和歌で有名な宗祗法師は、室町時代の応永28年(1421)、藤並荘(現在の吉備町)下津野一ツ松で生まれた。父親は伎楽の師匠で、宗祗にも継がせようとしたが、宗祗はこれを嫌い、剃髪して僧となり仏道を修業、のち和歌や連歌に心を寄せた。
宗祗屋敷跡には古い井戸が残り、そのそばには「宗祗法師生誕井」の碑が建っている。いまその周囲は、ほとんどミカン畑となっているが、東西に15メートル、南北に20メートルの鉄サクで囲われていることなどからみて、もとはかなりの屋敷であったことが想像できる。
生涯を旅に送ったという、この風雅の宗祗。松尾芭蕉が、西行とともに尊敬したとか。一説では近江の生まれともいう。
(メモ:国鉄紀勢線藤並駅から金屋口行きバスに乗り、一ツ松で下車すぐ。国道42号線から東へ約800メートル。有田鉄道下津野駅からも近い。)
- 宗祇(そうぎ 1421 - 1502)は、室町時代の連歌師。全国を旅して回り、各地で連歌会(れんがえ)を催したり、歌や古典の指導を行ったりしたことから、「漂泊の詩人」とも呼ばれる。また、連歌の宗祇、和歌の西行(1118 - 1190)、俳諧の松尾芭蕉(1644 - 1694)をあわせて「放浪の三大詩人」と称することもある。
宗祇屋敷跡
一ツ松の内 吉備野にあり
周百八十間許(ばかり)
寛文雑記に
屋敷跡に又太夫といふもの住居すとあり
今は其の家も絶えて田地となれり
- 宗祇の屋敷跡と伝えられる場所には、宗祇の産湯に使用されたとされる井戸や記念碑、宝篋印塔が残されており、「宗祇法師屋敷跡」として和歌山県指定史跡に指定されている。現地の説明板には、宗祇について次のような解説が記されている。
宗祇法師屋敷跡 – 有田川町観光協会
漂泊の詩人 宗祇法師
西行・芭蕉と並ぶ漂泊の詩人、宗祇法師は、応永28年(1421)ここ有田郡有田川町下津野に生まれ、文学に志をたて、時の将軍から「連歌会所奉行」、そして朝廷からは「花の下(はなのもと)」という称号を賜り名を成した室町時代の代表的な文学者であり、また茶道・香道の確立にも関わった当時の超一流の文化人でありました。
宗祇はこの地で猿楽師(さるがくし)又太夫(まただゆう)の子として生まれ、幼少の頃は勝童子(かつどうじ)という名で父の一座とともに全国を興行して回りました。
勝童子が13歳の頃、九州豊後国(大分県)で興行をしました。その時、宿としたお寺(大分市内の「円寿寺(えんじゅじ)」といわれる。)の院主が勝童子の才能を見抜き、ひまひまに和歌を教えました。
四年後故郷に帰ってきた勝童子は、「青蓮寺(しょうれんじ)(「少林寺(しょうりんじ)」という説もある。)で出家し、名も宗祇と改め、和歌の道に励みました。30歳代にはその名を知られるようになり、当時のこの辺りの殿様湯川政春の援助を得て京都に上がることになりました。
宗祇は歌の道に励みましたが、特に連歌に強く引きつけられ、宗砌(そうぜい)、専順(せんじゅん)、心敬(しんけい)という先生につき連歌や古典の勉強を始めました。50歳を過ぎる頃には高い評価を得て名は全国に広まり、各地を旅して連歌や古典を教えるようになり、52歳の時、美濃国(岐阜県)郡上の殿様東常縁(とう つねより)に師事し、古今伝授(こきんでんじゅ 筆者注:秘伝である「古今和歌集」の「解釈」を師から弟子に伝えること)も受けました。この頃から宗祇は朝廷や幕府に出入りし、連歌や古典を教え、今に有名な「白河紀行(しらかわきこう)」「川越千句(かわごえせんく)」「竹林抄(ちくりんしょう)」「筑紫道記(つくしのみちのき)」「水無瀬三吟百韻(みなせ さんぎんひゃくいん)」など多数の著作も行い、連歌会の第一人者となりました。そしてついに時の将軍足利義尚から「連歌会所奉行」という連歌師の最高の役を命じられ、68歳の時、後土御門(ごつちみかど)天皇からは「花の下」という称号を与えられました。
有名な「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」の編纂は宗祇75歳の大仕事でした。今も貴重な連歌の手本として伝えられています。
旅の詩人宗祇の最期の旅立ちは80歳のことでした。京都から新潟、長野、群馬、東京、神奈川と旅し、連歌会を開きました。
「見おさめに富士山を見たい」というほど富士が好きな宗祇でしたが、富士を見ることなく箱根湯本で生涯を閉じました。
文亀2年(1502)7月晦日82歳でした。
富士の裾野、「定輪寺(じょうりんじ 静岡県裾野市)」に今も静かに眠っています。
平成14年3月
有田川町教育委員会(筆者注:建立時は吉備町教育委員会)
- 連歌(れんが)は、和歌の形式を基本とし、「上の句」の5・7・5と、「下の句」の7・7とを複数人で続けて詠みながら一つの歌にしていくもの。奈良時代から平安時代初期までは、一人が上の句を詠んで、別の一人がこれに下の句を付けて終わるという形式の「短連歌」が流行したが、やがて多数の人が次々と句を連ねていく「長連歌」が行われるようになった。鎌倉時代には上・下あわせて100句を基本とする「百韻」が広く行われるようになったが、時には千句、万句を詠むこともあった。
- それまでの連歌は、単なることば遊びの面白さを競うもので、時には賭博を伴うほど娯楽性の高いものであったのに対し、宗祇は連歌に格調高い文学性と芸術性を求めた。上記にリンクを掲げた有田川町観光協会のWebサイトでは、宗祇の連歌について下記のような解説を行っている。
当時の連歌が単にことば遊びのおもしろ味を競い、賭博を伴ったものであったのに対し、宗祇は格調高い文学性と芸術性の高いものへと変化させていきました。
(中略)
宗祇の連歌は命令表現や疑問・反語表現、願望表現など多様な表現が駆使されており、語彙には悲しむ、恨む、憂し、つらし等、心情的なものが多用されており、この2つが重なって叙情性の強いものとなっています。
このことが宗祗が「心の連歌師」と言われる所以で、「宗祇の前に宗祇なし」「宗祇の後に宗祇なし」と評されるほどの連歌界の巨匠なのです。
- 連歌が一般化すると、その中でも特に滑稽味の強い言葉遊び(駄洒落など)や通俗的な話題を盛り込んだものを「俳諧連歌(はいかいれんが 俳諧は本来「滑稽」「戯れ」の意)」と呼ぶようになった。江戸時代になって、俳諧師であった松尾芭蕉は、最初の5・7・5の句(発句 季語を入れることが求められていた)が単独でも芸術として成立し得ることを感じ、滑稽さよりも文学性を重んじた句を数多く生み出した(この時点では「俳諧の発句」と呼ばれていた)。その後、明治時代になると正岡子規(1867 - 1902)が俳諧連歌を批判し、新たな芸術としての「俳句」を提唱した。これが現代の「俳句」の始まりである。つまり、「俳句」は「連歌の第一句(発句)が独立して単独の文学となったもの」であると言える。
俳句とは - コトバンク
- 松尾芭蕉の紀行文「笈の小文(おいのこぶみ)」の冒頭に掲げられている「序文」は、「風雅論」と呼ばれて芭蕉の芸術理念の根本をよく表したものと言われているが、その中で芭蕉は西行、雪舟、利休とともに宗祇の名を挙げてひとつの理想の姿であるとしている。
西行の和歌における
宋祇の連歌における
雪舟の繪における
利休の茶における
其貫道する物は一なり
しかも風雅におけるもの
造化(筆者注:万物の創造主)にしたがひて四時(筆者注:四季)を友とす
見る處花にあらずといふ事なし
おもふ所月にあらずといふ事なし
現代語訳
西行にとっての和歌
宗祇にとっての連歌
雪舟にとっての絵
利休にとっての茶
いずれもその道をつらぬく物は一つである。
しかも、芸術の道においては
天地自然に従って四季の移り変わりを友とすべし
見るものすべてが花である
思う所すべてが月である※現代文は筆者による
- 宗祇の出生地については複数の説があるものの、大きくは「紀伊国」説と「近江国」説に分けられる。これに関しては帝塚山学院大学名誉教授の鶴崎裕雄(つるさき ひろお)氏の「宗祗出生地小論 -寺院領・荘園との地縁的関係に求めて-(関西大学学術リポジトリ)」に詳しいが、この中から有田川町説の根拠のひとつとなっている、享保13年(1728)に仁木阿弥が紀伊国で書写したという宗はん著「宗祇法師伝」の記述を引用する。
関西大学学術リポジトリ
一、宗祇の初生地は紀伊国有田郡の内
藤波庄黍(きび)野と云在所の又大夫と申せし猿楽の実子也、…
猿楽にすき一座を催し豊後国に下る時に、
宗祇父子も同道也、
宗祇は十三 豊後に出入、
四年逗留有し也、
ある大寺の院主宗祇をあはれみ、
朝暮そばを不放愛せらる、
此院主九州にかくれなき歌道すきにて、
有時宗祇にたはぶれ申されしは、
さてもそなた心あらば、よく聞給ふべし
古詞に人は賢に馴よ、
賎しきにふる掴事なかれとあり、
其故いかんといふに、
猿楽にすけば猿楽に成、歌をすけ
ば歌人に成ぞよと、
既にそなたの頼む所の大夫こそ猿楽にすき、
我先祖の何某の筋を捨ざるゆへに落ぶれ此国に下らる、
と聞、それこそ証拠なれ、
貴所は必々今より後は猿楽道をすて歌人になれとて、
古今一部取出し宗祇に
送られ、素読相伝有しと也
*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。