生石高原の麓から

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伏原観音と地獄谷 ~高野口町(現橋本市高野口町)伏原~

 いまから650年の昔、伏原の里が、足利の軍勢に焼き打ちにあったときのこと。

 

 聖徳太子が、1寸8分(約5.5センチ)の十一面観音像を安置して開いたといわれる普門院も、猛火に包まれた。ところがふしぎなことに、本堂奥のあたりだけは焼失を免れた。そればかりか、突然襲った強風で、足利軍は逆に火攻めにあい、なだれを打って逃げ散った。だがその先には、深い深い谷が、大きな口をあけて待ち受けていた~。


 「伏原の観音さん」普門院は、静かなたたずまいをみせていた。その門柱をくぐったすぐ左手、境内のすみっこに、高さ60センチばかりの石がひとつ。「影向石(ようごせき)」。観音さまが現われた霊跡の石は「仏産石」「仏足石」ともいう。

 

 普門院の西南500メートル。幅数メートル、深さ10メートルばかりの谷があった。足利の軍勢を呑み込んだという地獄谷は、すぐ近くの紀の川へ続いていた。

 

(メモ:伏原観音は、国鉄和歌山線高野口駅前の国道24号線から南へ約300メートル。地獄谷のすぐ下流紀の川には、約250年前につくられた小田用水の取水口がある。) 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

  • 伏原(ふしはら)観音」あるいは「伏原厄除観音」として知られる同寺は正式名を「法華山観音寺」と言い、また「普門院(ふもんいん)」とも呼ばれる。

 

  •  この物語は、伊都地方国語教育研究会編著「伊都の伝説(日本標準 1981)」に「伏原観音さんと地獄谷」という名称で下記のように収載されている。

伏原観音さんと地獄谷  -高野口町伏原-

 今から約650年前、建武のころ(1334年)世の中は乱れ、いくさがうち続き、あちらこちらの有名な社寺が焼かれ、人びとはくる日もくる日も不安で、心の安まる日がありませんでした。
 そのころ、高野山は、信仰の霊山でありましたが、同時にいろいろな面に勢力がありました。そのため当時の政治をすすめる人や、武将は、高野山の勢力を利用しようとしました。高野山は、それらの申し出を聞き入れなかったので、武将たちはしばしば高野山をくりかえしせめました。
 織田信長が、天正9(1581)年、高野山ぜめを行ったとき、高野口町小田の清涼寺が、焼きうちにあったのもその一例です。高野山のふもとの九度山(くどやま)・学文路(かむろ)・高野口などは、高野山の寺領で、そこに住む人びとは、高野ぜめが行われるたびに、いつも田畑はあらされ、村人たちの家いえは焼かれ、苦しめられました。
 高野口町引の池の下の応其(おうご)平野は、そのむかし、条里制が行われたところで、そのうえ、奈良仏教のえいきょうをうけ、大和(やまと)斑鳩(いかるが)の里法隆寺をしのばせるほどの大伽藍(名古曽廃寺法華寺 なごそ はいじ ほっけじ)が建てられていました。三彩壺の出土も、高野口町の古い歴史を物語るものです。
 さて、室町時代のはじめ、伏原の里にも足利氏の軍がせめ入ってきました。
昨日は、何なにの寺が焼かれたぞ。きょうあたり、この村にもせめてくるらしいぞ。
と、村人が二人、三人よるといくさの話でもちきりです。村人たちは安心して働ける日が、ありませんでした。そんなある日、村人たちのいちばん心配していることが、おこってしまいました。伏原の普門院観音寺(592年、聖徳太子の命により建てられた寺。その後、739年、行基菩薩が中興の寺。伏原観音寺縁起による)にも兵がせめ入り、火をつけてしまったのです。みるみるうちに、火はご本尊をおまつりしてある本堂にもえ移っていきました。
 そのとき、信心深い一人の(おきな)が、ご本尊である十一面観世音菩薩さまを救い出そうとしましたが、火のいきおいはおとろえず、本堂に入ることはとてもできませんでした。
 は、目をとじ、一心に、観世音菩薩さまに救いのお祈りをしました。
南無、大慈大悲の十一面観世音菩薩さま。なにとぞ、ごぶじであられますように。
と、心に念じて目を開いて見ると、さきほどの火のいきおいはややおとろえ、本堂の正面奥の 観音さまを安置しているあたりは、火が消えかかっていました。すばやく寺の庭の池の水を手おけにまみ、頭からかぶり、わが身の危険をもかえりみず本堂に突入しました。ご本尊の十一面観世音菩薩像は、少しのいたみもなく、荘厳さを増し、ごぶじであられました。

 そのすがたを見たは、うれしなみだを流しながら、
ああ、ありがたい。もったいない。おそれおおいことじゃ。
と、ひとりごとを言いながら、おそるおそるその観音さまをだきかかえ、観音寺より少しはなれた場所にあった影向石(ようごせき 聖徳太子が、ある夜、ゆめのおつげでごらんになられた十一面観音さまと同じおすがたの、金色の十一面観世音菩薩がすわっておられた白石、今のお百度石のこと)の下へ、ひそかにお移しいたしました。
 この白色の影向石は、おろかな人たちが、たばこをすうときの火打石にくだいて使ったり、かしこくなれるといって、粉にして飲んだので、黒色の小さな石と変わってしまいました。
 猛火からやっとぬけ出したは、こわさとおそろしさとを鎮めるために、ただ一心に、
オン、マカ、キャロニキャ、ソワカ
と妙智力の十一面観世音菩薩のご真言を、くり返しくり返し、となえました。
 そのとき、林をたおすほどの風がふきおこり、砂を高く一面にまきあげました。そのとたん、一天にわかにくもり、すさまじいいなびかりで目もくらむばかりでした。そのうえ、耳をつんざくほどのかみなりがなりわたって、この世のものとは思えない光景となりました。
 寺の西の方(小田 おだ)からせめこんできた軍勢は、寺より東の方へは一歩も進めず、にわかにおこったこの大異変にこしをぬかしてしまいました。かみなりで耳はきこえなくなり、いなびかりに目もやられた軍勢は、ただ、おろおろとその場にうずくまる者、ひれふしている者ばかりでした。そして、そのうちに風向きがかわり、火のいきおいが兵たちの方に移ったので、たまったものではありません。われ先にと西の方の谷へにげだしました。
 こんなわけで兵たちは、一人残らず谷にはまってしまいました。
 この谷は、伏原の観音寺の西の方にあり、村人たちがたいそうこわがっている深い深い谷で、村人たちは一人として近よらないおそろしい谷なのです。この谷の上の方はせまく、約3メートルほどですが、深さははかり知れない地球の割れ目ともいうべき谷で、動物たちが一度この割れ目に落ちこむと、二度と地上にはい上がってこられないおそろしい谷だったのです。
 その後、信心深いは、村人と力をあわせ、本堂を再建して、ご本尊の十一面観世音菩薩像を開運・厄除けの観音さまとしておまつりしました。それ以来、村は、豊かに栄えました。
 そして、村の人たちは、この谷を「地獄谷」といい伝えるようになりました。
    (久保保

 

  • また、橋本市に合併する前の旧高野口町が編纂した「高野口町」には「法華山縁起巻物」の記述として次のような話が記載されており、ここでは影向石を砕く者に対する神仏の罰として地獄谷が生まれたとする。

 後世の兵禍に遇して人心争乱の時、足利氏軍、計(謀)人に勝れ、覇権を握り、五畿道を毒乱蜂起し、大衆安きを失ひ、堂社危きに陥り当寺も之がため惜しむべし、焦土となる。この時独信の翁(篤信の翁の意か)あり、霊像を火焔の中より運び出し、影向石の下へ潜処し、一毛を損する事なく益々荘厳にして人々感嘆する。翁歿して後愚者多く白石を砕き、煙管の火を充ち(燧石の代用)又これを砕いて賢者になる為、これを飲み、かの金剛白石も黒くなり且小さくなり変形し、罪過多し、或る時神仏の罰する処か、蒼天俄かにかき曇り風雨雷光山を穿ち川に溢れ、人々怖れて、魂を失ひ、難を避けて西谷へ奔走して斃れ死ぬ、危急存亡の災容、ここに谷ができ、今によって地獄谷という。

筆者注:「法華山縁起巻物」について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」では、「この縁起の奥書には、本空光上人という僧が古老の話を集めて作成したと記され、古刹伝承の趣が強い」として信頼性に疑問を呈している。

  

  • 紀ノ川の民話<伊都編> きのくに民話叢書2(和歌山県民話の会 1982)」では、「地獄谷」の名の由来について次のように記載されており、ここでは普門院ではなく小田神社が兵火に焼かれた時の話であるとする。

 地獄谷というのは、昔の伏原村と小田村の堺にある谷の名で、昔は小田神社の境内の端になっていて、附近は竹藪や桑畑で、うっそうとしていて、夕方になったら、恐かったんです。
 谷は上が狭くて、下が広く、垂れ水のツララが下ってくる位でしたが、現在は、灌がい用水の残り水と、雨水の流れ道となって、紀の川に流れ込んでいます。
 応其(おうご)上人が造ったといわれている引ノ池(ひきのいけ)の最後の池の樋が切れて飛んだ時に出来たものといわれていますが、ほんとうの所は、よう分りません。
 物部氏を祀る小田神社の東側は、みんな馬場であったという位、小田神社は大きな神社であったが、何度も何度も兵火に焼かれたので、書かれたものも、御神体も失くなり、今は、石で造ったご神体があります。
 兵火で焼かれた時、人馬諸共に落ちて、這い上がって来る事が出来なかったので、地獄谷というんです。
 普門院の縁起話では、寺の大事なものを盗りに来たり、焼き打ちに来たりした者は、罰が当って観音さんのご威光で目がくらみ、逃げ惑うて、地獄谷にはまって死んだというんです。
(話者・喜多健次高野口町) 記録・金谷

 

  • 橋本市高野口町の地形は紀の川に面した河岸段丘となっていることが特徴で、洪積台地上にある伏原地区と、紀の川氾濫原(沖積層)にある小田地区との間には10メートル以上の標高差がある。本文で言う地獄谷は、伏原地区と小田地区の境界付近にある谷川を指すものと思われるが、現在は道路整備や住宅開発が進んだためほとんどその姿は確認できず、わずかに紀の川へ注ぎ込む付近に面影を残すのみである。

 

開基 聖徳太子
推古朝の頃、聖徳太子の夢に、紫雲棚びく雲間から眩いばかりの霊光が放たれ人々が拝跪している様子が現れました。
推古天皇の勅命を拝した太子がこの地を訪れたところ、かの夢のごとく森の中の白石上に十一面観世音菩薩が応現し、勅使らは皆驚き草原に跪き伏し拝んだといいます。
太子は、自ら金泥をもって書写した法華経一巻を地中に納め、その上に堂宇を建立して一寸八分の聖像を奉安し、鎮護国家の霊域として法華山普門院観音寺と名付けるとともに、境内一町歩を付与されたと伝えられています。
これよりこの地を伏原と称し、この白石を影向石と名付けて縁起を物語る霊石として現在まで護り伝えられております。

中興 行基菩薩
天平年間、行基菩薩はこの霊域をたいへん慕われ、ご本尊の御許で一夜をすごされた折、夢枕に十一面観世音菩薩が影向して縁起を物語られたことから、行基菩薩は十一面観世音菩薩を勧請して一尺二寸の観音像を謹刻し、さらに本堂を八間四面に宏構して中興の祖となられました。

ご本尊十一面観音菩薩ご詠歌
  「めぐり来て こよいはここにふしはらの 草の枕に夢やさむらむ
   行基菩薩御作

星移りて、足利尊氏織田信長の二度の兵火によって伽藍は焼失するも、ご本尊は影向石とともに難をのがれ、現在に至るまで厄除伏原観音として人々の信仰を集めております。

 

  • 上記ブログにある「二度の兵火」のうち、織田信長によるものは、天正9年(1581)に行われたとされる、いわゆる「高野攻め」であると考えられる。名古曽にある住吉神社の社伝によれば、同社は、織田信長の高野攻めの際に織田方の武将・松山庄五郎が名古曽に布陣した折、戦勝を祈願して堺の住吉神社を勧請したものであるとされていることから、普門院を焼いたのは松山庄五郎の軍勢と考えるのが適当であろう。
    和歌山県神社庁-住吉神社 すみよしじんじゃ-
  •  住吉神社の社伝にある松山庄五郎の詳細は不明。これは「高野春秋編年輯録」の記述をもとにしたものと考えられるが、一般的には織田方の兵として高野攻めに参加した松山姓の武将としては、現在の橋本市菖蒲谷に「菖蒲谷多和城松山城)」を築いたとされる松山重治が知られている。ただ、これも資料によっては松山「新介」と表記される場合もあり、混乱が見られるようである。これについて、下記の個人ブログで興味深い考察が行われているので、興味のある方はこちらをご覧いただきたい。
    松山重治―境界の調停と軍事 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

 

  • 「二度の兵火」のうち、本文と関係のある足利尊氏によるものの詳細は不明室町時代に成立した軍記物語「太平記」によれば、正平3年/貞和4年(1348)に紀伊国南朝勢力が蜂起した際に、足利尊氏は自らの庶子(非嫡出子)である足利直冬(あしかが ただふゆ)を総大将に任じてその討伐にあたらせ、直冬は3か月にわたって各地を転戦し、これを破って京都に凱旋したと伝える。時期的に考えると、この直冬による南朝軍討伐の際に伏原観音も戦火にあったとするのが妥当であろうか
    足利直冬 - Wikipedia

 

  • 小田井用水(おだい ようすい 小田用水とも)は、紀の川北岸の河岸段丘を灌漑するために設けられた用水路で、その延長は橋本市高野口町小田から岩出市の根来川まで30キロメートルにおよぶ。宝永4年(1707)、紀州藩徳川吉宗の命を受け、後に「治水の神様」と呼ばれることになる大畑才蔵が指揮を執った。この用水は現在も使用され続けており、約600ヘクタールの水田を潤している。「水盛台」と呼ばれる独自の測量器具やサイホンの原理を応用した「伏越(ふせこし)」という水路トンネルなど、当時の先端技術が用いられており、その功績を評価されて平成29年(2017)に「世界かんがい施設遺産」に登録された。
    小田井用水について | 水土里ネット小田井

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。