生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

守が滝 ~金屋町(現有田川町)歓喜寺~

 町全体が山という感じの金屋には、滝が多く、それだけに滝にまつわる話も多い。

 

 明恵上人(みょうえ しょうにん)の幼少のころ。そのお守りをしていた娘が、上人のおむつを有田川で洗うと、洗い水が「南無阿弥陀仏」という字を描いて流れて行く。

 

何と偉大な人なのか」と、心をこめて育てていたが、ある日、ふとしたことから、笹の葉で上人の目をつく不注意をおかしてしまった。そのうち娘の姿が見えなくなったため、村人が、娘がいつも洗いものをする川へ行くと、水面に六字の名号が浮き、その底に合掌したままの娘のなきがらが横たわっていた。


 哀れに思った村人は、川のすぐ上の丘に「守塚」を建てて娘の霊を慰めるとともに、その渕を「守が滝」と呼ぶようになったという。いまもお参りをする人が多く、香花の絶えることがない。

 

(メモ:町の中心部、金屋地区から県道を南へ約2キロ行くと歓喜寺。ここに、上人の弟子、喜海が建立した歓喜があり、上品堂の阿弥陀如来坐像、下品堂の地蔵菩薩坐像は、ともに重要文化財。近くには鳥屋城跡もある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

明恵大橋から森ヶ滝橋を望む

 

  • この物語については、合併前の旧金屋町が編纂した「金屋町誌」に次のように記載されている。これによれば、「守が滝」は「」の名であるとされており、一般的な「滝」のように落差のある場所を指すものではないようである。

もりの滝の話

 歓喜寺の明恵上人誕生遺跡から吉原へ渡る橋が森ケ滝橋でその畔にもりの滝がある。
 明恵上人の幼いとき、お守りの少女についてのいい伝えがある。上人はみどり児の頃から非凡であったのか、めったに泣くようなこともなかった。守の少女が上人のおむつを有田川に出て洗濯をすると、洗い水は不思議にも「南無阿弥陀仏」という文字になって流れに漂うたといわれている。
 この少女は「このお子様こそ偉大なお人である」と精魂を傾けてお育て申し上げた。もしもこの子に万一のことがあっては申訳ないと心をくだいている折も折、上人を背負うているうち、ふと笹の葉で上人のお眼をついてしまった
 「さあ大変」と医者よ薬よとあらゆる手を尽したが、さて守の少女は見当らない。一体どうしたのだろうといつも洗濯に出る有田川辺にいくと、そこには「南無阿弥陀仏」の六文字とかの少女の姿が水の面にうつっている。もしやこの淵に身を投げたのでなかろうかと水底を探って見ると、哀れ少女の屍体は合掌の姿でありその姿に涙をそそぎ、このに「守が滝」の名をつけた。すぐ上の丘に「守塚」を建てその霊を慰めたが、今も香花が絶えないという。 

 

 

 

  • 明恵が9歳のときに両親が亡くなったが、叔父の上覚が京都の高雄山神護寺にいたことから、同寺で上覚や文覚(上覚の師)に学ぶ。その後、仁和寺東大寺尊勝院で学び、将来を嘱望されていたが、23歳で俗縁を絶って白上山(現:湯浅町栖原)で修行を行った。

 

  • 26歳の頃に山城国栂尾(とがのお 現:京都市に移ったが、すぐに白上に戻り、約8年間にわたって紀伊国内を転々としながら修行と学問の生活を送った。

 

  • 建永元年(1206)、明恵34歳のときに後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜され、同地にあった「度賀尾(とがお)」という古寺を改修して「高山寺」を開山した。

 

 

  • 白上山の麓にある施無畏寺(せむいじ)は、後に、湯浅宗重の孫景基明恵の従兄弟にあたる)明恵の修行地周辺を明恵に寄進して創建した寺である。同寺にある説明板には、明恵の行跡と同寺との関係について次のように記載されている。

明恵上人(高辨 こうべん)と施無畏寺

明恵上人は承安3年(1173)正月8日有田郡金屋町歓喜寺に誕生
父は平重国 母は有田の豪族湯浅宗重の四女であった
八才で母は病没 
父も源平の戦で上総国で戦死した
翌年叔父上覚上人を頼って京都高雄の神護寺に入り
真言 華厳を学んだが 
高雄の僧団生活にあきたらず
23才で郷里に帰り 
当地の白上山頂の巖上に草庵を結び
両3年の間 寝食を忘れて修行され
続いて有田郡内各地で練行された
(現在 明恵紀州八所遺跡 - 筏立歓喜糸野神谷
      崎山星尾西白上東白上 - として残っている)
後 
34才で京都 尾高山を開かれ
華厳宗興隆の道場とされ
寛喜4年 同寺で示寂された
上人は学徳一世に高く釈尊の古を慕い
戒律を重んじ 純真無垢にその生涯を貫かれ
華厳宗の中興と仰がれた
世俗の面でも和歌をよくし
栄西から贈られた茶の実を宇治に植え
茶の祖となられ
承久の乱には執権北条泰時に政治家としての道を教え
官軍の妻妾のために善妙寺を創建された
施無畏寺は寛喜3年4月17日
湯浅一族の藤原景基(上人の従兄弟)が
上人修行の地 白上山を施入して 禁殺生を誓い
精舎を建立して 上人を開山と仰ぎ
無畏(おそれなし)を施す寺として施無畏寺と称した
創建時代は六坊を持つ大寺であったが
天正の兵火で伽藍を失った
什宝の中 置文 施入状 は重要文化財
白上遺跡卒塔婆史跡に指定されている

 

  • 明恵上人生誕地は、有田川町勧喜寺(かんぎじ)の森ケ滝橋の東岸近くにあり、「吉原遺跡」として国指定史跡となっている。橋名の「森ケ滝」は「守が滝」に由来すると思われ、本文の物語はここが舞台になっていると考えられる。

    吉原遺跡(国指定史跡)/有田川町

 

 

  • 現在、明恵上人生誕地の地名となっている歓喜(かんきじ)は、ここに建立されている寺院の名称でもある。寺院としての歓喜寺は、寛和2年(986)恵心僧都源信(えしんそうず げんしん 親鸞が選定した七人の高僧の一人に数えられる)が創建したと伝えられるが、後に衰退し、建長元年(1249)明恵上人の高弟であった喜海湯浅宗氏の協力を得て再興した。国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像及び地蔵菩薩坐像をはじめ、明恵上人坐像明恵所用と伝わる礼盤(らいばん 本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)など上人ゆかりの品も伝えられている。歓喜寺について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」では次のように記載されている。

かんきじ 歓喜(金屋町)

有田郡金屋町歓喜寺にある寺。浄土宗。
聖衆来迎山恵心院と号す。本尊は阿弥陀如来
江戸中期成立の聖衆来迎山歓喜寺縁起によると平安期の浄土信仰に大きな影響を与えた恵心僧都源信が寛和2年熊野詣での途次、有田川の流れに九品の浄土を感得し衆生済度を祈願して創建、花山院勅願所になったという。
寺内には上品堂・中品堂・下品堂があり、下品堂には伝源信作で平安中期の木造地蔵菩薩坐像(国重文)を安置、かつては石垣千体仏も安置していたと伝え、鎌倉期以前の浄土教の当地への浸透を思わせる。
しかし、前身寺院の存在を明確にする記録・遺物は伝わっていない。
当地は「高山寺明恵上人行状」に「紀州在田郡石垣庄吉原村誕生」とあるように華厳宗中興の明恵(京都高山寺開山)の生地である(大日料5-7)。
このため明恵没後の建長元年ごろ、弟子喜海宣陽門院後白河天皇皇女)に申し入れ吉原を別納不輸の地となし、湯浅宗氏の援助で1宇を建立、釈迦如来を安置し歓喜と称したという(施無畏寺文書/県史中世2)。
宣陽門院は石垣荘の本所で明恵に深く帰依していたようで、明恵入滅の直後追善供養を行っている(定真備忘録/大日料5-7)。
明恵が湯浅党の精神的な支えであったため、当寺は宗氏以来湯浅党の帰依を受け発展する。

 

  • メモ欄中「鳥屋城(とやじょう)跡」とあるのは、鎌倉時代末期~南北朝時代初期頃に湯浅宗基によって築かれた城の跡を指す。これについて、「角川日本地名大辞典(上述)」の「鳥屋城山」の項目では次のように記載されている

とやじょうざん 鳥屋城山(金屋町)

有田郡金屋町にある山。標高300m。
長峰山脈の1支脈が、北の伏羊二川断層と南の金屋長谷川断層間を、清水町二川付近から西走し、金屋町中井原で平地に連なる所にある。
山頂からは有田川・有田平野を一望でき、古来軍事上要害の地として重視された。
鎌倉期~南北朝期にかけて、有田の地で覇権を握った湯浅宗重の孫宗基石垣城を築城したという。
室町期の応永8年、紀伊国守護畠山基国の弟満国が同城跡に外山城を築き、以後外屋(とや)鳥屋城と称され、天正13年の豊臣秀吉紀州攻めに至る180余年間、畠山氏の居城となったと伝える。
山頂には、本丸・二の丸・三の丸跡の他、石垣・濠の跡・井戸の跡が残り、本丸跡付近には洞窟があり、近くに一石五輪の墓碑が2基残る。
数年前まで、本丸跡付近に3本の大きな老松があり、県天然記念物に指定されていたが、マツクイムシによって枯死した。
当山一帯は、鳥屋城層と呼ばれる日本の白亜紀を代表する有名な地層で、厚さ1,100mにも達する。
この地層は、泥質細砂岩または細砂質泥岩で構成され、団塊を多く含み、アンモナイト類、イノセラムシ・トリゴニア・ウニ等の標準化石に富んでいる

 

  • 平成18年(2006)、鳥屋城山で大型動物の骨の化石が発見された。発掘調査の結果、モササウルスと呼ばれる海生爬虫類の一種であることが確認され、国内初となる後脚の骨化石をはじめとしてモササウルスとしては日本一の保存部位数であるとともに、世界的レベルでも貴重な化石であることが判明した。
    和歌山県立自然博物館 モササウルス発掘プロジェクト
    モササウルス | モササウルス発掘プロジェクト|和歌山県立自然博物館

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。