遍照寺の収蔵庫に大切に保存されている鬼女の面には、角が一本欠けている。その面が、いつごろから遍照寺にあるものなのか、だれも知らない。
この話は、かつらぎ町志賀に伝わる「鬼井戸」と、表裏一体をなすものだ。
むかし、志賀から中越へ働きに出た五平という若者がいた。ある夜の夢枕に現われた鬼面のたのみで、五平は遍照寺から持ち出した面をつけ、志賀の里で催された「般若の舞い」を舞ったそうな。ところが五平に恋をした鬼面は、五平の顔から離れず、嘆き悲しんだ五平は、大隆寺の古井戸に飛び込んでしまった。面の角は、そのとき取れてしまったとか。
かつては61年目ごとに、遍照寺で奉納された「仏の舞い」の主役だった鬼面も、あの事件があってからは、もう長い間、めったに人の目にふれることもない。いま、村のあちこちで舞われる「仏の舞い」には、かつての相方だった太郎の面だけが使われている。
(メモ:遍照寺へは、村役場(敷地地区)前の県道から500メートルたらず。「竜の涙池」のある峯手は、中越の上手にあたる。)
開基は弘法大師で、弘仁6年(815年)大師42歳の時、道(僧侶)俗(在家)教化のため当地に立ち寄り、椎の木の下で護摩を焚き、一宇の庵を設け厄除けのために地蔵と不動明王を彫り此処に安置したので、厄除け大師と伝えられている。
昔飢饉で民が餓死せんとした時、弘法大師が此の山(遍照寺山)に生えている菜(不蒔菜)を食べよと教え生き延びたことから、山号は不蒔菜山遍照寺という。
- 遍照寺の「仏の舞」は和歌山県指定無形民俗文化財、国選択無形民俗文化財(文化庁長官が選択する「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」)。「わかやま文化財ガイド(下記リンク先から「かつらぎ町」で検索)」によれば、その概要は次のとおり。
花園の仏の舞は、法華経第五巻「提婆達多品(だいばだったぼん)」第十二に説かれる「女人成仏」の外伝を仮面劇に仕組んだ芸能である。
龍宮にすむ龍女を仏にするため文殊菩薩が釈迦如来の使いとなって龍宮におもむき龍王とその子の5人の鬼を説き伏せようとする。問答をくり返し遂に龍女を成仏させるという仮面教化劇である。
かつては旧暦閏10月のある年にしか奉納されなかったというが、現在は約20年ごとに現地公開される。
(公開時期:不定期)
- 本文にある「鬼井戸」の物語については、「かつらぎ町今むかし話 かつらぎ町民話等編集委員会編 (かつらぎ町 1997)」に下記のとおり紹介されている。これによれば、奉公人の男は単に鬼女の面を志賀の観音堂に持ち帰っただけであり、井戸に飛び込んだのは鬼女の面のみであったとされる。
鬼井戸(おにいど)
むかし志賀の里に、一人の若者がおりました。この男は家の都合で、牛こかし峠をこえて菅(すげ)峠の向こうの花園村へ奉公に出されました。
男は夜の明けきらぬうちから起きて、田畑を耕し、林の下草かり、たきぎ作り、米つきとかいがいしく働きました。そのうえ気前がやさしくて、村の娘たちの評判になりました。
ある夜、男の夢に鬼神が現れて、
「わたしは、遍照寺の蔵にいる鬼女『次郎面』と申す。六十一年目ごとに奉納される『仏の舞』のわき役を一番だけつとめている。そのほかは暗い蔵のおくに閉じこめられ、悲しい毎日を送っている。聞けば、志賀の里では毎年正月十日、鬼男鬼女が観音堂に集まって、『般若の舞』の楽しい一夜を過ごすとか。ぜひ、わたしにもその舞を舞わせてほしい。」
となみだながらにたのみました。
男は気の毒に思い、鬼女の願いを聞き入れました。
正月のある晩、そっとくらから鬼面を持ち出しました。寒い寒い風の中、男はかれ草をかき分けふみ分け、山道を急ぎました。深い臼谷をこえ、けわしい菅峠をかけ上りました。やれ一息と思ったとき、後ろの坂道からがやがやと近付く人声に気付きました。
鬼面がぬすまれたことを知った村の若者たち二、三十人が手に手にかまやくわを持って、追いかけて来たのです。男は鬼面をしっかりとだきしめ、しばらく追っ手とにらみ合いました。なんといっても相手は大勢、どうすることもできません。
そのとき、不意に、
「わたしを、後ろにかぶれ。」
という鬼面のさけび声に、男はすぐにそのとおりにかぶりました。
折から雲間に出た月の光が鬼面をこうこうと照らしました。その目はらんらんと光り、赤い口を大きく開けて、今にも飛びかからんばかりのおそろしい顔つきです。
追っ手は鬼女のせめ返しかと、手足がふるえて金しばりになりました。そのすきに、男は走った走った。石につまずき木の根っこに足を取られながらも、やっとのがれて観音堂に鬼面を納めることができました。
その後、年月がたつにつれて、遍照寺の『仏の舞』の主役・太郎面(鬼男)こいしさの思いがつのり、なみだに明けくれる日が続きました。ついにある夜、そっと観音堂をぬけ出して、大隆寺の井戸に身を投げました。それからまもなく、鬼女は夜な夜な井戸の中から姿を現しては、しくしくとすすり泣きました。月の明るい夜は、大隆寺の明かりしょうじにかげをうつすようになりました。
村人は、「鬼井戸」と呼んでおびえました。そこで大隆寺のお坊さんが、鬼女をまつるようになってから、黒いかげも泣き声もなくなりました。
- この物語について、花園村では「仏の舞に使われていた面が志賀の者に盗まれた話」として伝えられている。「高野 花園の民話 きのくに民話叢書4(和歌山県民話の会 1985)」では、地元の人々の口承として次のような話が収載されている。
盗まれた御田の面
御田の面は一つしかないんじょな、初め、てておにの面と女の面があったんやな。
天野村の志賀の奉公人に盗まれたっていう何はあるけど、実際その盗んだ面やいうのも無いしな。
志賀のお寺は焼けたんやいう話もあるで。ぼんじゅんさん ようゆうたわ、「わしは花園村の人に世話になるけど、わし等の先祖は梁瀬の御田の舞の大事な面を盗んで持って帰った。とんでもない事して申訳ない事したのに」てぼんじゅん よういうたよ。
御田は宮の社務所に置いて粗末にしょったものやさけ、奉公人に盗まれたんじゃ。ほいで若い衆が追いかけて行たんや。
奉公人に盗まれた面は女の面よ - いかれたんは。てておにの面は、こっちにあるよ。
臼山の奥の峠から真砂町のハセちゅうとこへ降りていく道にね、ほうけん峠ちゅう峠があるんや、そこまで追わえて行ったんじゃけどね、面、あと向いてかぶっていたらしいわな。
かしこいんや、その人間はね、面、あとむいてかぶってたらね、丸でこっちむいて走ってくるようでおとろしなって、よう追いつかなんだちゅう話きゝよったけど。
(話者・大谷道秋、中上栄之助(梁瀬) 記録・金谷、藤沢)
鬼の面(一)
仏の舞に使う鬼の面のう、一番大きい鬼の面、ありゃ元の面と違うっていうてらの、ホンマの面はもっと立派で良かったって、年寄りの人は御田や稽古の時にいつも言うてたのう。何でも天野の志賀の方の衆が盗って帰ったらしいわ。そりゃこっちの人間も大勢追わえて行ったんやけど、相手もその父鬼の面を被むって一目散に逃げるし、やっと追わえついたら向こうが後を振り向いたんやて。ほいたらその鬼の面の恐わかったことって、みなすくんでしもて、とうとう取り逃したんやて。そのくらい立派な面やってんてね。
(話者・坪井徳夫、林広信、山内完治、前東敏武(梁瀬) 記録・小山)
鬼の面(二)
あの父鬼の面ね、うん、良かったちゅうあの盗られた元の面のことやけど。ある人のいうのに、盗った奴が賢うてね、面を後にあてて走ったんやて。そいで追いまくってた時にね、面がこっち向いてるんで、ああこっちゃへ帰やて来よらよ、返しにきてくれてるんやなと安心してたら、面が反対向いててよ、だんだん遠なってきてよ、とうとう逃げられてしもたて、そんな話も聞いたしね。ほんで今の面は達うてね。
(話者・坪井徳夫、林広信、山内完治、前東敏武(梁瀬) 記録・小山)
鬼の面(三)
今の父鬼の面が違うっていうのに、ホントの面はね、そのう立派だったちゅう元の面よ、あの前の面は雄鬼だったんやて。今の面は雌鬼の形やて、仏の舞の稽古してる時に年寄りたちからちょいちょい教えてくれとな。雄鬼っていうくらいやさか、よっぽど恐いっていうか、恐ろしいような、立派な面だったんやろかい。
(話者・坪井徳夫、林広信、山内完治、前東敏武(梁瀬) 記録・小山)
- 本文では鬼女の面は遍照寺に現存するとされているが、前項の口承によれば失われてしまったとされている。また、志賀に持ち去られた面が男鬼の面であったか女鬼の面であったかも話者によって異なるようで、明確ではない。
- 和歌山県立博物館が平成17年(2005)に開催した特別展「きのくに仮面の世界-高野山周辺の芸能と紀伊徳川家の能-」では、遍照寺保管の「花園の仏の舞使用面 14面 江戸時代(17~18八世紀)」が展示されたが、この中に当該「鬼女の面」が含まれていたかについては確認できていない。特別展 きのくに仮面の世界
- 神戸女子大学古典芸能研究センターが運営する「喜多文庫民俗芸能資料データベース」には喜多慶治氏が昭和30〜40年代を中心に日本全国で収集した民俗芸能関係資料が収蔵されている。ここに、昭和39年(1964)の「花園の仏の舞」について同氏が遍照寺で撮影した写真及び調査ノートが掲載されているが、同ノートには面について次のような記述がある。
仏の面、5面あり。皆新しい江戸末期か。
第1 大日如来、正面珠の頂くもの
第2 釈迦(頂に黒(剥げている))
第3 阿弥陀 螺髪のもの
第4 阿閦 釈迦の通り
第5 薬師、頂に薬
鬼面。これも江戸末期か
父鬼 赤
太朗 黒(膚色)
次郎 朱赤
三郎 イエローオーカー
四郎 DarkGreen
五郎 IndianRed 一本角
乙姫 髪は緑
侍女 宝珠持
侍女 天蓋持 髪は黒
- 遍照寺には、「仏の舞」に加えて「花園の御田舞(はなぞのの おんだまい 国指定重要無形民俗文化財)」という行事も伝えられている。これらの行事の由来について、花園村商工会村おこし実行委員会が昭和53年(1978)に発行した「紀州花園村の昔話」では次のように紹介している。
花園村はな、和歌山県の北東部にあって、紀伊山系の最高峰護摩壇山と霊場高野山の間に、ひっそりと息づいている村でな。弘法大師の高野山開創とともに開かれたそうな。高野山のみ仏に四季の花を献上するようになったところから、お大師さまに花園という名をいただいて、花園村と呼ばれるようになったということじゃ。
この花園村が、高野山の寺領であった頃は、村内に百近い庵やお堂があってな、今もこの村には民俗的に貴重な習慣や伝統行事、民俗芸能が残されておるんじゃ。
花園村の話をするときに欠かせないのは、新年に行われてきた「御田の舞」と、61年目に演じられてきた「仏の舞」であろうの。「御田の舞」は、その年の豊作を析願する舞でな。田植から脱毅までをおもしろく踊るのじゃ。「仏の舞」はな平安時代に始まったそうで、女人成仏を表すものなんや。仏の浄土に竜王の姫、乙姫をむかえるために、お釈迦さまの使いの文殊菩薩が竜宮に行って竜王と五人の子の鬼と、いろいろ問答をくり返すのやが、鬼どもはいうことを聞かん。そこで、文殊菩薩は、「仏の浄土には、こんなすばらしい舞があり候」というて、大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来、阿闍梨(筆者注:阿閦如来か)の五人仏が、仏の舞を見せて、鬼を説き伏せたんやそうな。乙姫は、喜んで仏の道に入ったんじゃと。
「御田の舞」と「仏の舞」を継いできたのは、村の30歳までの若者で、それも長男に限られておったそうな。「仏の舞」は61年目の上演やったから、知らずに死んでいった村人の多かったということじゃ。
今は、国の無形文化財に指定されてな、村の保存会の人たちが、ときどき上演しているんじゃよ。
- 本文で五平が飛び込んだ井戸があったとされるかつらぎ町志賀の大隆寺は現在では廃寺となっている。この寺院について、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」では次のように記述しており、「鬼走り」という鬼に由来する行事が行われていたことがわかる。
大隆寺
中志賀村の東二町にあり
本尊不動明王古仏なり
寺の側に観音堂(方五間)あり
今当寺の本尊とす
甚だ古堂にて柱みな蟲はみたり
本尊観音また甚だ古仏なり
毎年正月十日此の堂にて大松明を燃し
鬼の面を着け 鬼の装束したるものを追ひて
堂内を馳せ廻ることあり
遠近群湊す
名づけて鬼走りという(筑前住吉社及び所々にあり)
境内天神社あり 古の氏神という
また弁財天社釣鐘堂宝蔵あり
末寺三箇寺皆村中にあり(第2輯 巻之四十七 伊都郡第六高野領)
- 「鬼走り」については、先述した「花園の御田舞」でも一連の演目の最後に行われるが、現在は鬼面を使用することはない。同朋大学仏教文化研究所客員所員の脊古真哉氏は「田遊びと修正会が出会う場(中)-天野社と高野山周辺地域の修正会と御田- 同朋大学佛教文化研究所紀要(39)、156-124(2020-03-31)」において、「花園の御田舞」は天野社(丹生都比売神社)の影響下にあるとしたうえで、鬼に着目して大隆寺との関係について次のように述べている。
(梁瀬の御田(花園の御田舞)に関する記述の後)
「鬼走り」とは言っても素面であるが、かつては鬼面を着けての次第であったのではないか。『紀伊続風土記』には天野社に近接する現かつらぎ町志賀の大隆寺(廃絶)の修正会に鬼が登場し、これを「鬼走り」と称したとある。志賀の場合は御田の実施の有無は確認できないが、やはり天野社から修正会に付随する鬼が伝播したものと見られる。
梁瀬では61年目ごと(実際にはもう少し短い間隔で実施されている)に「仏の舞」と称する如来面・菩薩面などを用いる行事があり、5面の鬼面も用いられる。「仏の舞」は『法華経』巻第4提婆達多品第12の龍女成仏の物語を題材とした仮面劇であるが、劇の内容と使用される面との間には齟齬がある。鬼面は、かつては御田の「鬼走り」の部分に用いられていた可能性がある。各地の事例に多く見られる田遊び終了後に鬼が登場するかたちであったのではないか。※筆者注:修正会(しゅしょうえ)とは、仏教寺院などで毎年1月に行われる法会で、新年を迎えて五穀豊穣や国家安泰などを祈る儀式。節分の豆まきの原型となった追儺(ついな 鬼追い・鬼やらいとも)行事と結びつくケースがしばしば見受けられる。本ブログでも、これに関連した物語として那智勝浦町に伝わる「おこない棒」という話を紹介している。
- 前述の脊古真哉氏の論文によれば、「仏の舞」で使用される鬼面は5面となっているが、先述の喜多慶治の資料ノートでは鬼面は父鬼・太朗・次郎・三郎・四郎・五郎の6面となっている。使用される面の数が1面減っているとすれば、これが本文でいう「鬼女の面」であろうか。喜多氏のノートにある「五郎」面はIndian Red(弁柄色(べんがらいろ))で一本角とのことであるから、その可能性も否定できない。但し、かつらぎ町志賀地区に伝わる「鬼井戸」の伝承によれば持ち去られた面は「次郎面」であるとされ、また地元の人々の口承によれば持ち去られた面は既に失われてしまったとされるなど、「鬼女の面」については諸説あり現時点では不詳である。
- 旧花園村役場は現在かつらぎ町役場花園支所になっている。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。