紀州が生んだ大富豪、紀伊国屋文左衛門にちなんだ話は多いが、これもそのひとつ。
この地に伝わる話というのは、文左衛門は寛文6年(1669)、この地で生まれ、16歳のとき、江戸へのミカン輸送に挑戦した。乗り組んだ8人が、白装束に身を固めて下津港から船出、荒れ狂う海を乗り切り、江戸で大金を手に入れた。このとき文左衛門は、吉原で遊女を総揚げするなど豪勢な散財をしたといい、危険をもかえりみずに一獲千金をねらった男気は、一躍、江戸で評判になった~と。
別所の勝楽寺には「紀文碑」があり、毎年4月24日の文左衛門の命日には法要を営む。国道42号線を渡った所には「紀文茶屋」があり、文左衛門の位牌や「紀伊国屋文左衛門生誕之地」と刻まれた標柱もある。
(メモ:勝楽寺は国鉄紀勢線湯浅駅から徒歩約10分。国道ぞいにあり、阿弥陀如来座像など重文級の仏像も多い。)
- 紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん 1669? - 1734?)は、江戸時代の商人。嵐の中、紀州ミカンを船で江戸へ運んで大きな利益を上げ、それを元手に材木商となって巨万の富を築いたとされる。しかし、晩年には没落したと伝えられており、その浮き沈みの激しい人生は様々な物語や芝居などの題材となっている。ここでは、和歌山大学教授(執筆当時)安藤精一氏の著作である「和歌山県の歴史(山川出版社 1970)」から文左衛門の生涯を紹介する。
紀伊国屋文左衛門
"沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国蜜柑(みかん)船"
紀州ミカンと紀伊国屋文左衛門は切りはなすことができない。文左衛門の出生地は紀北の加太(かだ)浦とか、湯浅町近在の別所、あるいは海草郡大崎村の方など諸説があってはっきりしない。ある年、風波が強くてミカンを江戸に送ることが困難となり、江戸においてミカンの価格が騰貴した。これを知った文左衛門はミカンを買い集め、船員として海の時化(しけ)などものともしない凶暴無頼の徒を乗船させ、海路江戸にむかい、多くの利益を博した。さらにその利益で塩鮭(しおざけ)数万尾を購入し、帰船を利用して京坂地方に売り、一度に巨利をえたと伝えられている。その後、かれは紀州にとどまることに満足できず、友人とともに江戸の本八丁堀に移住し、材木屋となった。たまたま丸山に大火災があり、文左衛門はいち早く木曽におもむき、大量の材木を購入して江戸に送り、莫大な利益をあげて、名声一時になりひびいたという。かれは幕府の材木御用達(ごようたつ)として多くの利益をあげたが、元禄11年(1698)には上野根本中堂(こんぽんちゅうどう)普請を請け負ってこれもかなりもうけたという。かれの富は巨万といわれ、その遊びぶりもはなはだ豪快で"紀文大尽(だいじん)"と称された。宝永年間(1704 ~ 11)までは、江戸本八丁堀三丁目の町全体が文左衛門の家で、客を迎えるたびに新しい畳にしきかえたため、毎日畳さしが七人ずつきて畳を新しくつくったと、そのころ出入りした畳屋の子孫が語り伝えた。その豪遊ぶりを物語る例一、二あげると、吉原に遊びにゆくのに髪結(かみゆい)をつれて行ったり、節分の夜に升(ます)に小粒金を入れて豆まきのかわりにまいたりしたという。あるいは友人から月見に大まんじゅうを送られたことがあり、その返礼に蒔絵の小箱を慰みにと座敷においた。中に何がはいっているのかと開けてみると、小さな豆蟹(まめがに)が数百匹座敷の四方にはいだした。それらを集めてよくみると、小さい蟹の甲に金で紋が書いてあったという。あるいは吉原惣仕舞(そうじまい)といって大門をしめきって独占したこともあったという。
幕府の材木御用達として一時に巨額の利益をえた文左衛門には数々の語り伝えられる豪遊ぶりがあったが、そのおごりが幕府の忌むところとなり、特権が認められなくなって、正徳年間(1711 ~ 15)には深川八幡の鳥居の辺に住むようになった。結局最後は生活に苦しみ、むかしの使用人から生活費の援助をうけたという。
- 和歌山県の有田振興局が事務局を担当している「ブランドありだ果樹産地協議会」が管理しているWebサイト「有田みかんデータベース」には、紀州ミカンの代名詞ともいえる「有田みかん」の起源等に関する論文「紀州有田みかんの起源と発達史(御前明良 和歌山大学「経済理論」292号、1999年11月」が掲載されている。ここでは、有田みかんの起源として、11代垂仁天皇の御代(61年頃)に但馬の国の住人・田道間守(たじまもり)が遥か南方の常世国で得た香菓「橘」とする説(日本書紀)、永享年中(1429 - 1440)に糸我庄中番村の地に自生したとする説(糸我社由緒書)、糸我庄の伊藤孫右衛門という人物が天正2年(1574)に肥後国八代から蜜柑の小木を持ち込んだのが最初であるとする説(紀州蜜柑傳来記ほか)、などが紹介されている。
紀州有田みかんの起源と発達史
- 一般的には、伊藤孫右衛門が八代から移植したとの説を取る資料が多いものの、上記御前氏の論文によれば、室町時代の公卿・三条西実隆が記した日記「実隆公記」享禄2年(1529)11月30日の項に「前左自紀州上洛被送蜜柑」との記録があり、伊藤孫右衛門による移植よりも前に紀州のミカンが名産品であったことが確認できるとされている。
- 伊藤孫右衛門が移植したミカンは、現在「キシュウミカン(小ミカン)」と呼ばれている品種とされるが、これは、中国浙江省から肥後国八代に伝来したものが、紀州有田で広く栽培されるようになったものといわれる(大分県津久見市にある「尾崎小ミカン先祖木(国指定天然記念物)」は日本最古のキシュウミカンで、樹齢800年を超える)。江戸時代に紀州で栽培されていたミカンの主力はこのキシュウミカンであり、紀伊国屋文左衛門が江戸に運んだのもキシュウミカンであったとされる。
尾崎小ミカン先祖木 - Wikipedia
- 現在日本国内で消費されるミカンの大半が「ウンシュウミカン(温州みかん)」である。このミカンは、戦国時代頃に九州で栽培されていたと考えられているが、由来は明確でない。しかしながら、2016年に農研機構が行ったDNA鑑定の結果、ウンシュウミカンはキシュウミカンを種子親とし、クネンボ(九年母)を花粉親とする交配種であることが確認された。ちなみに、クネンボはキシュウミカンと他の柑橘(品種不明)との交配種である。
(研究成果) ウンシュウミカンの全ゲノムを解読 | 農研機構
- 現在はウンシュウミカンの方がキシュウミカンよりもはるかに人気が高いが、江戸時代はキシュウミカンの方が人気が高く、ウンシュウミカンが一般化するのは明治以降のことである。これは、種が少ないという温州ミカンの特徴が、子孫繁栄と家系存続を重要視する江戸時代の武家社会にはそぐわなかったからではないかと考えられている。
- 紀伊国屋文左衛門が生命を賭してまで江戸にミカンを運ぶことにこだわった背景には、江戸の「鞴祭り(ふいごまつり)」の存在があった。「鞴祭り」とは、もともとは鍛冶・鋳物師・たたら師・白銀屋など,ふいご(火力を高めるための送風器具)を使う職人の祭りで、後には風呂屋・のり屋・石屋など、火を使う職人のあいだに広く普及した。毎年旧暦11月8日に行われる祭の日には、職人らは一日仕事を休んで、鞴に注連縄を張り、供物をするが、この供物にミカンは欠かせないものであった。ところが、この年は海上で嵐が続き、紀州からミカンを送ることが出来なかったため職人らはいくら金を積んでもミカンを入手したい状況になっていたのである。
11月8日≪鞴(ふいご)祭り≫は、鍛冶屋、刀工、鋳物師など鉄と炎の匠たちのおまつり(tenki.jpサプリ 2015年11月08日) - 日本気象協会 tenki.jp
- 紀伊国屋文左衛門の生地については諸説あるが、本文にあるように湯浅町別所とする説が有力とされる。明治27年(1894)に出版された関根只誠著「名人忌辰録」によれば、紀伊国屋文左衛門の父は紀州の人で本姓は別所としており、これが別所説の一つの根拠となっている。
紀伊国屋文左衛門 千山(筆者注:千山は文左衛門の俳号)
本姓五十嵐氏
父は紀州の人 初名 文平
享保十九寅年九月二十四日没す 歳六十六
深川霊厳寺地中成等院に葬る
法号帰性融相
熊谷裏平戸にも墓ありと云ふ
(追記に本姓は別所を真とす
没年は元禄六年八月八日 享年五十四
葬地は深川亀住町信玄寺(筆者注:玄信寺の誤りか)とあり)名人忌辰録. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション P161参照
- 上記にあるように紀伊国屋文左衛門の法号は「帰性融相」とされているが、本文にある勝楽寺には、表に「帰性融相信士」、裏に「俗名紀伊国屋文左衛門 享保十九年寅年四月二十四日没」とある位牌が残されている。この位牌は比較的近年になって発見されたもののようで、昭和50年(1975)に出版された和歌山市出身の作家・神坂次郎氏の「紀州歴史散歩 -古熊野の道を往く- 創元社」に次のような記載がある。
先年、湯浅町別所の勝楽寺から紀文の戒名「帰性融相信士」が発見され、境内には記念碑が建ち、国道42号線沿いに紀文堂がたち紀文茶屋が出現して大さわぎになった。だが、それもしばらくであった。紀文茶屋の名物爺さんもいまはなく、爺さんが建てた碑石だけが冬の風の中にぽつねんと立ちつくしている。
紀伊国屋文左衛門之碑
この碑は、江戸元禄期、材木商人としての才略と紀州蜜柑の冒険的輸送によって、一代の豪商となった紀伊国屋文左衛門の紀州人としての雄渾なる商魂と、江戸における上人及び文化人としての事績を顕彰するため、地元を中心に顕彰会が結成され、その生誕地と推定される湯浅町別所に、昭和34年10月に建設されたものである。
湯浅町教育委員会
- 勝楽寺の創建時期は不詳であるが、平安時代には湯浅氏の庇護のもとで七堂伽藍を有する大寺院であったとされる。本尊阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像及び四天王立像4躯の合計八体が国の重要文化財に指定されている。また、国宝に指定されている京都の醍醐寺の金堂は紀州湯浅から移築されたものと伝えられており、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」によれば、別所村の満願寺(勝楽寺は満願寺の奥ノ院とする)の本堂を移築したものであるとする。
勝楽寺 | 湯浅町観光公式ホームページ
国宝 醍醐寺金堂 | 一般社団法人 和歌山県建築士会
- ちなみに、湯浅町では醍醐寺金堂が湯浅から京都へ移築された日を「醍醐寺金堂の移築記念日」とする条例が平成26年(2014)に制定されている。
○醍醐寺金堂の移築記念日条例
- 湯浅町では、上記条例の制定を契機として同町の広報紙「広報ゆあさ」の紙上で平成27年(2015)1月号から5月号にかけて醍醐寺金堂に関する特集を連載した。その最終話では「醍醐寺に運ばれていった湯浅のお堂をさがして」と題して現在の醍醐寺金堂が湯浅のどこにあったのか考察を行っているので、その一部を下記に引用する。
醍醐寺に運ばれていった湯浅のお堂をさがして
醍醐寺に伝わる『義演准后(ぎえん じゅごう)日記』には、湯浅にあったお堂を解体して運び、醍醐寺の金堂として再建したことが記されていますが「紀州ユアサノ本宮」、「紀州湯浅ノ本堂」とあるだけで、湯浅のどこにある何という名前のお寺のお堂だったのかまでは書かれていません。では、お堂が建っていた場所を知る手掛かりはもう他にないのでしょうか。
江戸時代末期の天保10年(1389)に発行された『紀伊続風土記』の満願寺の条に「村の東南の端にあり 伝えいふ 後白河院の勅願所にして光秀上人の開基なり 昔は七堂伽藍三十六坊ありしに天正の頃 高野山木食興山(もくじき こうざん 筆者注:安土桃山時代の僧 木食応其上人のこと)豊太閤(ほうたいこう 筆者注:豊臣秀吉のこと)に乞ひて 本堂は山城国醍醐に移し 本尊は高野山へとり 二王(におう)は熊野那智山へ引移せりといふ」と、醍醐寺に関する記述があります。また、「奥院を別所山勝楽寺といふ 是又(これまた)堂塔ありしに 当寺頑廃(たいはい)の後浄土宗となる 当寺より勝楽寺の辺に 堂塔の名 田地の字(あざ)にのこれり」と勝楽寺を奥ノ院と位置づけ、大門坂(だいもんざか)、塩入寺(しおいりでら)、踊堂(おどりどう)など堂塔の名が残る地名を数多く挙げています。
伝承では、満願寺は平安時代末期に創建されましたが、後に退転して廃寺となり、室町時代には白樫氏がそこに居城を構えていました。現存する満願寺は白樫氏の没落後、寛文12年(1672)に不動院という山伏が旧名の満願寺を寺号として当地で再建したものです。勝楽寺も平安時代末の創建と伝えられ、室町時代には衰退していました。江戸時代にはますます荒廃しましたが、享保11年(1726)に深専寺第十八世住職顕空(けんくう)上人によって本堂が再建されました。寺運の衰勢や往時の地形的条件、平安後期の仏像群が継承されていることなどを考慮すると、『紀伊続風土記』編さん当時の寺院の勢力から満願寺と勝楽寺の伝承が混同したのではないかと考える研究者もいます。確かに『紀伊続風土記』が書かれたのは、お堂が運ばれていった慶長3年(1598)から240年が経ってからで、記述を裏付けるような遺構も見つかっていません。湯浅にあったお堂は、満願寺や勝楽寺の周辺に建っていたとする説が今のところ有力ですが、全く違う場所にあった可能性も大いに残っています。
(以下略)
広報ゆあさ 2015年 5月号
湯浅町役場公式ホームページ|ゆあさちょう|くらしの情報|観光情報|和歌山県有田郡
- 紀伊国屋文左衛門が江戸へ向けてミカン船を出したのは現在の下津港であると伝えられている。これを受けて、海南市下津町大崎に「紀伊國屋文左衛門頌徳碑(船出の碑)」が建立されている。
紀伊国屋文左衛門船出の碑 | 海南観光ナビ
- 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」では、紀伊国屋文左衛門が船出をした地は加太浦(和歌山市加太)であるとする。同地にある淡島神社の摂社「紀文稲荷社」は紀伊国屋文左衛門が寄進したものと伝えられ、また同社の社務所には文左衛門のみかん船の帆柱であったとされる柱(紀文の帆柱)がある。
淡嶋神社ご案内図
- 紀伊国屋文左衛門については、架空の人物であるとの説もあるものの、実在したとする説が主流である。しかしながら、さまざまな物語で紹介されているうちに史実と創作が入り混じり実像がつかみ難い状況になっているとして、江戸東京博物館館長の竹内誠氏は、平成24年に行った講演「紀伊国屋文左衛門の実像(江戸東京博物館友の会 平成24年度定期総会 記念講演(平成24年5月26日)」の中で次のように述べている。
紀伊国屋文左衛門とは
幕末に為永春水が紀伊国屋文左衛門という実在の人物をモデルにして書いた長編小説『黄金水大尽盃(おうごんすい だいじんさかづき)』は12年間にわたり28編も続き、非常に多くの人に読まれました。その結果、史実と小説がゴチャまぜになり、紀文の実像はわからなくなりました。
明治18年(1885)にでた『大日本人名辞書』に小説が紀文の逸話としてそっくり載せられ、これ以降の人物説明は逸話に沿って書かれているものがほとんどです。
紀文の研究は紀州出身の「除虫菊」を発明した実業家上山勘太郎が書いた『実伝 紀伊国屋文左衛門』[昭和14年(1939)刊]が一つだけあります。しかしこの本は、わが郷土が生んだ偉人という視点からの研究なので、客観性に欠けるところがあります。
江戸時代に紀文のことを取り上げた簡単な伝記第1号は『江戸真砂六十帖』(寛延のころ)の書です。八丁堀の材木商で、大金持ち、銭座を請け負い、江の島に石垣を寄進、吉原で小粒金の豆まきをするなど豪遊し、老後は深川八幡宮の辺りに住み7、8年前に死んだとあります。この本には紀州出身であることもみかんでもうけたことも記されていません。
それから50年後の山東京伝の『近世奇跡考』ではそれに加えて享保19年(1734)4月24日に死に深川浄等院に葬られ法名は帰性融相とあります。
そして幕末の小説『黄金水大尽盃』により、本当の紀伊国屋文左衛門の姿がわからなくなってしまったと思われます。
(中略)
紀文の老後
政権が代わって建築プロジェクトがなくなり、乱伐により良材が少なくなることによって政商としての材木屋が栄える時代は終わりました。
「家おとろえ」「段々悪くなりて」といっても深川の隠宅は豪華な造りだったようです。二男新四郎は程ヶ谷宿本陣軽部家へ持参金家作普請付きで婿養子に入った記録が残っています。
奈良屋茂左衛門(神田安休)の遺言[正徳4年(1714)]や財産分配表などの『神田家文書』をみても老後は蓄えたお金と店賃収入と貸金の利息で豊かに過ごしていたことがうかがえます。江戸東京博物館 「えど友」 第68号 平成24年(2012)7-8
会報「えど友」h24 - 江戸東京博物館友の会
- 本文にある「紀文茶屋」は既にない。「紀伊国屋文左衛門生誕之地」の標柱は、「旧あみ清商店国道店」の前。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。