生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

滝口入道と横笛 ~かつらぎ町天野~

 柿畑が続いていた道の両側は、いつの間にかスギとヒノキ林に変わっていた。その道が急カーブを切り、急坂をいくつも越えるところ、それらの林は、みごとな緑の波を打つようになる。
 赤士がむきだしになった切り通しを過ぎたとたん、視界がひらけた。天野の里は、峠の向うの、小さな盆地だった。

 

 霜柱でふくれ上がった畑の中の小道の突きあたりの一角。二坪もあろうか。中央に、高さ170センチばかりの、ま新しい宝篋印塔があった。
 冬の陽光に映える、その白ミカゲ石の碑面の黒い刻字は「横笛法尼供養塔」。
 「入滅八百年忌に建てられました。昭和56年の10月です
案内してくれた新田盛夫さん。

 

 時は平安末期、所は京の西八条。二人の悲恋は、ある年の花見の宴にはじまる。
 そのとき、斉藤滝口時頼は、主の平重盛に従って、咲き誇る桜の下で、あでやかに舞う一人の雑司に心を奪われた。女は建礼門院に仕える横笛。17歳の横笛が、じっと自分をみつめ続ける若い禁中の侍に恋心を抱くのに時問はかからなかった。しかし二人の仲は、早ばやと裂かれてしまった。

 「お前は重盛殿に仕える身。まして、まだ19歳ではないか。いまは女に心を寄せることなく、おつとめにはげめ
 父・茂頼に厳しくいい含められた時頼は、悲しみのどん底に突き落とされた。しかし、日がたつにつれ、横笛への思いはつのるばかり。

 「このままでは、自分はダメになる。この心を鎮めるには、出家以外に道はない」 自分にいい間かせた時頼は、早速、嵯蛾の往生院を訪ね仏門に入った。名も滝口入道と改めて。
 これを知った横笛の驚きは大きかった。往生院を訪れたが、滝口はひと目会うことも許してくれない。
 「わたしも出家しよう。そして迷える心を鎮めよう
 横笛は、奈良の法華寺で出家した。

 横笛天野の里へ来たのは、そのあと。滝口高野山へ入ったことを伝え聞いたとき、矢もタテもたまらず、高野への登山口に近いこの地に住んだという。

 

 「そのあたりに、二十四坪というところがありまして……。横笛の住んでいた跡と墓の跡やいうことで
 すぐそばの畑を指さしながら、新田さんがいう。その庵跡からは約20年前、一面の銅鏡がみつかった。出家の身ながら、いつか滝口入道に会う日を楽しみに、毎日のように鏡をみつめていたのだろうか。
 青くサビの出たその鏡の、鳳凰とともに彫られた、つがいの蝶が、横笛の悲しい心を訴えているようだった。


 横笛は結局、滝口に再会することなく、さみしく世を去った。
 そんなある日、高野山大円院の縁側に出た滝口は、井戸の上に伸びた梅の小枝でさえずる一羽のウグイスをみつけた。と、そのウグイスは、心なしか滝口をみつめるような仕草で、さえずり続けた。やがてウグイスは鳴きやんだが、間もなく首を垂れ、その重みに耐えかねたかのように、井戸へ落ちて行った。

 大円院には、いまもその井戸とウメの古木が残る。そして人々は、そのウグイスこそ、はかなく世を去った横笛の化身だったと信じ、庵の跡に「横笛の恋塚」を建てたという。

 そういえば、宝篋印塔のわきに、風化した小さな墓石らしいものや、こわれた塔があった。その恋塚には、なお訪れる人は絶えない。
 かつて、紀北有数の炭の産地だった天野の里は、いま、自然休養村として、新たな道を歩もうとしている。その中心、管理センターの建物だけが、ひときわ目立つ。

 

 初夏~人々はウグイスのさえずりの中で、山菜採りに都会の憂うつを忘れる。夏~村のお年寄りたちは、人々に新鮮な野菜を直売する。そして秋~天野の里は、みごとな干し柿の玉すだれで色あいを深める。

 

(メモ:横笛の恋塚(宝篋印塔)があるのは、天野峯地区の新田さん方裏の畑。国道24号線笠田駅前交差点を南へ析れて約11キロ。恋塚の近くには、丹生都比売神西行法師の妻子の墓ゴルフ場などがある。) 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

紀伊国名所図会 三編六之巻 鶯と化した横笛と滝口入道
国立国会図書館デジタルコレクション

 

  • 滝口入道横笛の物語の原典は鎌倉時代に成立したとされる軍記物「平家物語」の「巻第十 横笛」にある。これは、平清盛の嫡孫である平維盛(たいらの これもり)が、平家一門が一ノ谷の戦いに敗れて屋島へ逃がれた際にひそかに紀伊国へ脱出した一連の物語の中のエピソードとして描かれている。斎藤時頼(滝口入道)はかつて維盛の父、平重盛に仕えていたため、維盛は逃亡の途中に旧知の滝口入道を頼ったのである。

高野には昔から知っている僧がいた。
三条の斎藤左衛門大夫以頼の子で斎藤滝口時頼という者である。
元は小松殿平重盛の侍で、十三の年から仕えていた。

 

建礼門院の雑事に仕える横笛という女がいて、滝口はこれを最愛した。
父はこれを伝え聞いて、
良い家柄の者の婿にして、宮中へも簡単に出入りできる身分にしてやろうと思っているのに、身分の低い者を思いそめるとは
と、ひどく諌めた。滝口
西王母(さいおうぼ 中国の女神)も今はいない。
 東方朔(とうほう さく 中国の前漢時代の政治家、仙人としても扱われる)も名は残っているが、目には見えない。
 老いも若きも火打石の火花のように儚い。
 長命な人びとも七十歳、八十歳を超えることはできない。
 身体が壮健なのはわずか二十年あまりである。
 夢幻の世の中で、わずかの間でも醜い者と一緒にいて何になろう。
 しかし、好む相手を妻にしようとすれば父の命に背くのと同じである。
 ならば浮世を離れ、誠の道に人ろう。
と言って十九の年に、髪を切って嵯峨の往生院に入った。

 

横笛は、これを伝え聞いて、
私を捨てるのはともかくも、出家までするとは恨めしい。
 たとえ世を捨てても、なぜそうと知らせてくれなかったのであろう。
 決心は固いとしても、尋ねてうらみごとを言おう。
と思い、あるタ方に、都を出て嵯峨の方へとさまよい行く。

時節は、二月十日頃の事なので、梅津の里の春風に運ばれる梅の香りも懐かしく、大井川桂川に映る月影も霞に覆われておぼろである。
ひとかたならぬ悲しみも誰ゆえかと思ったであろう。
往生院とは聞いたが、定かにどこかは知らなかったので、ここかしこで休んだり立ち止まったりしながらも、なかなかたどり着くことができなかった。

 

そこに、荒廃した僧坊から念仏誦経の声がした。
滝口入道の声に聞こえたので、
私です。ここまでたずねて参りました。
 僧になったお姿をもう一度みせてください。
と、従えていた女に伝えさせると、滝口入道は胸が騒ぎ、障子の隙から覗いて見れば、まさに必死に探している様子がいたわしく思え、心弱くなった。

しかし、すぐに使いを出して、
まったくここにはそのような人はいない。
 家を間違えているのでろう。
と言って、遂に逢わずに帰してしまった。
横笛は、情けなく恨めしかったけれども、力なく涙を抑えて帰った。

 

滝口入道が、同宿の僧に会って申すには、
ここも静かで念仏の妨げはないが、嫌で別れたわけではない女に住まいを見つけられてしまったので、たとえ今回は心を強くして帰したとしても、またもや慕ってくることがあれば、心が動いてしまうでしょう。おいとま申し上げます。
といって、嵯峨を出て高野山へ上り、清浄心院に住まうことにした。

 

後に横笛も出家したことを聞いて、入道は一首の歌を送った。
 そるまでは 恨みしかども 梓弓
     まことの道に いるぞうれしき

  (私は)髪を剃るまではこの世を恨んでいたけれど、
  (今は私もあなたも)仏道にいることがうれしい

横笛の返事には、
 そるとても 何か恨みむ 梓弓
     引きとどむべき 心ならねば

   髪を剃ったとしても何を恨むことがありましょう。
   心を引き留められることなどないのですから。

横笛は、その思いがあまりに積もったのか、奈良の法華寺にいたが、間もなくして、ついに亡くなってしまった。

 

滝口入道は、こうしたことを伝え聞き、いよいよ深く修行に専念したので、父も親不孝を許した。親しい人々もみな信頼して、高野の聖と称されるようになった。

 

三位中将平維盛が滝口入道に会ったところ、都に居た頃は布衣に立烏帽子、衣文(公家の正式な着衣)を着て、髪をなでつけ、華やかな男であったのに出家の後にはじめて出会って、まだ三十にもならないのに老僧姿に痩せ衰え、濃い墨染の衣に墨染の袈裟をまとった思いの深い道心者(仏教に帰依した者)になっているのを見て、羨ましいと思った。

※この項は下記リンク先を参考に筆者が作成した
平家物語 - 巻第十・横笛 『高野に年来知り給へる聖あり…』 (原文・現代語訳)

 

  • 後に維盛は高野山で出家する。平家物語によれば、その後、熊野三山に参詣したのち、船で那智の沖に漕ぎだして入水して亡くなった(観音浄土を目指して不帰の旅に出た「補陀落渡海」と位置付けられている)とされる。しかし、これには異説が多数あり、入水せず熊野の山中に隠れ住んでいたという説や、都に上り後白河法皇に助命を嘆願したが源頼朝に鎌倉への下向を命じられたため途中の相模国湯下宿で病没(または自ら絶食して餓死)した、という説などが知られている。
    平維盛 - Wikipedia

 

  • 渡辺貞麿氏の「『平家』と聖たち -高野山系の説話を中心に-(「大谷学報 52巻3号」大谷学会 1972)」によれば、平家物語には各種の異本平家物語諸本)があって横笛に関する記述もそれぞれ異なっており、上記引用文のように奈良の法華寺で亡くなったとする(語り本系)もののほか、往生院で滝口入道に面会を断られた後に大堰川(大井川、桂川に入水する(四部合戦状本、長門本源平盛衰記出家した後に桂川に身を投げる(延慶本)、そして出家した後に天野へ行く源平盛衰記 巻四十)、などのバリエーションが存在するという。
    大谷大学学術情報リポジトリ

 

  • 上記のような各種バリエーションのうち、横笛が天野に至ったという説を紹介している源平盛衰記の記述は次のとおりである。これによれば、横笛は天野に住んで滝口入道の袈裟を洗うなど身の回りの世話をしていたと解釈できる。

源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十

(略)

又異説には、横笛は法輪より帰て髪をおろし、双林寺に有けるに、入道の許より
 しらま弓そるを恨みと思ふなよ真の道にいれる我身ぞ
と云たりければ、女返事に、
 白真弓そるを恨と思しにまことの道に入るぞ嬉しき
其後横笛尼、天野に行て入道が袈裟衣すすぐ共いへり。
異説まちまち也。いづれも哀にこそ。
『源平盛衰記』(国民文庫)

 

  • 女人禁制高野山に対して、高野山の地主神であり女神である丹生都比売命(にうつひめの みこと)を祀る天野の地は、高野山上で暮らす男性に思いを寄せる女性の生活の場としてはうってつけであったとみなすことができる。これについて、濱中修氏は「横笛伝承考-法華寺・天野別所-(「国士舘人文学 4巻」国士舘大学文学部人文学会 2014)」において次のように考察している。

 横笛らのように、高野山上にゆかりの男性僧侶がある場合、まったく没交渉で、麓で生活するのではなく、西行南筑紫上人滝口入道に対してその身の回りを献身的に世話していたとする伝承は、高野山の仏教を守護しようと約束した丹生都比売明神の神話と重なるのである。
 女人禁制たる高野山上で修業をする男性僧侶の身の回りの世話を、天野に居住する尼が行うことと、丹生都比売明神が高野山密教を守護せんと約束したこととは、少なくとも矛盾はきたさない。
国士舘大学 学術情報リポジトリ

 

  • かつらぎ町神田(こうだ)地区に、横笛がここで滝口入道を待っていたとされる場所がある。高野町石道の112町石の近くで、現在ここには弘法大師などを祀る地蔵堂が建立されている。この堂は、かつては高野参詣の人々の休憩所として使われており、昭和初期までは地元の住民がここで参詣者にお茶を接待する風習が残っていたとされる。
    神田地蔵堂|見所|かつらぎ観光協会

 

  • 横笛の庵跡は、現在「横笛の恋塚」と名付けられ、宝篋印塔とともに横笛が滝口入道に心を伝えたとされる歌「やおや君 死すれば登る 高野山 恋も菩提の 種とこそなれ」の石碑が建立されている。
    横笛の恋塚

 

  • 横笛の恋塚の近くには、「漂泊の歌人」として知られる西行法師の墓がある。紀伊国田仲荘(現在の紀の川市を知行地とする佐藤康清の子として生まれた(田仲荘で生まれた、あるいは育ったとの説もある)西行は、保延6年(1140)に23歳で出家し、久安4年(1149)頃に高野山へ入った。残されたも後に出家したが、高野山は女人禁制のため、その麓にある天野で庵を結んで生涯をここで暮らしたとされる。現在この地には妻娘を偲んで建立された西行があり、平安時代末期から天野の里人により再建を繰り返して維持されている。
    諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語

 

  • 平家物語に記されているように、滝口入道は、当初、高野山内の清浄心院の境内に庵を結んで修業を積んだ後、多門院の第8代住職となり阿浄あじょう)を名乗る。多門院は、慶長5年(1600)頃に寺名を「大円院(大圓院)」と改めた。これは、柳川藩立花宗茂の帰依により宗茂法名である大円院殿を寺名としたものである。ちなみに、清浄心院の境内にあった滝口入道の草庵大正12年(1923)暮れに焼失している。
    清浄心院

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」には、大円院に伝わる滝口入道後日譚として次のような記述がある。これが本文にある鶯の話である。(紀伊風土記高野山之部 巻十七 寺家之七 蓮華谷堂社家)

平家物語盛衰記其意たがはず。
但し、滝口入道出家の後は多聞坊浄阿筆者注:阿浄の誤りかと名け、治承四庚子歳七月、此山清浄心院に来り、其傍らに庵室を結ぶ。
其庵室を多聞坊と呼。
其坊舎跡、今清浄心院谷の入口にあり。
むかしは此あたり多く客坊あり。
清浄心院を所依の本坊として道心者のたぐひの客僧多く来りて住すとかや。
小松大臣の墓(瀧口入道の建立と云云)浄阿多聞坊が塚なども現に本院の傍なる地にありといふ。
又梨の坊にも瀧口入道の妻横笛鶯となりて梅の樹に来り鳴
その梅を鶯の梅と云ひ、又鶯の死せし井を鶯井といふ。
古跡も残れり。

 

 

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。