生石高原の麓から

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夜叉田の森 ~かつらぎ町笠田東~

 国道24号線から南へ少し入ったところに、小さな森がある。夜叉田の森(杜)。

 

 むかし、中国に玉藻前(たまものまえ)と、夜叉田姫という仲のよい女の神さまがいた。

 

 ある日のこと、うわさに聞く日本をひと目見たいと思った玉藻前は、夜叉田姫を誘って小舟をこぎだした。ところが途中、大嵐にあい、夜叉田姫は行方知れず。悲しんだ玉藻前は、海へ身を投げてしまった。


 何日かたって、紀の川の川口近くに打ち上げられた夜叉田姫は、玉藻前を探し続けて、ついにこの地まで足を伸ばした。村人たちのはからいで、森の中に小さな家を建てた姫だったが、ついに玉藻前に会うことなく、死んでしまったという。

 

 お話としては、きわめて他愛がない。だが土地の人は「大水害でも、ここだけは大丈夫なんや」という。その森の中のお稲荷さん。初午にはモチまきでにぎわう。

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世界遺産の玄関口 笠田のまち (赤丸内が「夜叉田の杜)
  • 笠田の郷の会」が作成したパンフレット「世界遺産の玄関口 笠田のまち」には、夜叉田の杜について次のような記載がある。

笠田東の夜叉田の地にこんもりとした森があります。昔中国から不老不死の妙薬を求めてやってきた娘がこの地で病に倒れました。村人たちは哀れに思い「娘塚(おとめづか)」を作り夜叉田の杜とも呼ばれましたが、いつごろからか「夜叉田稲荷大明神」として信仰の的となっています。

  • 同パンフレットの説明には夜叉田姫玉藻前などの固有名詞は記載されていない。夜叉田姫については詳細不明であるものの、玉藻前は下記で述べるように一般的には鳥羽院が寵愛した女性として知られており、中国の人物とは考えにくい。このため、本文の伝承は根拠に乏しいものと考えるが、稲荷神社との関係を考えると、下記のように興味深いことが考察できる。
  • 本来の意味での「夜叉」は、インド神話に現れる残虐な悪鬼 Yaksa、Yakṣī (Yakṣinī) を音訳したもので、男をヤクシャ(Yaksa)女をヤクシー又はヤクシニー(Yakṣī Yakṣinī)と呼ぶ。
  • 後にインド神話が仏教に取り入れられた際、夜叉は、仏教と仏教徒を守護する神々(護法善神 ごほうぜんじん)のひとつとして位置付けられた。護法善神は、「八部衆(はちぶしゅう)」と称せられる8つの種族により成り立っているとされ、「夜叉衆」のほかに「衆」「衆」「乾闥婆(けんだつば)衆」「阿修羅(あしゅら)衆」「迦楼羅(かるら)衆」「緊那羅(きんなら)衆」「摩睺羅伽(まごらが)衆」が含まれるとするのが一般的である。
  • 夜叉衆は四天王の一角である武神・毘沙門天(びしゃもんてん 多聞天と同一とされる)の眷属(けんぞく 配下)で、八大夜叉大将宝賢夜叉満賢夜叉散支夜叉衆徳夜叉応念夜叉大満夜叉比力夜叉密厳夜叉)のもとに数千の夜叉がいるとされる。
  • 鬼子母神薬師如来に従う十二神将宮毘羅大将、伐折羅大将、迷企羅大将、安底羅大将、頞儞羅大将、珊底羅大将、因達羅大将、波夷羅大将、摩虎羅大将、真達羅大将、招杜羅大将、毘羯羅大将)もまた夜叉に位置付けられている
  • 夜叉のうち荼枳尼天(だきにてん)は、もともとインドでは裸身で虚空を駆け、人の死期を6か月前から予知し人肉を食べる魔女とされていたが、真言密教によって日本へ導入された後に白狐に乗る天女の姿で表されるようになった。
  • 我が国には、稲の豊作をもたらす神としていわゆる「田の神(作神、農神、百姓神、野神)」信仰があり、狐はその神の使いであると信じられてきた(狐がネズミを捕ること、狐の色や尻尾の形が稲穂に似ているこによるとの説がある)。この信仰から成立したのが稲荷信仰稲荷神社である。ところが、荼枳尼天の姿が狐に乗る天女に姿へと変貌したことにより、神道に属する稲荷信仰と仏教に基づく荼枳尼天の信仰とがやがて習合し、稲荷神は荼枳尼天と同一であるとの信仰が生まれた。現在では仏教寺院において荼枳尼天を稲荷神の本地仏(神の本体である仏)として祀っているところも多い。
  • 以上のことを考えると、やや牽強付会と批判されるかもしれないが、この地にある稲荷神社が、田の神の使いであるに乗った、夜叉の一族である荼枳尼天(=稲荷神)の名を関している(夜叉田稲荷大明神)ということは自然なことであると言って良いかもしれない。
  • 上記の観点から見れば、玉藻前もまたに強い関わりのある物語であると言える。
  • 一般的に、「玉藻前」は、主として室町時代に興隆した短編物語である「御伽草子(おとぎぞうし)」のひとつ「玉藻前(たまものまえ 玉藻草紙とも)」などの物語に登場する人物として知られる。いわゆる「九尾の狐」が美女に化けて国の転覆を図ろうとした、という物語である。

鳥羽院の御所に、一人の女が姿を現した。
年の頃は二十歳ばかり、その容姿の艶やかで美しいさまは言葉にできない程である。
また、美しいだけでなく博識であった。
当然ながら鳥羽院の寵愛も厚く、片時も側から離さず女御のような待遇であった。
それを見た人々は
唐の玄宗の代ならば楊貴妃漢の時代であれば李夫人にも勝るだろう
と口々に言い合った。

ある年、簫歌殿(しょうかでん)にて詩歌管弦の会が催された。
風の強い日だったので、強風にあおられて灯籠の灯が消え、辺りは暗闇に包まれてしまった。
すると、鳥羽院玉座近くに居た女の身体が光を放ち、辺りを明るく照らしはじめた。
人々は驚き怪しんだが、鳥羽院
その光は後光の輝きのごとし、彼女はまさしく菩薩の化身である
と考え、これより女は「玉藻前(たまものまえ)」と呼ばれるようになった。

この一件で鳥羽院玉藻前のことを少し恐ろしく思い始めていたが、彼女の美しさの前ではそれも些事に思え、玉藻前と深い契りを誓いながら暮らしていた。
やがて院は病気がちになった。
日ごとに重くなる症状を訝しんで典薬頭(てんやくりょう 医師)を呼んだところ、
これは邪気が原因であり、医の道では治療できない
との見立てであった。
すぐに陰陽頭(おんみょうのかみ)である安倍泰成(あべの やすなり)の進言で調伏の祈祷を行ったが、一向に症状はよくならない。

臣下が泰成を問いつめると、
院の病の真の原因は玉藻前であり、あの女を除けばたちどころに御平癒なさるでしょう
とのことであった。

泰成によると
下野国(しもつけのくに)那須野(なすの 現在の栃木県那須郡)という所に、八百の年経た狐が住んでいる。
七尋もの大きな身体に二つに分かれた尾を持つその狐は、天羅国(インド)の班足(はんそく)という太子をたぶらかし、漢土(中国)においては幽王の前に絶世の美女・褒姒(ほうじ)となって現れて国を滅ぼした。
そして今まさにこの国に現れて、院の命を奪い、朝廷を我が物にしようとしているのである。

臣下たちはこれを院に奏上したのだが、一向に信じてもらえない。
そこで泰成は一計を案じて「泰山府君」という祭事を執り行うことにし、玉藻前御幣(ごへい 祭事に用いられる道具)を持つ役割を依頼したところ、いざ祭事が始まって泰成が祭文を読み上げると玉藻前は急に姿を消してしまった
やはり玉藻の前の正体は狐であった。

院は、当時もっとも優れた武士であった上総介三浦介の両名に妖狐討伐の命を下し、二人は郎党を連れて那須野に向かったが、妖術に翻弄されてうまくいかない。
両名はいったん兵を引き、訓練を重ねたうえであらためて那須野に向かった。
激しい戦いは七日七晩もの間続いた。

七日目の晩のこと、神仏に祈りを捧げて眠りについた三浦介の夢の中に齢二十歳ばかりの美女が現れた。
私の願いはもはや叶わぬでしょう。どうか命ばかりはお助けください。そうすれば貴方の一族を、子々孫々までお護りすると誓います
と懇願する姿を目にして、三浦介は妖狐が確実に弱っていることを確信した。

翌日、三浦介はついに狐を射止めることに成功する。
狐の身体からは種々の宝物が出てきた。

  • 栃木県那須町那須湯本温泉付近に存在する溶岩は、俗に「殺生石」と呼ばれている。これは、殺生石付近から噴出する硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒な火山ガスがしばしば鳥獣の命を奪うことからつけられた名前であるが、この石は先述の玉藻前に化けていた妖狐が討伐された際に石に変化したものであるとの伝承がある。伝承によれば、この石の上を飛ぶ鳥は落ち、これに触れた獣はたちまち死んだため、至徳2年(1385)に玄翁(げんのう)和尚が呪文を唱えて大きな鉄の槌(つち)で打ち砕いてから、この怪異はとまったとする。現在、大工道具のかなづちを「玄翁(げんのう)」と呼ぶのはこの伝承に由来するものである。
  • 九尾の狐(きゅうびのきつね)」は、中国神話に現れる9本の尾をもつキツネの姿をした伝説上の動物。中国ではもともと瑞獣(ずいじゅう よい知らせの前兆として現れる)とされていたが、明代の小説「封神演義(ほうしんえんぎ)」などにおいて九尾の狐が殷王朝紂王(ちゅうおう)の妃・妲己(だっき)に化けて王朝を滅ぼしたとのイメージが定着し、悪しき妖怪とみられるようになった。
  • 室町時代御伽草子では玉藻前の正体は二本の尾を持つ狐であったが、江戸時代高井蘭山(たかい らんざん 1762 - 1839)が著した読本(よみほん)「絵本三国妖婦伝」などにおいて九尾の狐であるとの設定が登場し、後にこれが定着することとなった。
  • 玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された美福門院であるとの説がある。名門出身でもない彼女が皇后にまで成り上がり、自分の子や猶子を帝位につけるよう画策し、中宮待賢門院を失脚させ崇徳上皇藤原忠実藤原頼長親子と対立保元の乱平治の乱を引き起こし、更には武家政権樹立のきっかけを作った史実が下敷きになっているという(Wikipedia玉藻前」の項より)。ちなみに、「荒川荘」が美福門院の所領であったことから、紀の川市には美福門院の墓と伝えられる場所がある。

    美福門院の墓 ~桃山町(現紀の川市)最上~ - 生石高原の麓から

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。