田角の集落のすぐ上。高さは、ざっと15メートル、幅は6メートルもあろうか。周囲には木々が生い茂り、奇岩に水しぶきがぶつかるさまは雄大。だがこの滝は、重い年貢に苦しんだ農民の悲劇を語りかける。
その昔、検地の役人が姥(うば)に「滝の上には田がないか」とたずねた。「山のてっぺんに、田んぼがあるはずがない」との返事に納得して帰ったが、数年後、再び訪れたところ、滝つぼに一本のワラが浮いていたところから、美田が見つかり、ウソをついた姥が打ち首になったという。
重税に苦しむ農民が、精魂込めて開拓した田んぼを守る「隠し田」の話は各地に残るが、ここでは、里人の暮らしを守るため犠牲となった姥の霊をまつるため、滝に近い屋敷跡に祠を建て、長くその話を伝えている。
- 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」には、下記の説明と共に上記の絵が掲載されており、当時から名所として知られていたものと考えられる。
姥が滝
田角村の北谷 田殿越の山中にあり
高さ十丈許(ばかり)
奇巖催嵬として泉瀑其間に溢れり
楓の樹数株ありて是又其奇観を助く
傍に天神社あり
相殿に老媼の像を祀れり
昔検地の時 此老婆が歎願によりて
此辺の検地をゆるされしより
里人感激に堪えずして
肖像を尸祝すといふ
- また、同時期に編纂されたもう一つの地誌「紀伊続風土記」の「田角(たずみ)村」の項でも、下記のように紹介されている。「名所図会」「続風土記」ともに、いわゆる「かくし田」が検地を免れたのは老婦の願いによるものと記述しており、この時点では「姥が嘘をついて検地を免れた」という話は定着していなかったようである。
姥ヵ瀧
北の谷にあり
高さ十六間
土俗傳へいふ
昔検地の時一老婦が願に因りて
奥田といふ地 検地に免れしより
里人其姥の霊を祭りて
瀧の邊の天神社に合祀す
故に此名ありとぞ
然れども今は高地(筆者注:年貢の課せられる土地)となるといへり
うばが滝とかくし田
田角の在所をのぼりつめた辺り、道の右側にこんもり茂った森がある。道から鳥居をくぐって降りていくと姥が滝の滝つぼがあり、清らかな滝が緑の茂みの中に落ちている。滝つぼのそばの小さな岡の上に国常立命(くにとこたちのみこと)と姥を祭った祠がある。下からは見えないが滝口から上に台地が広がり水田が続いている。昔からここを「かくし田」といって9町歩(9ヘクタール)もあったといい、現在でも水田8町歩ある在所の穀倉地帯である。このかくし田にまつわる姥の悲しい伝説が今に伝えられている。
滝への下り口から少し上って左へ、大賀畑(おおかはた)への道を50メートル余り行った道端に祠がある。ここに一人の姥が住んでいた。名主の母とも、尼僧であったとも、四国さぬきの剣豪、田宮坊太郎の姥とも言われるだけで素姓ははっきりしない。
ある年のこと、検地の役人がやってきて
「このあたりから上には田がないか」。
と姥に尋ねた。姥は、
「ここは山のてん、田はありません」
と言いきったので役人はそのまま帰っていったという。当時田角は平地が少なかったので人々は営々として山すそを開きわずかの土地をも耕していたが課せられる年貢は重かった。
姥の計らいで検地を逃れた在所の人々はその「かくし田」でほんとうにいきをしたのであった。それから幾年が過ぎた。ある年、検見(けみ)の役人がまたやって来た。滝つぼで一息していると上からわらすべが流れ落ちてきた。役人は目ざとくそれを見つけて
「さては この水かみに田があるのか。ふしぎなことだ」
と滝の上へ登っていくと、そこには美しい田が広がっていた。役人は、かの姥を責め、怒りのあまり打首にしてしまったという。姥は重い年貢に苦しむ里人の暮らしを守るため尊い犠牲になったのである。人々は悲しみのうちにその霊を祭り、姥の屋敷跡にも祠を立てて永く里の守りと感謝を捧げてきた。
吉備町:うばが滝とかくし田 | 和歌山県文化情報アーカイブ
※筆者注:読みやすさを考慮して、適宜ふりがな、句読点を加えるなどの修正を行った。
- この物語において「かくし田」とされる農地は現在ではほぼその姿をとどめていないものの、本文が執筆された昭和57年(1982)頃までは稲作が継続されていたようである。国土地理院の地図サイト(電子国土WEB)では、地域によって過去の航空写真が閲覧できる場合があるが、当地が対象範囲に含まれる「1984年~1986年」の航空写真では「姥が滝」の北側(上流)に広範囲にわたって水田が広がっていることがわかる。
地理院地図 / GSI Maps|国土地理院
- 姥が滝の滝壺のそばには「天神社」がある。上記の県Webサイトによればここには国常立命と姥とが祀られているとするが、「紀伊続風土記」では「神名詳ならず 相殿の神を姥明神といふ」と記載されており、主祭神は不明とする。ところが、天神社に設置されている説明板によれば、下記のとおり村史では祭神を菅原道真としているようで、混乱がみられる。また、ここに挙げた村史の伝承でも、上記の「名所図会」「続風土記」と同様に、姥は田があることを隠したのではなく、稲の出来が悪いことを役人に訴えて検地を免れたこととされている。
史跡 姥ヶ滝 有田川町
指定年月日 昭和42年10月1日
田角の奥にあり、周辺の谷川の水を集め鬱蒼とした樹の間を、16間の高さの滝となって流れ落ち、奥深く風雅で紅葉の頃はとくに美しい眺めである。正面に立てば水煙が肌をさし、夏でも寒い。滝つぼ前の小橋をわたれば丘の上に小さな祠らがあり、菅公 - 菅原道真を祀っている。
慶長年間に、一人の姥がおり、検地に来た役人に、奥のたんぼは稲のできが悪い、と訴えて検地を免れた。村人はその姥に感謝して霊を祀ったので、以後この滝を姥ヶ滝と称した、という。
(村史より)
- 天神社の主祭神とされる国常立命(くにの とこたちの みこと 国之常立神、国常立尊とも)は、「古事記」では神世七代(かみのよななよ 別天津神(ことあまつかみ)に次いで現れた7柱の神々)の最初の神とされ、「日本書紀」本文では天地開闢の際に出現した最初の神とされるなど、日本神話における事実上最初の神であると位置づけられている。明治期の神仏分離の際に、各地にあった妙見社(北斗七星を神格化した妙見菩薩を祀る神社)が祭神を国之常立神や天之御中主神(あめの みなかぬしの かみ 古事記で最初に現れる神)に改めたとされることから、もしかすると、当社でも永く祭神不詳であったことから、後世になって「国常立命」を祭神と位置付けたのかもしれない。
国之常立神 - Wikipedia
- 菅原道真以前の「天神」とは天から降りてきた雷の神「火雷神(ほのいかづちのかみ)」を指しており、雷は農耕に不可欠な雨をもたらすことから、「天神」は五穀豊穣を司る農耕神として祀られてきた。後に、大宰府に左遷された菅原道真の怨霊が平安京の清涼殿に雷を落としたと恐れられるようになったため、道真に天満大自在天神(てんまん だいじざい てんじん)という神格を与えたことから、やがて旧来の農耕神である「天神」と菅原道真を神格化した「天神」とが融合していった。
天神信仰とは - コトバンク
- 以上の事柄をもとに考察すると、この天神社はもともと田角地区の五穀豊穣を祈る農耕神としての天神を祀る社であったものが、やがてその社名から菅原道真を祭神とする解釈が広まったものではないか。
- 現在、天神社は田殿丹生神社(有田川町出)の摂社と位置付けられている。
和歌山県神社庁-田殿丹生神社 たどのにゅうじんじゃ-
- 上記の県のWebサイトの中で、姥が「四国さぬきの剣豪、田宮坊太郎の姥とも言われる」との記述がある。田宮坊太郎(たみや ぼうたろう 田宮小太郎とも)は、江戸時代の剣客(剣の達人、修行者)で、歌舞伎「幼稚子敵討(おさなごのかたきうち)」、人形浄瑠璃「花上野誉石碑(はなのうえの ほまれの いしぶみ)」などの、いわゆる仇討物の主人公として知られている。祖父は紀州徳川家家臣、15歳で柳生宗冬から免許皆伝を得て、18歳の時に大久保彦左衛門を通じて将軍・徳川家光から仇討免状を受けた後、故郷の丸亀で父の仇を討ったとされるが、実在の人物であるか否かは不明。前述の「田宮坊太郎の姥」とは、父が討たれた後に生まれた幼い坊太郎を見守った乳母の「お辻」を指すと思われるが、一般的には、お辻は仇討ちが果たされた後に自害したと伝えられている。田宮坊太郎と乳母の物語については下記の個人サイトが詳しい。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。