生石高原の麓から

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井戸杉 ~清水町(現有田川町)清水~

 江戸時代、幹まわりが10メートルもある大杉があり、そのそばに「井戸の唐石」という、大きな石があった。ある夜、その石が掘り返されていたので調べると、石の下から大日如来の石像が出てきた。早速、安置したが、その跡が大きな井戸になり、どんどん水がわき出したという。

 

 この水は稲の害虫退治によく効き、飲むと病気やヒフ病も治るということで大人気。付近の人はもちろん、遠く和歌山などからかけつける人もいて、井戸の周辺は、水を求める人で長い行列が続くありさま。そこでとうとう「水は一人竹筒一本分」と制限するほどだったとか。


 しかし、いつのころからか、井戸はコンクリートの池になり、県内で一番大きいといわれた杉も切り倒されてからは訪れる人も少なくなってしまった。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

八幡神社有田川町清水)

 

  • この物語については、合併前の清水町が編纂した「清水町誌 下巻 別冊」において「宮の湧き水」の題名で次のように紹介されている。

宮の湧き水

 昔、天明のころ(筆者注:1781 - 1789)清水八幡社井戸杉と呼ばれる杉の根本のところに唐石と伝えられる大きな石があった。この大石が夜中に何者かによって掘り起こされ、次の日、掘り跡を見てみるとそこから石で作られた立派な大日加来が出てきた。この如来はすぐそばの大日堂に安置されたが、その大石跡の穴がだんだんと大きくなって井戸になり、きれいな水がどんどん湧き出した。しかもこの水は、稲虫退治や皮膚病、腹中の病気にもよく効くというので、遠くは和歌山からも大勢の人が頂きに来て長い行列ができるほどだった。ある者は、この水で口をすすぎ、手や顔を洗っている間に、アザがすっかりきれいになったのだという。この話が知れ渡り、ますますお参りの人が増えたので、宮役人は一人に竹の筒一本分だけを汲ませることにし、さらに見張りまでつけるほどの盛況ぶりだったという。

 

  • 井戸杉」について、同じく「清水町誌」上巻の「町内の巨木」の項に次のような記述がある。

 清水の八幡小学校の校庭わき、八幡神社境内の一部に湧水井戸があった。この井戸に接するくらいの位置に老杉の大木があり、井戸杉と呼んで清水のンンボルの一つであった。幹部が大きな洞穴になっていて、明治生まれの人たちが子供のころ割れ目入口から入って遊んだという。また、昭和初期には洞穴は学校のホウキ置き場になったものである。しかし残念ながら昭和37年に伐り倒されてしまった

 

  • 旧町名として用いられた「清水」という地名の由来について、「清水町誌」では、「風土記御調に付書上帳(1808 「紀伊風土記」を作成するために各地の庄屋が作成した基礎資料)」の記述に基づいて以下のように考察しており、「八幡神社の境内にあった湧水」または「有田川の清流」が地名の由来であろうとしている。ちなみに、上記の「宮の湧き水」の伝承によればここに水が湧いたのは天明の頃(筆者注:1781 - 1789)とされているが、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「清水村」の項によれば、応永20年(1413)の年紀のある清水寺恵比須像台座裏墨書に「紀州有田郡清水村」との記載がありこの時期に既に「清水」の名称が使用されていたと思われることから、湧水が地名の由来であるとすれば、その湧水が生じたのは天明年間よりもかなり早い時期だったのであろう。

[続風土記御調に付書上帳]
  八幡宮社地ニ井水有ルかゆへ清水といふ歟(か) 
  又 大川(有田河)流清きに随ひ清水と名ある歟(か)
清水と呼ぶのは、書き上げ帳の説が事実に近いのではないだろうか。立券当時、すでにシミズと称する土地があり、そこに寺ができて、清水寺(せいすいじ)と号したのだろう。清水(寺原)は、西原・湯子川と相対していたが、清水寺八幡神社もここにあるということは、やはり中心地となっていたのだろう。

 

  • 上記引用文中にある清水寺(せいすいじ)八幡神社に隣接する寺院で、江戸期には八幡神社別当(神社を管理するために置かれた寺院)となっていた。「清水町誌」によれば、空海発願寺の別院と伝えられるものの、縁起や記録がないため、成立等については不明とのこと。ただし、前述の「宮の湧き水」に記載のある「大日堂」については、「承久・建保(1213 - 1222)のころ、高野山の大衆が下山して当寺に来、本山勧学院に擬して約半年間集会を持ち、大日堂を建立した」とあることから、これより以前の成立であることは間違いないと思われる。

 

 八幡宮は、応永年間(1394 - 1428)山城国石清水八幡宮の勧請にかかる古社と伝えられるが、その創祀年代は明らかでないが、社殿敷石に応永20(1413)年の証がある。
 八幡宮の壇場は、もともと現在の地より西隣の宮川村柳の地に在ったが、室町時代の永禄年間(1558 - 1570)、土地の豪族保田山城守長宗ここ紅葉山に居城を構築のみぎり、その守護神として宮川村から城内に奉遷したものとされる。
 これよりこの城を八幡城俗に清水城、別の名を紅葉山城と称した。
 その後20数年を経て天正年間(1573 - 1592)、城主保田重宗の時八幡城没落、居城並びに八幡宮共に兵火に罹り焼失したのを、慶長8(1603)年卯11月、浅野紀伊守長晟の臣、亀田大隅守高綱がこの社を再建した。
 現一間社流れ造り檜皮葺きの社殿は、江戸中期の建造である。
和歌山県神社庁-八幡神社 はちまんじんじゃ-

 

  • 八幡神社を再建したとされる亀田大隅守高綱(かめだ おおすみのかみ たかつな)は、戦国時代の武将で、後に紀州藩浅野家の家老となった人物。浅野家が広島へ移った後、論功をめぐって同じく家老の上田重安(宗箇)と争って浅野家を去り、天野(現在のかつらぎ町で隠棲した。かつらぎ町には「亀田大隅守顕彰碑」がある。

亀田大隅守顕彰碑

 亀田大隅は、戦国時代の武将で賤ケ岳(しずがたけ)関ヶ原大坂冬・夏の陣に参加し数々の武功をたてた人物で、浅野家紀州三十七万石の城主になった時、七千石の家老して仕えました。
 その後、浅野が広島に転封されたに伴い、東条城一万石の城主となりましたが、上田宗古と対立し、浪人となり隠遁(いんとん)し、後、寛永三年(1626年)天野のこの地に移りました。高野山花王院の復興天野の開発に尽くし、寛永十年八月十三日に亡くなりました。
 この碑は、その孫たちにより建てられた顕彰碑です。
和歌山県かつらぎ町 天野の里 史跡 文学の碑他

 

  • 八幡神社の北側の山上に「清水城跡」がある。これについて、「清水町誌」では次のように記述されており、延文5年/正平15年(1360)のいわゆる「第二次龍門山の戦い」に敗れた南朝方の四条隆俊らが逃れてきた「阿瀬川城」にあたる可能性があるとしている。

 南北朝時代に創築されたもので別称を紅葉山城八幡城あるいは阿瀬川城ともいわれるが、文化7年(1810)の「山保田続風土記」には「紅葉山八幡城」とあり、近世初頭 保田左助知宗の居城として築いたと記されている。それ以前には、延文5年(正平15年、1360)、南朝方の四条中納言隆俊塩屋伊勢守らが龍門山の戦いに破れ、阿瀬川城に逃れてきた。それがこの城であるといわれるが、中原の大城だとも言われ定かではない

筆者注:上記では四条隆俊とともに塩屋伊勢守も阿瀬川城に逃れてきたとしているが、別項「塩塚のいわれ」で詳述しているように、「太平記」等では塩谷伊勢守は第一次龍門山の戦いの際に敵を深追いしすぎて落命したとされている。
塩塚のいわれ ~桃山町(現紀の川市)最上~ - 生石高原の麓から

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。