生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

賢の童堂 ~吉備町(現有田川町)賢~

 (かしこ)から田角(たずみ)への上り口に、童子の地蔵さんをまつる小さなお堂がある。人を疑うことの罪の大きさを諭すお堂だ。

 

 あるとき、貧しい家のこどもが「赤飯を食ベた」といったのを聞いた隣りの金持ち

 

貧乏人の子供が赤飯を食べられるはずがない。うちの小豆を盗んだのに違いない」と疑った。貧乏だが実直な父親は「カ二飯を食べさせた」といったがきかないため、こどもの腹を切ってみせた。どこからも小豆が見つからず、金持ちは非をわびた。だが、こどもの命はもどらない。このため金持ちは、土地とお堂を寄進して、こどもの霊をなぐさめたという。

 

 お堂の前には、地元の人たちが供える、きれいなゾウリがいつも並んでいる。

 

(メモ:有田川の右岸を走る県道を、井口の郵便局横で北へ入って約700メートル。国鉄紀勢線藤並駅から車で30分。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

童堂

 

  • (かしこ)の童堂(わらべどう)」の物語については、合併前の旧吉備町が編纂した「吉備町誌」で次のように紹介されている。

賢の童堂

 賢から田角への上り口もと簡易水道の貯水池の南に古めいたお堂がある。昔この辺りに四、五軒の人家があり、金持の家の隣に貧しいが実直な農夫が住んでいた。
 ある日貧しい家の(わらべ)が「今日おひるに赤めしをたべた」というのを聞いた隣りの金持ちが「あのびんぼう人の子供が小豆めしなど食べられるはずがない。さてはうちの小豆を盗んだのに違いない」と嫌疑をかけた。
 これを聞いた童のは、「カニめしを食べさせたのだ」と釈明したが疑いが晴れない。
 「それほど疑われるなら末代までの恥、では証拠を見せましょう」と、かわいい我が子の腹に出刃包丁を突き立て腹をさいて胃袋を見せた。胃の中からこなれ残ったカニめしがでてきた。
 金持は「疑って申しわけない」と平あやまりにあやまったがかわいそうに童の命はもどらなかった。深く悲しんだ金持ちはその非を恥じ、せめて後世のためにとを建て境内を寄進して地蔵像を祭り、童のみたまを慰めた。これが童堂にまつわる悲しい伝説である。

 昭和31年5月4日お堂を改築、現在は区が管理しているようだが、戦前は福原正好方が世話をしていたという。
 本尊地蔵像を童堂地蔵大菩薩とあがめ、1月24日には大もち投げでにぎわうという。お堂の前に小さな子供履きの草履など備えて昔をしのばせている。今も日参を欠かさない信心家もいるとのことである。 

 

  • (かしこ)」は有田川町(旧吉備町)の地名。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」には下記のような記述があり、地名の由来は不明だが「樫川(かしかわ)」であろうと考察している。

賢村

井ノ口村の艮(うしとら 北東)六町にあり
村居 東原 西原と二ツに分れて
川北の谷に散在す
賢の義 詳ならず
田角村より村中に流れ出づる小川あり
因りて按ずるに
樫川(かしかわ)の義にて
栃川(とちかわ)等と同義なるべし
(川を古(こ)といふ例多し 
 賢は仮字ならん)

 

  • 田角(たずみ)」は賢から北側の山中に入ったところにある集落。「紀伊風土記」では次のように記載されており、郡の北隅の境にあることから「田角」の名がついたとする。

田角村

賢村の北二十四町にあり
谷狭くして寒村なり
北は峯を境して海部郡百垣内村(筆者注:海南市下津町)に隣る
郡の北隅の境に在るに因りて
田角の名 起れるなるべし

 

  • 百垣内村から田角村を越えて賢村に至る峠道を「賢の坂」あるいは「賢越え」と呼んだ。「万葉集 巻六」で「石上乙麻呂(いそのかみの おとまろ)卿、土左国に配さるる時の歌三首並せて短歌」として掲載されている歌のなかに、この「賢の坂」で詠まれたとするものがある。海南市下津町引尾にある「立神社(たてがみしゃ)」には、この歌を記した歌碑が建立されており、下記のような説明板が設置されている。

父君に 我は愛子ぞ   ちちぎみに われはまなごぞ
母刀自に 我は愛子ぞ   ははとじに われはまなごぞ
参ゐ上る 八十氏人の   まいのぼる やそうぢひとの
手向する 恐の坂に   たむけする かしこのさかに
弊奉り 我れはぞ追へる ぬさまつり われはぞおへる
遠き土佐道を とほきとさぢを
   万葉集 巻六(1022)

 

 「天正11年(739年)石上乙麻呂(いそのかみ おとまろ)が土佐に配せられし時の歌」として、四首の歌が万葉集に収められている。その中の一首がこの「(かしこ)の坂(さか)」の歌である。
 昔から仁義村百垣内から田殿村田角への坂は「賢の坂」「賢越え」と呼ばれ、仁義と吉備を結ぶ重要な街道であった。この歌は「父君にとって私は最愛の子供です。母君にとって私は最愛の子供です。都へ上る多くの人々が、手向けをして都へと向かうこの恐の坂で、私は今御幣をお供えして、これから遠い土佐への道を進んでいくのです」という意味である。

 

 尚、大崎を詠んだ次の歌が当歌の反歌である。

大崎の神の小浜は狭けども  おほさきの かみのおばまは せばけども
 百船人も過ぐといはなくに  ももふなびとも すぐといはなくに
       巻六(1023)

 

 平成16年11月

      下津万葉歌愛好会
      下津町教育委員会 

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。