生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

夜泣き松 ~湯浅町吉川~

 吉川の熊野街道沿いに「夜泣松」と呼ばれるところがある。有田市糸我から湯浅町へ抜ける道だが、近年、別の新しい道ができて訪れる人は少ない。

 
 平清盛の熊野詣での途中の話というから、ざっと800年前の話。一行の中に夜泣きをする子供がおり、ここを通るとき、またも泣きはじめた。そこで清盛が「これ これ もう泣くな」と、道のそばの松の木をたたいたところ泣きやんだという。


 以来、土地の人たちは「夜泣き松」と呼び、木をたたくと夜泣きが治ると言い伝えられてきた。だがすでに松は枯れ、その場所も定かではなく、ただこのあたり一帯を「夜泣き松」と呼んでいるだけだ。

 

(メモ:吉川は有田市との境界に近い山問部。道が狭く、車では無理。有田鉄道バス吉川下車、徒歩で約30分。町教委が近く、由来などを記した案内標識を立てるという。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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紀伊國名所圖會 後編二之巻 
後白河法皇白河上皇の誤りか) 熊野御幸のとき糸我山にて
平忠盛 零余子を奉りて「いもが子」の連歌を仕るところ(詳細は後述)
国立国会図書館デジタルコレクション

 

  • 現在、夜泣き松跡には「伝説 夜泣松」と記された標柱が設置されており、下記の内容の案内板が建てられている。本文の物語とはやや異なるが以下に引用する。

 伝説によればこの付近に後鳥羽上皇の手植えの木だと伝えられている大きな松の木があった。
 平治元年(1159年)平清盛の熊野詣での途中、子供連れの女人がおり、住民との話のなかで「子供が夜泣きをするので大変困っている」と訴えた時、「この近くの大きな松の木の皮を削って燃やし、その煙を吸わせると夜泣きが治ると言われている。一度ためしてみてはいかがか。」と老女に勧められ、やってみた所、夜泣きが治ったとされる。
筆者注:読みやすくするため表記の一部を改変した

 

 

  • 建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の4度目の熊野詣(熊野御幸)随行した藤原定家(ふじわらの さだいえ/ていか 「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」「小倉百人一首」の選者)旅行記熊野御幸記(国宝)」には、糸我峠を越えるあたりの状況が次のように描かれている。文中「サカサマ王子」と書かれているのが現在の「逆川王子」である。
    ※読み下し文は「ゆーちゃん」氏のWebサイト「熊野古道関係の古書等の資料」から、現代語訳は「み熊野ネット」のWebサイト「藤原定家『熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』(現代語訳2)」からそれぞれ引用した。

読み下し
 九日 天晴
朝の出立頗る遅々の間、すでに王子の御前にて御経供養等ありと云々、
営に參と雖ども白拍子之間、雜人多立ち隔てて路なし、
(あながち)參る能わずして逐電し、藤白坂を攀昇
[五躰王子に相撲等ありと云々]
道崔嵬殆んど恐れ有、
又遼かなる海を眺望するは興無きにあらず。
塔下(トウゲ)王子に参り、
次(藤代山を過ぐ)橘下王子に参る。
トコロ坂王子に参り、
一壺(イチノツボ)王子に参る。
カフラ坂を昇り、カフ下王子(カフラサカ)に参る
(又崔カイ)

次に山口王子に参る、次に晝食所に入る
宮原と云々、御所を過ぎて小家に入る)
次參いとか王子
又嶮岨凌いでイトカ山を昇る、

下山の後、サカサマ王子に参る
(水逆流すよって此の名ありと云々)
次に又今日湯浅の御宿を過ぎ、三四町許り、小宅の御宿に入る。
御幸記9日


現代語訳
 九日 天気晴れ
朝の出立がすこぶる遅れたため、すでに王子(※藤白王子)の御前にて御経供養などを行なっているとのこと。
営みに参ろうとしたが、白拍子の間、雑人(※ぞうにん。身分の低い者)が多く立っていて、隔ててそこへ行けない。
無理に参ることはできずに素早くそこを出て、藤白坂をよじ登る
[五躰王子で相撲などがあったとのこと]。
道は険しくほとんど恐ろしいほど。
また遠くに海を望む眺めは興が無いことはない。

塔下(とうげ)王子に参り、
次に[藤代山を過ぎ]橘下(きつもと)王子に参る。

次に所坂(ところざか)王子に参り、
次に一壺(いちのつぼ)王子に参る。
次に蕪坂(かぶらざか)を昇り、蕪坂王子に参る。
また険しい山道。

次に山口王子に参る。次に昼食所に入る
宮原とのこと。御所を過ぎて小家に入る)。
次に糸我(いとが)王子に参り、
また険しい山を凌いで糸我山を昇る。
下山の後、サカサマ王子逆川王子)に参る
(水が逆流することからこの名があるとのこと)。

次にまた今日の湯浅の御宿を過ぎ、
三四町ばかり、小宅に入る。
藤原定家『熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』(現代語訳2):熊野参詣記
※筆者注:王子社の表記を一部変更した。

 

  • 平清盛も複数回の熊野詣を行っている。田辺市の広報誌「広報たなべ 2012(平成24)年3月号」の「熊野と平家」特集では、平清盛について次のように解説されている。

 『平家物語』で「そもそも平家がこのように繁栄したのは熊野権現の御利益であると噂された」とあります。
 清盛が伊勢から船を使って熊野に詣でる途中に、その船に(スズキ)という魚が飛び込んできました。普通、熊野詣の道中は肉や魚は食べてはいけないのですが、そのときは先達の山伏が「これは熊野権現の御利益です。お召し上がりください」というので、清盛自ら調理して食べ、家来にも食べさせました。このことがあってから平家は繁栄するようになったということが書かれています。
 清盛の熊野詣の中で最も有名な話は、平治元年のときのことです。清盛が息子や家来たちと熊野詣に出掛けた隙を狙って、京では源義朝らが反乱を起こしました。その知らせを熊野詣の道中で聞いて、清盛は熊野の神木である梛(ナギ)の木の枝を手折って左袖に挿し、熊野権現に勝利を祈願して引き返し、見事反乱を鎮圧しました。

  • 上記の引用中、平治元年に発生した反乱というのが世にいう「平治の乱」で、このとき清盛の帰京を助けたのが湯浅荘を本拠としていた湯浅宗重(ゆあさ むねしげ)である。鎌倉時代初期に成立したとされる史論書「愚管抄」によれば、清盛は「ふたがわの宿(たなべの宿)」で乱の発生を聞いたとされるが、このとき宗重は熊野別当湛快から武具の提供を受け、宗重自身の兵37騎を率いて清盛の護衛にあたり、清盛を迅速に京へ送り届けたとする。源義朝らは清盛の素早い帰京を想定しておらず、結果的にこの反乱は失敗に終わった。これにより、これまでの貴族を中心とした支配体制から武力を背景にした統治への移行が進みはじめ、武家の清盛が大きな権力を持つことになった。

愚管抄 第五巻
此間に清盛太宰大弐(だざいのだいに 大宰府のナンバー2の役職)にて有けるが 
熊野詣をしたりける間に この事どもをば し出して有けるに
清盛はいまだ参りつかで ふたがはの宿と云はたのべ(田辺)の宿なり
それにつきたりけるに かくりき はしりて
かかる事 京に出きたり と告ければ
こはいかがせんずる と思ひ煩ひてありけり
子どもには越前守基盛(もともり)と 
十三になる淡路守宗盛(むねもり)
侍十五人とをぞ具したりける

是よりただつくしざまへや落て 勢つくべきなんど云へども
湯浅の権守と云て 宗重(むねしげ)と云 紀伊國に武者あり
たしかに三十七騎ぞ有ける
その時はよき勢にて
ただをはしませ 京へは入れ参らせなん と云けり
熊野の湛快はさぶらいの数にはえなくて 
鎧七領をぞ弓矢まで皆具たのもしくとり出(いだし)
さうなくとらせたりけり
又宗重が子の十三なるが 紫革の小腹巻の有けるをぞ
宗盛には きせたりける

※筆者注:本テキストは、下記の個人ブログを参考にした
愚管抄 総目次

 

  • また、平治の乱の顛末を描いた軍記物語として「平治物語(作者・成立時期不詳)」があるが、これについては当時の熊野別当湛増とするなど誤りが多数あることが知られているため、歴史的資料として用いることには不適当とされる。参考のため、個人ブログ「み熊野ネット」で紹介されている平治物語の該当部分の現代語訳を以下に引用する。

 そうするうちに十日(平治元年12月10日)に、六波羅平氏の京での拠点)の早馬が立って、切部切部王子:熊野九十九王子のひとつ。切目王子とも。とくに格式の高い五体王子のひとつ)の宿で追いついた。清盛が「何事か」とおっしゃると、「去る九日の夜、三条殿に夜討ちが入って、御所中みな焼き払われました。姉小路西洞院少納言信西入道の宿所も焼けました。これは、右門衛督(藤原信頼)が左馬頭(源義朝)を語らって当家を討ち奉ろうということだと承っています」と申し上げた。

 清盛は「熊野参詣は遂げるべきか。ここから帰るべきか」とおっしゃると、左衛門佐重盛が「熊野へ御参詣しますのも、現世と来世の安穏を御祈祷するためです。敵を後に置きながら御参詣するのはいかがでしょうか」と申し上げたところ、「敵に向かって帰京するのに、鎧の一領もなくてどうするのか」とおっしゃった。

 そこに筑後家貞が長櫃(ながびつ:長方形の、ふたのある箱)を五十合を重たげに担ぎ出させて出てくる。このような晴れがましいときに長持(ながもち:長櫃より作りがよいもの)を持たせずに、長櫃を担ぐのはふさわしくないと人が申し上げるが、ここから五十領の鎧五十腰の矢を取り出して奉る。

弓はどうした」と清盛がおっしゃると、大きな竹の節を突きて、そこに弓を入れさせていた。母衣(ほろ:鎧の上に付けて矢を防ぐ布)まで用意していた。

 家貞は重目結(しげめゆい:鹿の子絞りの目のこんだもの)の直垂に洗革(あらいがわ)の鎧を着て、太刀を脇に挟み、「大将軍に仕えるにはこのようにするものですぞ」と申し上げた。侍どもも道理であることだと感心した。

 熊野別当湛増が田辺にいるので使者を立てられると、湛増は兵二十騎を清盛に奉った。そして湯浅権守宗重が三十余騎にて馳せ参った。これでおよそ百余騎になった。

平治物語5 清盛、熊野権現に祈る:熊野の説話

 

  • 現地の説明板によれば、夜泣き松の故事が生まれたのは平治元年とのことであり、これは平治の乱の直前の出来事であったことになる。

 

  • 平清盛が権勢を誇った時代、彼を助けた湯浅宗重京にのぼって勢力を拡大することになる。清盛の死後は、平家が屋島の戦いで敗れた後に平忠房(たいらの ただふさ 清盛の孫にあたる)が宗重を頼って湯浅に来たため、これを庇護して源氏の軍と戦うが、源頼朝が「忠房の父・重盛には恩がある」として文覚上人(もんがく しょうにん 頼朝の知己であり、宗重の子・上覚(じょうかく)の師であった)を通じて和睦を申し出たため、これを受け入れて投降した。この「恩」とは、平治の乱の際に頼朝はわずか13歳で捕らえられ処刑されるところであったにもかかわらず、平重盛池禅尼(いけのぜんに 平清盛の継母)の尽力により命を救われたことを指すものとされる。
  • 源頼朝と和睦した湯浅宗重は、文治2年(1186)に湯浅荘の所領を安堵された後、鎌倉幕府御家人として勢力を拡大した。最盛期には現在の有田郡から紀の川流域までを勢力圏とし、「湯浅党」と呼ばれる巨大な武士集団を構成したが、南北朝時代になると一族内で南朝方・北朝方に分かれて争ったため、急速に衰退したとされる。

 

読み下し
さて、かの女房院の御子を孕み奉りしかば、
産めらん子、女子ならば朕が子にせん。
 男子ならば忠盛が子にして、弓矢取る身にしたてよ
と仰せけるに、すなはち男を産めり
この事奏聞せんと窺ひけれども、しかるべき便宜もなかりけるに、
ある時、白河院、熊野へ御幸なりけるが、
紀伊国糸鹿坂といふ所に、御輿かき居ゑさせ、
しばらく御休息ありけり。
薮に零余子のいくらもありけるを、
忠盛袖にもり入れて御前へ参り、
  いもが子ははふ程にこそなりにけれ
と申したりければ、院やがて御心得あって、
  ただもり取りてやしなひにせよ
とぞ付けさせましましける。
それよりしてこそ我が子とはもてなしけれ
平家物語 - 巻第六・祇園女御 『さて、かの女房…』 (原文・現代語訳)

 

現代語訳
さて、この女御(祇園女御)は、白河上皇の御子を妊娠していた
白河上皇は、
女御の産んだ子が女子ならば、私の子にする。
 男子ならば忠盛が引き取り、武人に育てよ
とおっしゃった。まもなく男子を出産した
忠盛はこのことを申し上げようと機をうかがっていたが
適当な機会がなかった
ある時、白河上皇が熊野へ御幸した際
紀伊国糸鹿(糸我)坂というところに御輿を止めさせ
しばらく休憩された
まわりの薮に零余子(むかご ヤマノイモの肉芽)がたくさんあったので
忠盛は袖に盛り入れて上皇の御前へ参り
  いもが子ははふ程にこそなりにけれ
    (芋の子は蔓が這うほどに成長しました
      = 女御の子は這うほどにまで成長しました
と申し上げると、上皇はすぐにお気づきになって
  ただもり取って養いにせよ
    (ただ盛り取って、栄養にせよ
      = 忠盛が引き取って養え
と下の句を付けられた
これより(忠盛が清盛を)我が子として育てられた

 

  • 康治2年(1143)に湯浅宗重が築城したとされる「湯浅城」跡は、湯浅町青木の青木山山頂にある。北側に「湯浅温泉 湯浅城」があるが、これは湯浅宗重の城と直接の関係はなく、純粋に観光施設(宿泊施設)として建設されたものである。同施設は、長年にわたって湯浅町観光公社が国民宿舎として運営してきたが、現在は民間企業が買収して一般の宿泊施設として運営されている。
    湯浅城 - Wikipedia
    和歌山 湯浅温泉 湯浅城【公式】

 

  • メモ欄中、有田鉄道バス吉川停留所は廃止されている。現在の最寄り停留所は中紀バス湯浅線「済生会病院で、ここから夜泣き松跡までは約2キロメートル。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。