皆白質中に黒黴を生じ 黄朱の細点あり
或人の説に
山に金銀を蓄うれば石面に赤き錆を生ず
という 或は然るか
土人これを蜘蛛の骨石という
又 谷の東に小さき岩穴あるを蜘蛛の穴という
相伝
古 此山に大蜘蛛ありて人を害す
領主 岸正平という人これを誅す
其骨 化して石となるという
正平は安貞の頃 此荘の下司職たり
山賊を誅せしことあるを かくはいい伝えたり

※読みやすさを考慮して適宜、漢字、かなづかい等を現代のものに改めた

紀伊続風土記 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

  • このように、当地に伝わる土蜘蛛退治の伝説には様々なバリエーションがあるが、これについて紀の川市に合併する前の貴志川町が編纂した「貴志川町」では次のような解説がなされている。

 この伝説には、「紀伊国名所図会」の編纂当時から種々の説があって、かなりの尾ひれをつけて語られていたらしく、同書もこの地の里人が「蜘蛛岩なんどの名をよびて、俗説紛々たり」と記している。
 おそらく、この白岩谷にかかわる伝説の一つであったのだろうが、昭和9年(1934)、田村安千代の編纂した「貴志郷土物語」には、この土蜘蛛退治を平安初期のこととして、退治したのは坂上田村麻呂であったという話を採録している。この白岩谷にまつわる田村麻呂の土蜘蛛退治伝説は、かなり広まっていたらしく、戦前編纂された中貴志村の「郷土誌」(中貴志尋常高等小学校刊)丸栖村の「郷土誌」(丸栖尋常高等小学校刊)西貴志村の「郷土誌」(西貴志高等小学校刊)にもそれぞれ紹介されてきた。
 これらによると、坂上田村麻呂が土蜘蛛を退治する際、尼僧をおとりにつかったため、彼女のために一寺を建立したことから、現在の尼寺という地名が生まれたとするなど、貴志谷の地名起源説話も種々伝えている。
(中略)
 以上の状況を整理すると、田村麻呂の土蜘蛛退治伝説は、この地に盤踞(ばんきょ)した坂上が同族を称する征夷大将軍坂上田村麻呂の死後、自分たちがこの地に住むようになった由来を大将軍に仮託して理解しようとして、作り出されたものと推定できるだろう。

 

  • 紀州の伝説 日本の伝説 39(中村浩・神坂次郎・松原右樹 角川書店 1979)」には、これらの伝説のうち代表的なものが紹介されている。

 国主神社の東方2キロあまりの高尾山(たかおやま)に、坂上田村麻呂の土蜘蛛退治の伝説がある。
 昔、ここに棲んでいた大きな土蜘蛛が、近国に出没しては人をとって食うので、土地の人々は都の田村将軍に退治方を頼んだ。将軍がこの地に来たある夜、蔵王権現の夢のお告げがあり、ここから東方の猿川(さるかわ)(筆者注:現在の海草郡紀美野町に生えている将軍木梓弓(筆者注:あずさゆみ 神事に用いられる弓)を作り、それで土蜘蛛を調伏(ちょうぶく)するとよいという。
 そのとおりにして弓を得たものの、土蜘蛛は棲家の洞穴近くに巣を張りつめ、変幻自在に出没するので、矢を放つ機会もなく、すっかり手を焼いていた。
 蔵王権現から再びお告げがあり、餌をかけておびき出すとよいとのこと。ちょうどその時、七十五歳の比丘尼がいたので、土蜘蛛の餌になってくれるよう頼むと、尼も人々のため一命を捨てるのは望むところという。
 将軍は高い松の梢(こずえ)に尼を縛り付け、それを食べにきた土蜘蛛を退治した。
 のち尼の菩提を弔い一寺を建立したのが、国主神社の北方約2.5キロにある尼寺、すなわち現在の観音寺であると伝えられる。

 

 また一説によると、土蜘蛛の棲家は観音寺の北西約2.5キロの鳩羽山(はとばさん)にあった。今はゴルフ場に開発され形跡をとどめないが、10年ほど前まで土蜘蛛の住んだ洞穴があったとのこと。
 そこの土蜘蛛が、山の東麓、八幡宮の楠から巣を張り出し、約1キロ東南にある尼寺の美しい尼をねらった。
 土蜘蛛の害を訴える村人の声を聞き、田村将軍が来たが、まず矢を作る片目竹(かためだけ)を探すため、猿川村に行った。ある夜の夢のお告げで、片目竹は丸栖(まるす)
(筆者注:現在の紀の川市貴志川町丸栖)の川辺にあると教えられ、翌日それを手に入れ、土蜘蛛を退治したという。
土蜘蛛のねらった尼は美福門院(びふくもんいん)であるとも言い、今も観音寺に美福門院の位牌が伝わっている。

(筆者注:美福門院については別項「美福門院の墓」を参照)
美福門院の墓 ~桃山町(現紀の川市)最上~ - 生石高原の麓から

 

 貴志川町には田村将軍土蜘蛛の伝説が散在するが、観音寺の北、白岩谷にも将軍の矢を負うた土蜘蛛の血痕という蜘蛛血石(くもけつせき)が残っている。

 今は跡形もなくなったが、観音寺の西北、貴志川町長原にある西貴志小学校脇の溝川(みぞかわ)付近に、かつて「田村将軍の太刀洗いの井戸」があり、土蜘蛛のとどめを刺した太刀を洗った場所だと言い伝えている。 

f:id:oishikogen_fumoto:20200911182953j:plain

紀伊国名所図会 二編六之巻上 太刀洗いの井
国立国会図書館デジタルコレクション

 

  • また、和田寛著「紀州おばけ話名著出版 1984)」では「紀州民俗誌」を出典として次のような物語が紹介されている。

蜘蛛血石

 むかし、むかし、高畑山にとてつもない大蜘蛛が住んでおった。
 この大蜘蛛は高畑山を住み家にして、近くの村々を荒らしまわり、人や牛馬をつかまえては食っておった。
 村人たちは何度か、この大蜘蛛を退治しようとしたが、山へ行って生きて帰った人はなかった。
 ちょうどそのころ、坂上田村麻呂という大将軍が、弓矢をつくるじょうぶな竹を求めて、各地を旅しておった。
 紀伊の国に入り、貴志川下流まできたとき、川に一本のが流れているのを見つけた。拾い上げてみると、片方だけにしか枝の出ていない変わった竹で、とってもじょうぶで弓矢をつくるのにもってこいのものであった。
 田村麻呂は、
これこそ、わたしのさがし求めていた竹だ。この流れをさかのぼって行けば、この竹の生えているところに行けるにちがいない
と、思って、川をさかのぼることにした。
 藤ノ森(筆者注:現在の紀美野町中 後述の熊野神社の項を参照)というところまできて、やっとその竹の生えているのを見つけた。その竹は片目竹、または片目笹と呼ばれ、この村にたくさん生えていたが、どれもこれもまだ若くて、ひ弱すぎた。そこで、田村麻呂はこの地に留まって竹の生長を待つことにした。
 三年余りの年月がたって、竹はりっぱに生長した。田村麻呂は村人たちの力をかりて、その竹でたくさんの弓矢をつくったんだと。
 都へ帰る途中、田村麻呂は丸栖というところに宿をとった。そして、そこで村人から高畑山の大蜘蛛の話を聞いた。田村麻呂は、
その化け物は、わたしが退治してやる。この弓矢さえあれば、わたし一人でじゅうぶんだ
と、いって、たった一人で大蜘蛛を退治したんだと。

 大蜘蛛から流れ出た血は、あたり一面にころがっていた白い石を真っ赤に染めた。今でもその石の色は変わらず、高畑山には赤い血の色をした大きな石がごろごろしておる。

 あるとき、一人の男がこの珍しい石を見て、一つ家に持ち帰って床の間に飾っておいた。すると、その夜、だれもいないはずの部屋から声が聞こえてくる。
おかしいな、いったい何ものだろう
 男はじっと耳を傾けておると、どうやら床の間の石がものをいっているらしい。
高畑山へ帰してくれー、高畑山へ帰してくれー」
 男は気味が悪くなって、次の朝早く起きると、さっそくその石を高畑山へ戻してきたんだと。
 こんなことがあってから村人たちは、高畑山の蜘蛛血石を持って帰ると夜なかに泣きだすとか、色が変わるとかいうようになったんだと。


高畑山(高幡山)は貴志川町にあり、その岩谷にある白岩には点々と白紙に落とした血痕のような斑点がついている。学問的にはこの斑点は、白岩に鉱物質を含有していて、これが表面に錆として出るため、あるいは黒く、また鮮明な血痕のような赤色の斑点があらわれるのだと説明されているが、なんとも怪異な岩石である。この話の原話は『紀州民俗誌』『貴志の谷昔話集』である。 

 

 

 

坂上田村麻呂が若き頃、紀の川沿いに紀の国に入り、丸栖村(現紀の川市丸栖)まで来たとき、紀の川に合流する貴志川を、弓の矢に適した「片芽竹」の枝が流れてくるのを発見した。

田村麻呂は、その竹薮を捜し求め貴志川を遡り、ついに滝野川(現紀美野町中藤の森)で片芽竹の藪を発見した。

田村麻呂はその後、当地で3年間滞在し、村の娘との間に一子を成したが、いよいよこの地を離れるに際し、村と我子の守護神として熊野から勧請したのが熊野神社の始まりであると云う。

以後、その子孫が代々宮司を務め、猿川荘(現紀美野町田 外6字)の総氏神として奉斎されてきた。

境内には、田村麻呂を偲ぶものとして、田村麻呂お手植えと伝えられる「将軍桜(現在四代目)と「将軍塚」と呼ばれる宝篋印塔(県指定文化財がある。

 

 

  • 本文では、「土蜘蛛」は「土匪(どひ 土着の匪賊で、集団をなして、掠奪・暴行などを行うもの)」の類であったものと想定しているが、上記でもたびたび登場する江戸時代後期の地誌「紀伊国名所図会」では、「那賀郡誌」における引用部分の後に次のような記述があり、「土蜘蛛」の正体について一定の考察がなされている。

(ちなみ)に言う、
およそ山中石多き所には、かならず岩窟(いわや)・土窖(つちむろ)のたぐいあるものにして、そのあるところには、かならず土蜘蛛の栖(す)、あるいは火の雨を避けし所なんど、そのところの人の雑説まちまちなること、往々にしてみなしかり。
日本書記」を案ずるに、神武の御巻に、
(中略 筆者注:省略部分は日本書紀における「土蜘蛛」の使用例を列挙したもの)

又「平家物語」第五に曰く、昔日本磐余彦(かむやまといわれびこのみこと 神武天皇の天の御宇四年、紀州名草郡高雄村(前に出せる高尾張村)に一の蜘蛛あり。身(むくろ)短く手足長くして、力、人にすぐれたり。人民多く害せしかば、官軍発向して宣旨をよみかけ、葛の網を結いて、終にこれを掩(おお)い殺すと云々などあるをみるに、上古(いにしえ)岩窟・土窖などに住んで、人を残賊せる梟帥(ぬすびと)等を、蜘蛛の性の土に穴して住み、よくものを害(そこな)うに准(なぞら)えたるなり。
新井先生(筆者注:新井白石のこと)は、土蜘蛛とは假字(かりじ)にして、地神(つちかみ)なり、という語をクモと転ぜしにて国神(くにつかみ 筆者注:記紀神話に登場する高天原から天下った「天つ神」に対して、もともと地上にした土着の神を「国つ神」という)をかくは言いしとぞ。また、あるいはクモとはコモリの約(つづ)まりたるにて、土隠(つちごもり)ということなりとも言えれど、そは皆悪し。
※筆者中:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかいなどを適宜現代のものにあらためた。
紀伊國名所圖會  ニ編(六之巻上) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

  • 上記のとおり「紀伊国名所図会」では「土蜘蛛」について「岩窟などに住んで人を襲う盗賊らを蜘蛛の性質になぞらえて呼んだもの」とし、異説として新井白石の「国神が転じた呼称」という説を紹介している。福島好和氏の「土蜘蛛伝記の成立について(「紀要『人文論究』21巻2号」 関西学院大学人文学会 1971)」によれば、この解説の前段は、江戸時代に提唱されていた3説(盗賊説、国神説、異人種説)のうち本居宣長※1の説を採用したものであるとみることができる。
    ※1 本居宣長紀州藩に召し抱えられており、以後、本居家は紀州藩と密接な関係にあった。吹上寺・本居大平の墓(和歌山市男之芝町) - 生石高原の麓から

 江戸時代になると、土蜘蛛に関し、国学者らによって記紀の研究を通してさまざまの見解を生んだ。その中で注目されるのは新井白石本居宣長である。
(中略)
 これによると、白石は、土蜘蛛クモは、カミクマクモと再転化したもので、「ツチグモ」は「ツチカミ」すなわち「国つ神」であると解した。土蜘蛛の字を「国つ神」にあてたことについては、古くは蜘蛛のことを日本でサゝガニと呼んでいたのを、朝鮮語によってクモと呼ぶようになり、それが「史書撰述の時」ツチグモに土蜘蛛の字を適用したと説明している。つまり、白石が、土蜘蛛を「天つ神」と区別する「国つ神」すなわち「土着の先住民の神」としていることに注目しなければならない。
 しかし、これに対しては同じ時代に反論がある。
(中略)
 つまり、宣長ツチグモというのは、もともと日本語であり、土蜘蛛という称呼に意味があると考えた。すなわち、宣長土蜘蛛について「岩窟土窖などに住て、人を害ひ、残暴ぶる梟師等を、蜘蛛に准へて、如此は称けられたるなるべし」と解釈している。つまり宣長は、「人を残害(そこない)し者」を土蜘蛛と賤称したと解したのである。これは前述の『釈日本紀』の見解と同じであるといえる。この解釈は谷川士清の場合もほぼ一致している。宣長士清の見解は、土蜘蛛というのは、朝廷に服属しない兇暴な者の賤称だとし、異民族とか人種を論じているのではない。むしろ、土蜘蛛という称呼の語源や生活形態を想定した見解であり、これは白石も同じであった。
 その後、白石宣長と異ったみかたをしたのは飯田武である。武郷は、土蜘蛛を一種の異人種としてとらえた。つまり、その身なりが蜘蛛や蝦夷に似ていることから土蜘蛛とか蝦夷と称されるようになったと考えた。それは、単なる兇暴な者に対する賤称とするのではなく、人間の身なりが著しく異っているものを指すと考えている。それが特異な集団つまり蝦夷土蜘蛛であり、しかも蝦夷土蜘蛛とは、同一種とする見解を提示している。
 このように江戸時代の土蜘蛛観はその実存を前提にし、古典の解釈からその語源や生活形態を考証している点が注目される。特に宣長のように、朝廷に服属しない者の賤称と考える見方と、武郷のように異族と考える見方とが、これ以降の土蜘蛛論を左右するといって過言でない。この点で、江戸時代の土蜘蛛解釈論は評価されなければならない。ただいずれもその存在を認めた上での考証である点に問題が残るであろう。
関西学院大学リポジトリ

 

  • 上記のような解釈とは別に、芸能の世界などでは土蜘蛛(つちぐも)をその字義通り蜘蛛の姿をした妖怪であるとみなすことが多くなった。「平家物語」の「剣巻」では源頼光が巨大な山蜘蛛を退治した物語が描かれており、平安時代後期にはこうした認識が定着していたものと思われる。
    土蜘蛛とは - コトバンク

 

  • 漫画家マエオカテツヤ氏がミニコミ紙「ニュース和歌山」で連載している「妖怪大図鑑」では、「蜘蛛血石」として次のように紹介されている。

紀の川市貴志川町高畑山にある白岩には、白い肌に点々と血で染めたような斑がついていて、地元で「蜘蛛血石」と呼ばれている。かつて高畑山に棲んでいた大蜘蛛坂上田村麻呂が退治した時、大蜘蛛が流した血の痕だという。現在なお、この山には「蜘蛛血石」がごろごろあるというが、ある男がこの石を持ち帰ったところ、石から夜な夜な「高畑山へ帰してくれ」と声が聞こえてきた。他にも、夜中に泣き出すとか、色が変わるとか、奇妙な現象が絶えなかった。

www.nwn.jp

 

*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。