有田川の支流、修理川を上っていったところに、ひとつの滝がある。それほど大きな滝ではないが、道路からも見渡せる。かつて、ここで行をする人も多かったが、いまではもう、そんな風景は見られなくなってしまった。
昔。この滝の上手の「岩の硲」というところに、一人の老女が住んでいた。やせた土地なので、老女は緒を編み、里の人に食事をさせてもらうと、それをお礼に渡していた。だが横柄な性格から、人々が持てあまし、ついに若者が撃ち殺してしまった。
ところが、流れる血はとどまることを知らず、滝は、血の滝に変ったという。その恐ろしさから、土地の人は「姥ケ滝」と名付け、いつまでも霊魂をしずめようとしたとか。
食物をお供えすると願い事がかなうという。
(メモ:有田鉄道の終点金屋口駅のある徳田から、国道424号線へ右折して約7キロ。)
- この物語については、合併前の金屋町が編纂した「金屋町誌」の「第八編 民俗」の項に次のように記述されている。
修理川の姥ケ滝
塔の峯を越えて修理川上村へ下って行くと、姥ケ滝がある。昔、この辺は裕福な所ではなかった。滝の上手に岩の硲という所がある。
昔、この岩の硲に一人の老女が住んでいた。彼の女は緒(筆者注:お 細ひものこと)を編んで売り歩いていた。これとて大した収益もないので食わせて貰って、その礼に緒を渡すといった方が適当という生活振りであった。しかし、こんなことも長続きはしなく、食うことだけになってしまった。しかもすごい大食家であった。
物乞いに違いないのだが、これはまた物乞いさはなく横柄で近所の人々ももてあました。もともと豊かな土地でないので、ある若者は「よし俺が村のために殺してやろう」と心に誓ってとうとう老女をうち殺してしまった。ところが断末魔の老女の顔の物凄いこと、まるで人間とは思えず妖怪そのものであった。タラタラ流れる血潮は止まるところを知らず、この滝は血の滝に変わったということである。その恐ろしさからこの霊魂を鎖めようとお紀りしたのが姥滝様である。姥ケ滝と名づけたのもこの時からである。
この姥滝様は何でもよい食物をたくさんお供えして願い事をするとかなえてくれるそうである。時々、この滝で行をする白衣の姿を見るが、なかなか立派な滝である。往来からすぐ見えるよい滝である。
(筆者注:時代背景を考慮して一部の表現を改めた)
- 修理川(すりがわ)は、旧金屋町南部の集落で、かつては石垣荘(いしがきのしょう)に属していた。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」によれば、石垣荘の地名はその地形に由来するとし、次のように記述している。
石垣古称を伊婆賀幾(いはがき)なるべし
(萬葉集に石垣淵(イハカキフチ)といひ
古今集に石垣(イハガキ)紅葉なといふ詞ありて
伊婆賀幾と称(とな)へて
皆 石巖の壁立して立囲みたるをいふなり)
今 伊志賀幾と唱ふるは古称を失ひしならん
此地四面何れの山も石巖屹立し
立ち囲みたる處多し
これに因りて其名起れり
修理川村
村居三に分れ 各小名あり 上村 中村 下村
田畑高 422石8斗1升4合
家数 76軒
人数 383人
松原村の南十町にあり
在田川(筆者注:有田川)の南崖にて別に一渓をなす
村名三に分かる
中村 在田川の南崖の谷口にあり
これを本村とす
上村 その谷奥にあり
下村 在田川の川端に散在して本村の西にあり
別に經谷といふあり
小谷にして本村の坤(筆者注:ひつじさる 西南)にあり
村領 東は宇井村に至り
西は糸川村に至りて
大抵亘り二里許(ばかり)なり
- 姥ヶ滝については不詳。
- 修理川にある滝としては「白馬の滝(しらまのたき 別名「純白(どじろ)の滝」とも)」が比較的良く知られている(上記googlemap参照)が、所在地としてはここは「修理川」ではなく「宇井苔」地区に属する。
- 白馬の滝の近傍には祠があるが、この祠が「姥滝様」と呼ばれるものかどうかは不明。
- 資料によっては、「白馬の滝」の読み方を「しらんばのたき」としているものがあり、「うばがたき」と類似しているとも考えられる。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。