生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

蚕の神さま ~清水町(現有田川町)沼~

 ひと昔前まで、紀州でも有数の養蚕地だったらしく「蚕神の碑」が残っている。いまでは養蚕農家も減って、碑のことを知る人も少なくなった。

 

 昔むかしのお話。ここの庄屋の娘が恋仲になった。しかし庄屋はとても許せず、馬を殺して皮をはぎ、板に打ちつけておいたところ、風が吹いて、皮は娘を横抱きにしたまま大空へ舞い上がってしまった。


 数日後、天からいままで見たこともないが落ちてきた。よくみると、体に馬のヒヅメの跡が付いている。そこで、娘と馬が結ばれて地上に帰ってきたと思いこんだ庄屋。木の葉を与えると、ぐんぐん大きくなる。やがてこの虫のマユをつむいで織物を作ることを考え、以来、村は栄えた。それがだったという。

 

 蚕祖神のお祭りの夜は、みんなが集まり、こんな話をしながら、蚕神さまにごちそうを供えたというが、それももうすっかり昔の話になってしまった。

 

(メモ:野上町から生石高原を経て清水町へ下る途中。頂上付近の三叉路から約5キロ。有田川を堰き止めた「二川ダム」にも近い。町の中心部、清水まで7キロ。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

蚕神碑が建立されている白山神社周辺

 

  • この物語については、合併前の清水町が編纂した「清水町誌 下巻 別冊」において次のように紹介されている。

蚕神

 沼の古老の話では、蚕を飼う家では“蚕祖神”と書いた掛け軸を床の間に掛け、仲間が寄って養蚕の無事を祈ったという、そして蚕についての昔話を繰り返し、蚕神にお供えをしたそうだ。

 大昔、乗馬がたいそう好きな庄屋がおり、その庄屋にはきれいながいた。困ったことに庄屋が飼っていた一頭の立派ながこの娘に恋い、娘もまただんだんと馬の恋心を受け入れるようになった。怒った庄屋はとうとう馬を殺してしまい、その皮を板に打ち付けた。すると大風が吹き、馬の皮が娘を抱えて空高く舞い上がった。その後、体に馬の蹄の跡がついた不思議な虫が空から落ちてきたそうだ。百姓たちは、「これはきっと娘と馬が結ばれて地に帰ってきたのだ」といい、天から落ちてきた虫を“”と呼んだ。そして、この虫は桑を食べ、脱皮し、繭を作ることに気づき、糸をとって織物を織り始めたという。 

 

  • 人間の娘が馬と結ばれて、それが養蚕のルーツに繋がるという物語は一般的に「馬娘婚姻譚」と呼ばれ、中国の古い説話集にある物語とされる。これについて、「馬娘婚姻譚の日中比較専修大学 樋口淳、漢和経済文化学院 陶雪迎)」によれば、その概要は次のとおりである。

馬娘婚姻譚」は、『捜神記』や『法苑珠林』など中国の古い説話集に見られる話である。あまり長い話ではないから、『捜神記』にそって簡単に紹介してみよう。

むかし、ある大官が遠方に出征し、がひとり家に残された。
家には、牡馬がいて、娘は大切に世話していたが、父親が恋しくて、馬にむかって戯れにいった。
お父様を連れて帰ったら、お嫁さんになるよ
馬は、この言葉を聞くと、手綱を引きちぎり、父親のところに走った。
父親は驚き喜んだが、馬の悲しそうな鳴き声を聞き、
家に異変がおこったのではないか
と急いで馬を走らせて帰った。

そして畜生の身ではあるが、たいした真心だと関心して、秣(まぐさ)をあたえたが馬は見向きもしない。
ただ、娘を見ては、喜んだり怒ったりして身をふるわせ、足を踏み鳴らす。
これがいつまでも続くので、不審に思った父親が尋ねると、娘は馬との約束を打ち明けた。
父親は「家門の恥になる」といい、馬を射殺して、皮をはぎ、庭に干した。

ある日、娘が庭で
畜生の分際で人間を嫁にしようなどとするから、皮をはがれるのだ
と、ふざけて馬の皮を足でふむと、馬の皮は立ち上がり、娘を包んで天に飛び去った。

数日後、庭の大木の枝に娘と馬の皮が発見された。
いずれもと化して、糸をはいていた。
その作る繭は普通の蚕とは違って糸の捲き方が厚く大きく、隣の女房が枝からおろして育てたところ、通常の繭の数倍も糸が取れたという。
そこで、その木は「喪」と同じ音をもつ「桑」となづけられた。その後、人々は競ってこれを育て、いまに至っている

この話は、日本においても広く伝承されているが、その分布を検討してみても、それほど古い話とは思われない。おそらく、農村に養蚕の普及した江戸期以降のことであろう。

(略)

日本における養蚕の歴史は古く、記紀神話のみならず、「倭人」にも「禾稲・紵麻を植え、蚕桑・緝績し、細紵・縑緜を出だす」という記録がある。
しかし生業としての養蚕は律令制とともに衰え、商品作物として本格的に復活するのは江戸時代以降のことである。
「馬娘婚姻譚」が、日本に受容されたのもおそらくは江戸時代で、今野円圓輔は、林羅山の『怪談全書』に紹介された「馬頭娘(ばとうろう)」あたりが最初ではないかと推測している。

専修大学名誉教授 樋口淳氏のWebサイト
http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/EastAsia/IndexEastAsia.html
東アジア地域研究の展開 「中国と日本の馬娘婚姻譚」

 

  • 中国発祥の「馬娘婚姻譚」は、日本に入った後に東北地方の「オシラサマ」信仰(桑の木などの棒に服を着せて作る男女・人馬・僧侶などの姿をした二体一組の人形で、東北地方では「家の神」として祀られる)と結びいたようで、民俗学者柳田国男が記した「遠野物語(とおのものがたり 1910)」の一遍「オシラサマ(69話)」では次のように語られている。

昔ある処に貧しき娘あり。
妻はなくて美しき娘あり。
また一匹の馬を養ふ。
娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦に成れり。
ある夜父此事を知りて、其次の日娘に知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。
その夜娘は馬の居らぬより父にたずねてこの事をしり、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首にすがりて泣きゐたしを、父は之を悪みて斧を以て馬の首を切り落せしに、忽ち娘はその首に乗りたるまま天に昇りて去れり。
オシラサマと云うはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像をつくる。

岩手県立博物館 展示室のご案内 オシラサマ
展示室のご案内|岩手県立博物館 

 

  • 遠野物語」は、在野の研究者であった佐々木喜善(ささき きぜん 1886 - 1933)が収集した物語を柳田国男がまとめたものであるが、佐々木が後に出版した「聴耳草紙(1931)」には、柳田によるオシラサマ」の後日譚として、天に昇った娘が両親の夢枕に立ち、桑の葉を蚕に食べさせて絹糸を取る方法を教えたとの物語が加えられており、中国の説話と同様に養蚕の起源譚となっている。

 

  • 旧清水町(現有田川町清水)地区における養蚕について、「清水町誌」によれば、鎌倉時代にあたる12~13世紀の阿氐河荘(あてがわのしょう 概ね旧清水町にあたる荘園の名称)の状況について次のような記述がある。これによれば、推測が多く含まれるものの、この地域では10世紀ごろから養蚕、製糸、織布などが稲作よりも重要な産業であったとされている。

阿氐河荘の養蚕

これまで述べてきた阿氐河荘民の生活は、その立地条件から見ただけでも辺境の農地による収穫の少なさと貧困の日常を容易に想像させるが、それでも、その生活を大きく支えたものがまったくなかったわけではない。それは養蚕に基づく絹や綿などの生産物であリ、その生産活動は阿氐河荘の農民たちにとっては、農耕よリ重要な主業であったものと考えられる。
 平安時代から阿氐河荘の年貢は「米」ではなく、養蚕による「絹」であったという記録も残されているし、その加工品である糸、布なども以後の荘園支配者に貢納する年貢公事の主たるものになっているのである。山問僻地の不安定な耕地から収権する米よリ、養蚕による安定した生産物を年貢とした方が、支配者にとっては有利だったのだろう。
 このように考えると、阿氐河荘における養蚕の起源が問題となってくるが、これを明らかにしてくれる史料は、ほとんど残されていない。しかし、すでに十世紀の初めごろの「延喜式」の中には、「紀伊国は、伊勢・美濃・阿波などの諸国とともに、上糸国に属している」という意味の記述があるので、阿氐河荘の養蚕も「紀伊国の上糸国」の一翼をになっていたかもしれないと考えられるのである。
 また、いま一部がかろうじて残っている阿氐河荘の検注目録をみると、建久4年(1193)の上荘(筆者注:石垣上荘のこと、後に阿氐河荘と呼ばれるようになった)の検田目録の中に「桑1890本」とあリ、柿や漆にくらべて圧倒的に桑の木が多いことが記されているのも、養蚕の盛んな阿氐河荘ということに結びつけられないこともないだろう。
 いずれにしても、阿氐河荘では養蚕・糸とり織布といった一連の製造が行われていたことはたしかであり、これら作業が女性の労働であったところから、荘内における女性たちの貴重な労働力がしのばれるのである。

 

  • 同じく「清水町誌」では江戸時代の養蚕について次のように記述しているが、どの程度の生産量があったかは不明としている。

養蚕の隆盛

 養蚕がいつごろから山保田(筆者注:阿氐河荘が後にこう呼ばれるようになった)で行われていたか不明であるが、杉野原「御田舞」(鎌倉期成立か)に、「春の算用は蚕(こがい)が八たび」という詞(ことば)がある。「慶長六年御検地帳 元禄十年(1697)改」で旧安諦地区を見ると、杉野原・押手に桑がなく、井谷は桑37束・3斗7升、板尾は15束・1斗5升、沼田は2束・2升となっている。
 後年、養蚕・製糸の中心地となった二川が、当時はわずかに24束で、検地帳時代には桑の栽培は、井谷が最も多かったようである。
 文化年間(1804 - 1818)に二川の堀川定右衛門が、沼の沼外記右衛門、楠本の薮友七北垣八九郎などが養蚕を奨励し、大坂より蚕種を取り寄せるなどして改良に努めた(「南紀徳川史」)。
 江戸末期の弘化2年(1845)の文書に、桑苗の斡旋についてのものがあり、単価は一本8分くらいだと記されている。
 また、表18にまとめたような植付帳が残されている。(筆者注:表18は省略)
 弘化2年の文書は、棕梠や肉桂の特用作物を空き地などに植え付けているが、御国産養蚕糸という大事な仕事に携わるものは、そのような事に迷ってはならないという達しが出ている
 養蚕製糸のさかんであった二川では、すが(釣り糸)も作っていたようで、とくにてぐすと呼ばれるものは山繭の虫体から出した絹糸腺を酢と食塩水の中で引き伸ばして製造するもので、透明で強度の高いものである。そのすが糸の値段などの代官所よりの問い合わせ文も残されている。
 山保田組では作間稼ぎとして、養蚕がかなりのウエイトを占めていたのであろうが、数量化された記録が残されておらす、生産流通の形態も不明である。 

 

  • また、「清水町誌」の別項では近代の養蚕について次のように記述しており、昭和31年(1956)に「蚕神」の碑が建立されたとしている。しかしながら、この記述によれば同地の繭の生産量は県内では特に多いとは言えなかった模様である。

 当町域は慶長6年(1601)の検地帳に桑が楮とともに取り上げられている。原始的な方法ながら養蚕が行われていたことは確かである。
 文化年間(1804 - 1818)に大坂から蚕種をとりよせて本格的に養蚕が行われるようになったといわれる。
 明治2年ごろ、野田四郎(現吉備町)田中善左衛門(現有田市らが郡内の養蚕の振興を促したが、効果はすぐに現われなかったようである。
 藩庁(県)開物局も、武蔵秩父(現東京都)岡部八郎を雇い入れ、桑苗の増殖に努めてきた。
  明治六年五月 管下婦女六名を上州群馬県富岡製糸場ニ遣シ、養蚕術ヲ習ハシム。
  九年一月 和歌山北新町五丁目長谷川甚兵衛等二十四人相図リ先ニ頒布セラルル所ノ蚕種製造組合条例ニ基キ一社ヲ結ヒ、蚕種ヲ製造セント請フ、是日之ヲ許ス。
県史近現代史料五によると、右のような養蚕についての動きがあったようで、当町域も本格的に取り組み始めていったのであろう。
 さらに明治34年以後3年間に、有田郡農会は旧八幡、城山村等で、長期の養蚕講習会を開催、受講者は200名を超えたという。
 「-爾来(養蚕業が)漸次発達し、近年益々多く講習会又は品評会を開き-大正4年「有田郡誌」)というようになってきている。
 江戸期から有田川下流域では「みかん」を、さらに大正以後になって「除虫菊」が栽培されるようになって、換金作物があったが、山間部の当町域では耕地も限られており、楮や茶を畦畔や山際に植えるくらいのものであった。しかし、大正期に入って、畑本地へ桑を植えこみ「桑園」とする農家が現われるようになった。
 西八幡、城山、岩倉あたりが養蚕の中心地となり、山間部の「換金作物」に定着したのであった。
 養蚕は短期間であるが、とくに上蔟(筆者注:じょうぞく 成熟した蚕を、繭を作らせるため、蔟(まぶし)と呼ばれる蚕具に移動させる作業)期が超多忙で、大正3年6月に城山東小学校は、5日間の「蚕休み」をとったと記録されており、学童も労働を求められたのであった。
 明治43年の県の収繭量は1万7485石で、うち有田郡はわずかに4パーセントの生産であった。しかし、この郡計の過半数が現町域の生産であった。
 明治23年二川安楽寺に「養蚕碑」を建て、養蚕、製系の発展を析った。昭和31年、沼地区は「蚕神」の碑を建てた(現在 白山神社近くにある)

 

  • 本文にある「蚕神の碑」は、上記引用文にあるとおり昭和31年に建立されたものである。この碑について「清水町誌」では次のように記述しており、同地の養蚕組合が知事表彰を受彰した記念として建立されたものであることがわかる。

沼の蚕神碑

1 所在地 清水町沼 白山神社馬場脇
2 概要  [本塔] 高さ175センチ 最大幅74センチ 厚さ13センチ
      [基壇] 高さ54センチ 幅120センチ 奥行き 120センチ
      (正面) 蚕神
             和歌山県知事 小野真次書
      (背面)        中村満義
                   松田敏郎 祀之
             知事表彰記念
                   養蚕組合
               昭和三十一年十月
                   松本喜代一
基壇正面銅板(29センチ×19センチ)に昭和56年に現在地に移した旨を記している。

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。