「立ち入り禁止の森」の意味。里人が聖地としてあがめたところから、こんな名前がついたものだ。
吉見の集落の山すそにある、小さな丘陵がそれ。いまも立ち入る人はいない。
南朝再興の兵をあげた義有王が、文安4年(1448)、湯浅城で守護職畠山持国の軍に破れ、吉見まで逃げたものの、この森で自害した。里人が遺体をその地にまつり、義有王が持っていた鏡を御神体として建てたのが、若宮八幡宮だという。
森の周辺には家が建ち並び、近くの山も削られるなど、ここにもまた開発の手が伸びているが、森には数百年を経た木々も多く、歴史を感じさせる。
(メモ:下津野から西丹生図へ出、ここから南へ約1.5キロ。)
- 義有王(よしありおう)は、後村上天皇第六皇子説成親王(かねなりしんのう)の子、円満院円胤(えんまんいん えんいん)とされる。文安元年(1444)に南朝再興を期して紀伊国北山にて挙兵するも、戦に破れ文安3年(1446)湯浅城へ逃れた。義有王軍は湯浅氏を中心に善戦し籠城を続けたものの、文安4年(1447)ついに落城し、義有王一行は間道を通じて吉見まで逃げ延びたという。(本文中では文安4年を西暦1448年としているが、これは義有王が自刃したのが文安4年12月23日とされており、これが西暦では1448年1月にあたることによるものである。)
有田川町指定文化財
ゆかんどの森(不行塔の森)
指定年月日 昭和39年12月1日ゆかんど(不行塔)とはみだりに立ち入ってはならぬ所の意味で、この地は義有王の陵墓と伝えられている場所です。
義有王は、後村上天皇の第六皇子であった説成親王の子大僧正円悟(円胤)のことで、還俗して義有王といった。
文安元年(1444)南朝方の残党と共に兵を挙げ、大和、紀伊に転戦して湯浅城を守り固めたが敗れ、文安4年(1447)この地で自刃されたという。
享年40歳。なお、この付近の山中には義有王の部下の墓といわれる数基の板碑が点在しています。
有田川町教育委員会
- 鎌倉幕府が倒れた後、建武の新政をすすめるうちに後醍醐天皇と足利尊氏との対立が激化し、延元元年/建武3年(1337)、尊氏が光明天皇を擁立したことに反発した後醍醐天皇は吉野に移って吉野朝廷(南朝)を開いた。これが南北朝時代の始まりであり、元中9年/明徳3年(1392)に明徳の和約によって両朝の合一がなされるまで55年間にわたって南朝・北朝が並存した。
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
- 明徳の和約では、皇位は両統迭立(北朝の後小松天皇の子孫と、南朝の後亀山天皇の子孫とが、交互に皇位に就く)とすることが定められたが、応永19年(1412)に、北朝系の後小松上皇の後継として、同上皇の皇子・称光天皇が即位した(北朝系が2代続いた)ことから、南朝方の皇族や家臣がこれに反発して争いが発生した。こうした、両朝合一(事実上北朝系の天皇が皇位を独占することになった)の後に生じた、南朝の復権を目指した運動や争乱、及びその主体となった南朝系の皇統に属する人物・その家臣などを総称して「後南朝(ごなんちょう)」と呼ぶ。
- 後南朝の活動には次のようなものがある。
※参考:Wikipedia「後南朝」 後南朝 - Wikipedia
- 応永21年(1414)、吉野に潜行していた南朝最後の天皇である後亀山上皇とその皇子小倉宮恒敦(おぐらのみや つねあつ)を支持して、伊勢国司の北畠満雅が挙兵した。後に室町幕府の討伐を受けて和解が成立し、上皇は2年後に京に帰ったが、小倉宮は吉野にとどまった。
- 正長元年(1428)、称光天皇(北朝系)が崩御したが嫡子がいなかったため、傍流である伏見宮家(北朝系)から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことに南朝側は激しく反発する。北畠満雅は再び小倉宮聖承(おぐらのみや せいしょう 小倉宮恒敦の皇子、南朝系)を担いで伊勢で挙兵したが、幕府軍と戦って敗死した。
- 嘉吉3年(1443)、日野有光らが後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入(暗殺は未遂)。三種の神器のうち剣と神璽を奪い、南朝皇族の通蔵主(つうぞうす)・金蔵主(こんぞうす)兄弟(後亀山の弟の孫)を担いで比叡山に逃れる「禁闕の変(きんけつのへん)」を起こした。幕府は数日のうちにこの変を鎮圧し、通蔵主・金蔵主・日野有光ら首謀者をことごとく殺害した。
- 長禄元年~2年(1457 - 1458)、赤松家の遺臣※1が、赤松氏の復興のため※2に上記「禁闕の変」で南朝方に奪われていた神璽を奪回した(長禄の変)。このとき、後南朝の本拠地は北山(奈良県吉野郡上北山村か)あるいは三之公(さんのこ 同郡川上村)にあったとされるが、赤松家遺臣の上月満吉、石見太郎、丹生屋帯刀らは「臣従する」と偽って後南朝勢に接近したうえで、南朝系皇族の末裔という自天王(じてんのう 尊秀王(たかひでおう/そんしゅうおう)とも)・忠義王(ただよしおう / ちゅうぎおう)兄弟を殺害した。この際には神璽奪還はならなかったものの、翌年あらためて奪還作戦を実行し、遂に神璽を北朝方に取り戻すことに成功した。
※1 嘉吉元年(1441)、播磨・備前・美作の守護赤松満祐は、室町幕府6代将軍足利義教を自邸の宴に招いて暗殺した。満祐はやがて幕府軍に攻められて領国の播磨で自刃。赤松家は取り潰しとなった。(嘉吉の乱)
※2 作戦実行にあたり、成功の暁には赤松家の再興を認めるという後花園天皇の綸旨と足利義政の御内書を得ていたとされる。神璽の奪還に成功したことにより、室町幕府は赤松氏の再興を許し、勲功として加賀北半国の守護職、備前国新田荘、伊勢高宮保が与えられた。長禄の変 - Wikipedia
南朝の皇統
南朝天皇
後醍醐天皇 1318 - 1339 南朝初代天皇
後村上天皇 1339 - 1368 南朝2代天皇
長慶天皇 1368 - 1383 南朝3代天皇
後亀山天皇 1383 - 1392 南朝4代天皇
後南朝
小倉宮恒敦 1410 - 1422 後亀山天皇の子
小倉宮聖承 1422 - 1443 小倉宮恒敦の子
金蔵主(尊義王、中興天皇、空因とも) 1443
後亀山天皇の弟(護聖院宮惟成親王)の孫?
後亀山天皇の子である小倉宮良泰親王の子?
後南朝初代、禁闕の変で死去
尊秀王(自天王) 1443 - 1457
金蔵主の子?
後南朝2代、長禄の変で死去
尊雅王(南天皇) 1457 - 1459
小倉宮良泰親王の子?
後南朝3代
西陣南帝 1471 - 1473
系譜不詳、小倉宮を称す
後南朝4代。以後、後南朝は史書より姿を消す。
- 昭和21年(1946)、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、名古屋市の雑貨商・熊沢寛道(くまざわ ひろみち)が南朝の正統な後継者であると名乗り出たと発表した。これをアメリカの雑誌「ライフ」や通信社などが大きく取り上げたことから日本の新聞社等も彼を「熊沢天皇」と呼んでもてはやしたが、やがて人々の関心は薄れ、昭和41年(1966)に膵癌のため死去した。熊沢の主張によれば、熊沢家の祖は後亀山天皇の孫にあたる熊野宮信雅王で、この人物は応仁の乱の際に西軍によって一時的に「新主」として擁立された西陣南帝(にしじんの なんてい)と同一であるとする。しかしながら、信雅王の実在については否定的な見方が多く、現在では、熊沢寛道は当時数多く名乗り出ていた「自称天皇(偽天皇)」の一人にすぎないとみなされている。
熊沢寛道 - Wikipedia
- 森茂暁著「闇の歴史 後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書 1997)」によれば、西陣南帝は、文明2年(1470)2月末、紀伊国有田郡の宇恵左衛門のもとで旗上し、3月8日に同国海草郡藤白に移ると郡のものがほとんど味方したとされる。文明3年(1471)8月には京の北野松梅院に入り、西軍諸将から「新主」として扱われていたが、文明5年(1473)になって東軍と西軍が和議を進めるに従い西陣南帝は西軍から放擲された。その後、文明11年(1479)7月19日に越後から越前に到達したことを最後に後南朝の後胤の消息は途絶えている。
- 前述の有田川町教育委員会による説明板では、義有王(よしありおう 円胤)は「後村上天皇の第六皇子であった説成(かねなり)親王の子」としているが、Wikipediaでは近年の研究の成果として「後村上天皇の第三皇子であった惟成(これなり)親王の子」である説が有力としている。これによれば、惟成親王は南朝系の世襲宮家のひとつである「護聖院宮(ごしょういんのみや)」の祖であるが、本文にあるように、文安4年(1447)に義有王が自刃したのを最後に護聖院宮家係累の人物は史料の上から完全に姿を消し、やがて南朝皇胤による皇位回復の夢も潰えることとなったとされている。
後村上天皇の皇子泰成親王の子円胤法親王は、還俗して名を義有王と改め、吉野の奥十津川に在ったが、その召しに応じた武士の中に、湯浅掃部助があった。湯浅党の末裔であろう。文安元年(1444)8月紀伊・和泉・大和の将士ら、十津川に兵糧を送り、入郷するものその数三千と称した。翌2年には楠木二郎正秀、湯浅掃部助その他恩地、和田らは吉野朝復興を志し、義有王を奉じて、山城八幡山に義旗を揚げ、畠山遊佐らの諸将の攻撃を受け、いったんはこれを撃退したものの、武家軍の追撃急なるために、楠木・和田・湯浅らの将士紀伊路に退いて、阿瀬川城(筆者注:あぜかわじょう 現在の有田川町杉野原)に拠った。文安4年10月佐々木高清、宇都宮褝綱らの大軍に攻められ、さらに湯浅城に退いて、残兵をここに集結した。しかも北軍の猛攻を支えることができず、12月23日ついに陥落した。湯浅・楠木の末族はことごとく戦死し、義有王もまた落命された。
- 前述の湯浅町誌でも引用部分の後で触れているが、江戸時代の歴史家・頼山陽(らい さんよう 1781 - 1832)が記した「日本外史(にほんがいし)」の「巻之五 新田氏前記 楠氏」の項に次のような記述がある。これによれば、楠木正成により天下に名声を轟かせた楠木氏も、この戦いに敗れたことで歴史から姿を消したとされている。
(国立国会図書館デジタルコレクション 「邦文日本外史」上巻より引用)
是より先、後村上天皇の子泰成(やすなり)、圓胤(えんいん)を生む。圓滿院(えんまんいん)の僧正たり。髪を蓄(たくわ)えて、名を義(よし)有と更む。
癸亥(筆者注:みずのとい 1443年)の難に、楠二郎の弟某、義有を奉じて兵を起し、八幡に據(よ)り、畠山氏の兵を迎え撃ちて大に之を破る。
細川氏、来り攻む。楠氏、利あらず。退きて紀伊に入り、湯浅の城に據る。
丙寅(筆者注:ひのえとら 1446年)の歳、畠山氏の将游佐(ゆさ)、来りて攻む。
楠氏、又撃ちて之を破る。
丁卯(筆者注:ひのとう 1447年)の冬、游佐、復兵を聚めて来り攻む。
城終に陷る。
義有害に遇ひ、楠某、之に死す。楠氏の事此に終る。復観る所なし。邦文日本外史. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
※筆者注:読みやすさを考慮して、適宜かなづかい、漢字等を現代のものに改めるとともに、改行、句読点などを追加した。
「貞観3年(861)3月勧請、吉見親王崇敬して之を祀る」とある。
吉見の里、宮の谷の神社の境内にある「陵の池」と言われし、方2間ばかりの小さなふき井、この池、里人等の言い伝えでは、吉見親王(義有王)の陵(筆者注:みささぎ 天皇の墓)なりと言われている。
祭日には、里人種々の花を供して、池に投げ入れし事から、現在は「花折の池」と呼ばれている。
義有王は、後村上天皇第六の皇子説成親王の御子、円満院円胤といわれている。
還俗名を「義有王」と称し、文安元(1444)年7月、時の将軍足利義成に抗して紀伊国北山にて挙兵。
その後、戦に敗れ文安3(1446)年湯浅城まで逃れて立て篭った。
城主湯浅氏を中心に南朝の遺臣等が頑強に戦った。
しかし、明けて文安4(1447)年管領畠山氏の軍勢の海と陸からの総攻撃を受け、同年12月22日遂に湯浅城は落ち、義有王も山田の里から吉見の里へと間道ぞいに落ちられた。
翌12月23日、里人等が、ふき井の側で高貴な方が自害されているのを見つけ、そのなきがらを「ゆかんどの森」に、ねんごろに葬ったと言われている。
時に、王41才であられたと伝えられ、お持ちになっていた鏡を、御神体としてお祭りしている。
*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。