生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

夜叉田の森 ~かつらぎ町笠田東~

 国道24号線から南へ少し入ったところに、小さな森がある。夜叉田の森(杜)

 

 むかし、中国に玉藻前(たまものまえ)と、夜叉田姫という仲のよい女の神さまがいた。

 

 ある日のこと、うわさに聞く日本をひと目見たいと思った玉藻前は、夜叉田姫を誘って小舟をこぎだした。ところが途中、大嵐にあい、夜叉田姫は行方知れず。悲しんだ玉藻前は、海へ身を投げてしまった。


 何日かたって、紀の川の川口近くに打ち上げられた夜叉田姫は、玉藻前を探し続けて、ついにこの地まで足を伸ばした。村人たちのはからいで、森の中に小さな家を建てた姫だったが、ついに玉藻前に会うことなく、死んでしまったという。

 

 お話としては、きわめて他愛がない。だが土地の人は「大水害でも、ここだけは大丈夫なんや」という。その森の中のお稲荷さん。初午にはモチまきでにぎわう。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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世界遺産の玄関口 笠田のまち (赤丸内が「夜叉田の杜)
  • 笠田の郷の会」が作成したパンフレット「世界遺産の玄関口 笠田のまち」には、夜叉田の杜について次のような記載がある。

 笠田東の夜叉田の地にこんもりとした森があります。昔中国から不老不死の妙薬を求めてやってきた娘がこの地で病に倒れました。村人たちは哀れに思い「娘塚(おとめづか)」を作り夜叉田の杜とも呼ばれましたが、いつごろからか「夜叉田稲荷大明神」として信仰の的となっています。

 

  • 上記パンフレットでは、夜叉田姫は不老不死の妙薬を求めて一人で中国から日本にやってきたとされるが、本文の典拠になったと思われる伊都地方国語教育研究会編著「伊都の伝説(日本標準 1981)」には、次のような物語が掲載されている。

夜叉田(やしゃだ)の森   -かつらぎ町笠田-

 いつのころかはっきりしませんが、むかし中国に夜叉田姫(やしゃだひめ)玉藻前(たまものまえ)という二人の美しい神さまがいました。この二人は、姉妹のように仲がよくて、どこへ行くのも、何をするのもいつもいっしょでした。玉藻前という少し年上の神さまは、毎日毎日はた(筆者注:機)をおったり、本を読んだりしていましたが、それがたいくつでたいくつでたまりませんでした。
 それで、ある月の明るい晩、こっそりと家をぬけ出して夜叉田姫の家に行くと、
これから日本の国へ行こうと思うけど、いっしょに行きませんか。
といってさそいました。玉藻前はいつも両親から、日本という国はいいところだと聞かされていました。それで日本の国に行こうと思いついたのでした。
 この話を聞いた夜叉田姫は、日本の国は遠いし、ぶじにつけるかどうかもわからないので、ちょっと考えましたが、玉藻前が行こう行こうとあんまり熱心にさそうので、とうとういっしょに行くことになりました。
 二人を乗せた船は、静かに海へこぎ出されました。これから行く日本のことをあれこれ考えて、はなしにむちゅうになっていた二人は、船をこぐかい(筆者注:櫂)を海の中に落としたことにも気がつきませんでした。船は波に運ばれて、沖へ沖へと流されて行きました。
 むかしから『なき面にハチ』というように、悪いことは重なるもので、今まで空に出ていた月は、いつのまにかかくれて、黒い雲が空をおおってきました。
 どうやら海はあれそうな気配でした。二人はだんだん心配になってきました。
嵐がくるみたいですね。あなたの身にもしも何か起こるようなことになったら、どうしたらいいでしょう。むりにつれだしたことがいまさらながらくやまれてきます。
 玉藻前がそう言いおわるかおわらないうちに、空から雨が落ちはじめました。雨とともに風も強くなり、波も高くなってきました。
 二人の乗った小さな船は、まるで木の葉のように波にもまれて、もう今にもしずみそうでした。二人はあまりのこわさに気をうしなって、船の中にたおれてしまいました。
 どれくらいときがたったでしょう。
 空には星がかがやいていました。あんなに強かった雨や風が、まるでうそみたいにやんで、海はもとの静けさをとりもどしました。ところが、どうしたことか、夜叉田姫のすがたが船の中にみあたりません。
 どうやらあの強い嵐のため、海に投げ出されてしまったらしいのです。それに気づいた玉藻前のなげきや悲しみは、とてもことばではあらわせないくらいでした。玉藻前は長いこと、気がくるったみたいになき続けていましたが、やがて立ちあがると、夜叉田姫のあとをおうように、海の中に身を投げてしまいました。そのあと、玉藻前は悪い神さまになって海の底でずっと生き続けているのだそうです。それで、若いむすめの乗った船がそこを通ると、ふしぎなことに船は海の底にしずんでしまうということです。きっと、深い海の底で夜叉田姫のことをしたい続けているからでしょう。
 それでは、海に投げ出された夜叉田姫はどうなったのでしょう。
 夜叉田姫は海に投げ出されたあと、波に運ばれてとうとう紀州紀の川じりにたどり着きました。からだも心もすっかりつかれはて、まるで死んだ人のようになった夜叉田姫が、まっさきに気にかかったことは、あのなかよしの、姉のようにしたっていた玉藻前のことでした。どこにいるのだろうとあたりを見まわしましたが、もちろん玉藻前のすがたは見えません。
 それどころか、今自分のいるところがどこなのか、それさえさっぱりわかりませんでした。夜叉田姫はたおれそうになりながらも、しばらくの間はあちこち玉藻前をさがしまわり、声をかぎりに名まえをよびましたが、なんのこたえもかえってはきませんでした。しかたないので近くの森で少しからだを休め、これからのことを考えることにしました。そのつぎの日から、何日も何日も夜叉田姫は、休むことなく玉藻前のゆくえをさがしまわって歩き続けました。わけを知った里の人たちは、夜叉田姫をかわいそうに思って、森の中に小さなすまいをつくったり、食べ物を運んだりしてやりました。夜叉田姫は、里の人が親切にしてくれるので、心から感しゃして、自分の知っている機おりの方法を、里の女たちに教えました
 そんなことで、夜叉田姫里の人はすっかりなかがよくなって、いく年かが、すぎて行きました。けれど、もともとからだのあんまりじょうぶでなかった夜叉田姫は、玉藻前のことを考えるあまり、とうとう病気になってねこんでしまいました。里の人はいっしょうけんめいかん病(筆者注:看病)したのですが、そのかいもなく、最後まで玉藻前の名をよびつづけて死んでしまったのです。それで人びとは、夜叉田姫のお墓を森の中につくってまつることにしました。
 それからこの森は、「夜叉田さん」とか、「夜叉田の森」とかよばれるようになったということです。いちど、村じゅうの社をいっしょにまつるために、夜叉田姫の社を、宝来山(ほうらいさん)神社かつらぎ町萩原)に移しかえたことがありましたが、そうすると、いろいろよくないことがおこってきました。里の人は、
きっとこれは、夜叉田姫がもとの森に帰りたがってるんや。
と考えて、さっそく、この夜叉田の森にもどすことにしたということです。
    (谷口雅子

 

  • この物語の主人公である「夜叉田姫」の詳細については不詳であるが、後にこれが「夜叉田稲荷大明神」として祀られるようになったとされていることを考えると、「夜叉」と「稲荷」の関係について下記のように興味深いことが考察できる。

 

  • 本来の意味での「夜叉」は、インド神話に現れる残虐な悪鬼 Yaksa、Yakṣī (Yakṣinī) を音訳したもので、男をヤクシャ(Yaksa)女をヤクシー又はヤクシニー(Yakṣī Yakṣinī)と呼ぶ。

 

  • 後にインド神話が仏教に取り入れられた際、夜叉は、仏教と仏教徒を守護する神々護法善神 ごほうぜんじん)のひとつとして位置付けられた。護法善神には様々な神々が含まれるが、このうち、仏教流布以前に古代インドに存在したとされる神々が仏教に帰依したものを「八部衆(はちぶしゅう)」と呼ぶ。「夜叉衆」はこの「八部衆」の一とされ、この他に「天衆」「龍衆」「乾闥婆(けんだつば)衆」「阿修羅(あしゅら)」「迦楼羅(かるら)」「緊那羅(きんなら)」「摩睺羅伽(まごらが)」が含まれる。
    八部衆 - Wikipedia

 

 

  • 夜叉のうち荼枳尼天(だきにてん)は、もともとインドでは裸身で虚空を駆け、人の死期を6か月前から予知し人肉を食べる魔女とされていたが、真言密教によって日本へ導入された後に白狐に乗る天女の姿で表されるようになった。
    荼枳尼天 - Wikipedia
  • 我が国には、稲の豊作をもたらす神としていわゆる「田の神(作神、農神、百姓神、野神)」信仰があり、狐はその神の使いであると信じられてきた(狐がネズミを捕ること、狐の色や尻尾の形が稲穂に似ているこによるとの説がある)。この信仰から成立したのが稲荷信仰稲荷神社である。ところが、荼枳尼天のイメージが狐に乗る天女の姿へと変貌したことにより、神道に属する稲荷信仰仏教に基づく荼枳尼天の信仰とがやがて習合し、稲荷神は荼枳尼天と同一であるとの信仰が生まれた。現在では仏教寺院において荼枳尼天を稲荷神の本地仏(神の本体である仏)として祀っているところも多い。
    稲荷神 - Wikipedia
  • 以上のことを考えると、「夜叉田稲荷大明神」については、この地における「田の神」を祀る稲荷神社が、荼枳尼天(=稲荷神)信仰を仲立ちとして夜叉の伝承を獲得していった(夜叉の伝承から稲荷信仰に発展したのではなく、稲荷信仰から夜叉の伝承が生まれた)ものである、と見ることもできるのではないか。

 

  • 玉藻前」については、室町時代に成立した御伽草子において鳥羽院が寵愛した女性として登場する人物であるが、その正体は中国から渡来した妖狐「九尾の狐」であるとも言われる。

 

  • 一般的に、「玉藻前」は室町時代に興隆した短編物語である「御伽草子(おとぎぞうし)」のひとつ「玉藻前(たまものまえ 玉藻草紙とも)」などの物語に登場する人物として知られる。いわゆる「九尾の狐(下記の御伽草子ではニ尾とされているが、後に、中国の伝承に登場する「九尾の狐」と同一視されるようになった)」が美女に化けて国の転覆を図ろうとした、という物語である。

 第9話 たま藻のまへ

 近衛院の御代、久寿二(1155)年ころ、鳥羽院の御所に一人の下女が仕えていました。後に人々からは、玉藻の前と呼ばれるようになるのですが、天下一の美女、国一番の賢女でした。不思議なことに、玉藻の前の体からは自然によい香りが漂い、一日中美しい装いをしていました。そんなわけですから院のご寵愛も並々ではなく、院の御所の人々も皆, 玉藻の前に夢中でした。

 しかも玉藻の前は美しいだけではなく、大変な博識でもありました。年の頃はわずか二十歳くらいに見えるのですが、知らないことがないのです。何を尋ねても、にっこりと微笑みながら、わかりやすい言葉で答えます。
 あまりの不思議さに、が、玉藻の前を試してみようと、難しい仏教の教えについて質問してみました。すると、彼女は、昔の偉いお坊さんたちが書物に説いておられるとおりに答えました。院をはじめ御所中の人々は、これを聞いて驚きました。

 そこで更なる難題を出しました。
空に天の川というものがあるが、あれは本当に川なのか。
わたくしのような者がどうして存じましょう。けれど、あれは雲の精ではないかと思います。
なるほど雲の精とな…。面白い。
 院はすっかり感心している様子です。

 こんな玉藻の前ですから、のご寵愛も大変深く、片時もそばを離しません。まるで女御のように大切にされました。
 九月二十日のころ、清涼殿で詩歌管絃の遊びがありました。
 玉藻の前を連れて御簾の内に座りました。おりしも激しい風が吹いたかと思うと、灯ろうの火が吹き消され、あたりは真っ暗になってしまいました。すると玉藻の前が体から光を放つではありませんか。その場にいた大臣公卿たちが驚いてあたりを見回すと、玉藻の前のいる御簾の中から光が漏れています。その光はまるで朝日のようです。
 管絃もそっちのけでこのことを院に申し上げたところ、「不思議なこともあるものよ。これは仏や菩薩の化身に違いない」と仰せられました。御簾を上げると、闇夜にもかかわらずあたりは昼よりも明るくなりました。この光がまるで玉が輝くようであったことから、彼女のことを玉藻の前と呼ぶようになりました。

 「何か知りたいことがあれば玉藻の前に尋ねよ」との仰せでしたので、若い殿上人が進み出て管絃についての質問をしました。これにも玉藻の前はすらすらと答えたので、その場にいた人々は舌を巻きました。その後も、琵琶・横笛といった楽器をはじめ、文房具や扇・車など、あらゆる物の起源についての知識を披露し、人々を驚かせました。

 は少しそら怖ろしく思いながらも、玉藻の前の美しさにひかれて、深い契りを結びました。
 ところが、は突然病気になってしまい、原因もわからぬまま、日に日に病は重くなっていきました。

 医者の典薬頭の診断では、この病は邪気によるもので、医者が治療できるものではないとのこと。
 そこで、陰陽師の泰成を召して占わせたところ、一大事が起こるであろうから、直ちに祈祷をはじめるようにと申します。宮中は大騒ぎとなり、あちこちのお寺から偉いお坊さんたちを集めて、大がかりな祈祷をさせました。

 しかし、祈祷の効果はまったくあらわれず、はますます重体になっていくばかりです。は涙を流しながら、玉藻の前の手を取って、「おまえを後に残して死ぬのは心残りでならない…」と訴えます。それを聞いた玉藻の前も、「このような卑しい私が院様に親しくお仕えさせていただき、もったいなく思っておりますのに、もしものことがありましたら、どうして生きながらえることができましょう。どこまでもお供したく存じます」と答えて、泣き伏すのでした。
 祈祷の効き目もなく、お坊さんたちは少しずつ去ってしまいました。
 再び泰成を召して尋ねたところ、何か言いにくそうにしています。「憚らず申し上げよ」と言われてやっと、「院のご病気は玉藻の前のせいです。玉藻の前を遠ざければよくなられるでしょう」と進言しました。
 困った公卿たちがさらに詳しく尋ねると、何と玉藻の前の正体は、下野国那須野に住む百歳の狐だというのです。その狐は、丈は七尋(ななひろ)尾が二本。美女に化け、国王に近付いてその命を縮め、国を奪おうという魂胆なのです。
 ひそかにこのことをに申し上げましたが、は信用しません。その間にも、病はますます重くなります。
 泰成の提案によって、「泰山府君」という神をまつることになり、その幣取りの役玉藻の前に命じられました。そうした卑しい役目をいったんは嫌がった玉藻の前ですが、院の病を治すための行為ならば賞賛されるだろうと大臣に説得され、引き受けました。
 さて当日、いつも以上に着飾った玉藻の前は、祭文が読み上げられる途中、さっと幣を振ったかと思うと、急に姿を消してしまいました。やはり泰成が見抜いたとおり、正体は狐だったのです

 さあ、それではどうやってこの狐を退治したらよかろうかと、皆が知恵をしぼりました。人の力で化物を退治できるのかと心配する者もいましたが、弓矢の名人を集めれば大丈夫だろうと、武士たちに狐を狩らせることになりました
 当時もっともすぐれた武士は、上総介(筆者注:源頼朝安房平氏打倒を掲げて挙兵した際に約2万の兵を率いてこれに合流したことで知られる上総広常を指すとされる)三浦介(筆者注:当時三浦半島一円を勢力下にしていた三浦義明を指すとされる。「鎌倉殿の13人鎌倉幕府を一時期支えた13人の合議体制)」の一人である三浦義澄は義明の次男)の二人という評判でした。院より両名に狐退治の命が下されました。身を浄めて院宣を承った二人は、この上ない名誉と奮い立ち一族郎党を集めて、我先にと駆け出しました。

 広々とした那須野の草を分け入っていくうちに、聞いたとおりの二尾の狐を見つけました。皆手柄を立てようと追いかけましたが、さすが神通力を得た化物だけあって、巧みに逃げられてしまいました。

 そこで人々は、作戦を立て武術の稽古をしてからもう一度試みることにして、いったん引き上げました。上総介は馬から落ちる鞠を射る練習をし、三浦介は犬を狐に見立てて弓矢の稽古をしました。

 その後、再び那須野に行って狐を狩ろうとしましたが、七日たっても成果なく、家来たちも疲れの色を隠せませんでした。上総介三浦介は、万一この狐退治に失敗して恥をさらすようなことになれば、二度と生きて故郷に戻るまいと誓いを立て、神々に加護を祈念しました。
 すると、少しうたた寝した三浦介の夢に、二十歳ぐらいの美しい女性が現われ、「明日あなたに命を奪われるのが恨めしい、どうぞ助けてください」と、泣きながら頼むのです。夢の中できっぱり拒否した三浦介は、目が覚めると一族郎党を招集し、今日こそ射止めんと駆け出しました。

 朝日がさし上るのと同時に、例の狐が山へ逃げ去ろうとしています。
 三浦介は馬に鞭を当てて狐に近寄り、矢を放ちました。矢はみごと狐に命中し、狐はもんどりうって倒れました。「やったぞ!」と馬を下りて近付いてみると、噂以上のしろものです。
 すぐに狐の死骸を都へ送り届け上総介三浦介も上京しました。前代未聞の手柄と院も感心し、那須野で狐を獲た場面をそっくりそのまま御前で再現させ、人々も皆見物しました。
 その狐の体からは、いろいろ珍しい宝物が出てきたということです。

 挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第9話 たま藻のまへ | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 

 

  • 栃木県那須町那須湯本温泉付近に存在する溶岩は、俗に「殺生石」と呼ばれている。これは、殺生石付近から噴出する硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒な火山ガスがしばしば鳥獣の命を奪うことからつけられた名前であるが、この石は先述の玉藻前に化けていた妖狐が討伐された際に石に変化したものであるとの伝承がある。伝承によれば、この石の上を飛ぶ鳥は落ち、これに触れた獣はたちまち死んだため、至徳2年(1385)に玄翁(げんのう)和尚が呪文を唱えて大きな鉄の槌(つち)で打ち砕いてから、この怪異はとまったとする。現在、大工道具のかなづちを「玄翁(げんのう)」と呼ぶのはこの伝承に由来するものである。
    殺生石 - Wikipedia
    源翁心昭 - Wikipedia

     

  • 九尾の狐(きゅうびのきつね)」は、中国神話に現れる9本の尾をもつキツネの姿をした伝説上の動物。中国ではもともと瑞獣(ずいじゅう よい知らせの前兆として現れる)とされていたが、明代の小説「封神演義(ほうしんえんぎ)」などにおいて九尾の狐が殷王朝紂王(ちゅうおう)の妃・妲己(だっき)に化けて王朝を滅ぼしたとのイメージが定着し、悪しき妖怪とみられるようになった。
  • 上記引用文にあるように室町時代御伽草子では玉藻前の正体は二本の尾を持つ狐であったが、江戸時代高井蘭山(たかい らんざん 1762 - 1839)が著した読本(よみほん)絵本三国妖婦伝」などにおいて九尾の狐であるとの設定が登場し、後にこれが定着することとなった。
    九尾の狐 - Wikipedia

 

  • 玉藻前のイメージの変遷については、伊藤慎氏の「妖狐玉藻像の展開 : 九尾化と現代的特色をめぐって学習院女子大学紀要22号 2020)」に詳しいので、興味を持つ方はこちらも参照されたい。
    学習院学術成果リポジトリ
  • 前述の 伊藤慎吾氏の論文によれば、「婦人公論」誌に大正6年(1917)から7年(1918)にかけて連載された岡本綺堂の長編小説「玉藻の前(単行本は大正7年に天佑社から出版)」が人気を博したことにより、これ以後の玉藻前のイメージが変化したとする。それ以前は妖狐に取りつかれて国の転覆を狙う「悪役」だったものが、この作品により「悲恋の主人公」との性格が新たに付加されたことで、ある程度感情移入の余地がある人物へと変化したということであろう。上記で引用した「伊都の伝説」における記述内容を見ると、玉藻前については比較的同情的な表現がなされており、岡本綺堂以後に生じた新たなイメージが反映されていると見ることができることから、本文の物語のうち少なくとも玉藻前に関する部分は大正年間以降に成立したものではないかと考えられる。

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。