生石高原の麓から

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身代り如来さま ~御坊市御坊~

 御坊市の中心街にある浄土真宗本願寺「日高別院」の本尊は、別名「身代り阿弥陀如来」。高さ96センチ。寄木造りのこの像のノドより少し下の部分、胸の中心線にちょっとした穴がある。直径1.5センチ、深さ2センチ足らずのこの小さい穴が、この地方の人たちと日高別院との結びつきを語るという。

 

 天正13年(1585)、秀吉紀州攻略で、陸と海の二方面から攻められた御坊亀山の城主・湯川直春は、城と小松原の坊舎を焼いて熊野へおちのびていった。このとき、目ぼしい神社、仏閣は手あたりしだいに焼き払われたが、吉原坊舎にあった本尊の何弥陀如来は、一族とともに熊野に逃れて無事だった。


 翌年、本尊を持ち帰り、仮堂をつくってまつっていたが、10年ほどして、なぜか姿を消してしまった。「さあ大変だ」と信者たちが探し回ると、有田の方にあることがわかり、すぐに取り戻そうということになったが、警戒が厳しすぎて近寄れない。


 このとき、糸田九左衛門という男が単身乗り込み、像を持ち帰った。追手に無数の矢を射かけられた九左衛門。
 「もう命はないと思うたのに。よくぞ帰られたもんだ
と、背負っていた仏像を下してみてびっくり。如来さまの胸に矢が突っ立っていた。 「ああ、もったいない。人間の身代りになって下さるなんて
ということで、いまも厚い信仰の対象になっているそうな。


 九左衛門のこのときの功績が認められ、のち大庄屋になった糸田家は、その後は年末になると、必らず別院へモチ米をお供えする。そして、別院側も、正月明けに鏡モチを送り返すという「厚い友情」が続いている。

 

 さて、日高別院の起こりだが、これは天文元年(1532)に湯川家十一代の直光が、いまの美浜町吉原坊舎を建て、本願寺へ寄進したのが、はじまりという。
 永禄5年(1562)5月20日、直光が河内の国・教興寺で討ち死に、嫡男・直春が勢力の拡大を図ったものの、紀州攻めで吉原坊舎を失った。そこで天正14年、薗浦椿原(現御坊市元町付近)に仮堂を建立、文禄4年(1595)に本願寺の有力な門徒らの尽力で、現在地に移され、土地の人々が「日高御坊」とか「御坊様」と呼んで親しんだのが「御坊」の地名の起こりという。

 

 その別院生みの親、湯川さんをしのぼうと昭和56年、全国から湯川姓の人たちが日高別院に集まって「湯川会」が結成された。ノーベル賞の故湯川秀樹博士夫人のスミさんも、会員に名を連ねている。毎年、5月20日の直光の命日に集まるという。湯川の名は、御坊市内の町名や学校名にも残されている。400年たったいまも、なお親しまれる湯川氏と如来さまということができるだろう。

 

 ところで御坊には「おみどかい」(御堂会)というのがある。別院周辺の人たちが中心となってつくったもので、信者だけでなく、他宗派の人たちも入っている。宗派に関係なく、別院とともに育ち、生活してきた人々の「オラが別院を大切にしよう」という気慨だ。掃除の手伝いはもとより、大みそかには、かがり火をたいて「除夜会」も催す。会員の中には、東京や京都在住の人も多く、百八つの鐘をつけない人さえ出るほどだ。

 

 参考までに記すと、御坊地方は真宗の寺院を中心に形成された、典型的な「寺内町」(じないちょう)だ。旧御坊町六力寺は、そろって浄土真宗にまとまり、周辺で多くの宗派が乱立していたのとは対照的。和歌山県文化財保護審議会小山豊さんは「県内で最も早くから浄土真宗を受け入れていたこの地方が、湯川氏の後押しでさらにはずみをつけたといえる。湯川氏滅亡後も、新たに建立した坊舎が「御坊様」としてあがめられた結果ではないでしょうか」といっている。

 

(メモ:国鉄紀勢線御坊駅から南へ徒歩約20分。本堂は文政8年(1825)の再建。寛永12年(1635)以降、西円寺と称したが、後に寺号を失って本山出張所となり明治10年別院の称号を許された。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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紀伊国名所図会 後編五之巻 日高御坊
国立国会図書館デジタルコレクション)

  • 日高別院の前身となる「吉原坊舎」の成立について、御坊市が編纂した「御坊市」では次のように記述されている。

本願寺日高別院
  所在地 御坊106番地

(1) 吉原道場の誕生
 享禄、天文の頃、亀山城湯川直光は先に本願寺第10代証如の親教をうけ深く真宗に帰依、剃髪して政岸入道と号した。享禄元年(1528)細川三好両軍が不和対立した時細川勢に加わり河内に出陣奮戦したが数日後敗れ、その兵の大半を失った。そこで山科本願寺下間刑部法橋を通じて証如に授けを乞うた。法主証如は直ちに大和・河内二州の門徒に御書を下して直光に助勢させ、その好意により30騎に護られて亀山城に帰ることが出来た。直光は深くこの恩誼を感じ、ついに報恩のために天文年中 吉原浦(美浜町吉原)へ東西38間、南北45間の境内に表10間、裏10間の一宇の堂と鐘楼を建立して本願寺に寄進したと伝えている。これが日高別院の前身 吉原道場である。
 その時、霊夢を感じた直光が有田の星尾山神光寺阿弥陀木像を本尊に迎えて安置したともいう。吉原道場は、はじめ僧了賢をして勤めさせ、のちに次子信春が開山となった。その時、直光は信春を呼び、
「乱世の常、吾等死所死時を知るべからず、祖先の冥福を祈るもの遂に之れなきを憾(うら)みとす、幸い我等随喜の浄土真宗は蓄妻挟子の宗風を有す、汝宜しく入道して一族の菩提を弔うべし、かくの如くんば吾が正統絶ゆとも汝の子孫相継いで此の寺に住し、本山を崇め湯川一門の霊を慰むべし」
と告げたという。信春は剃髪して唯可と称し、後に祐存と名乗った。

(2) 証如と吉原坊舎
 唯可はその後、石山本願寺に上って証如に謁し、父直光が本願寺の恩誼に感じて吉原浦に一宇建立・寄進の次第を告げた時、証如はまた深く感じて、唯可に法名を「祐存」と授け、かつ、自賛の御影を下附した。したがって、吉原道場は湯川氏の一私坊より変って「吉原坊舎」の号を許され、本山出張所という公的性質を帯びることとなった。祐存は吉原坊舎の初代住職となり、直光は吉原道場の開創者並びに吉原坊舎の開基ということになるだろう。 

松見寺(吉原坊舎跡)
  • また、「身代わり如来」として知られる事件についても、「御坊市」に次のように記載されている。

(3) 本尊の由緒と薗坊舎
 直光が有田星尾山神光寺より迎えた吉原坊舎の本尊は方便法身諸願成就の阿弥陀仏と称せられたが、制作の年代及び作者は不明である。天正13年(1585)羽柴軍の南紀州進攻に際して直春は一族と共に熊野へ逃れ、祐存の吉原坊舎も兵火にかかった。このとき浦の住人岩崎円宗本尊を、祐存御影を供奉してともに熊野へ逃がれた。翌14年、ようやく戦火が治まったので祐存は日高へ帰り、郡中の僧俗と力をあわせて薗浦の椿原に仮堂を設けた。これが「薗坊舎」で、今もこの地を卸坊古寺内(ふるじない)という。この頃本尊が、神光寺の手によって奪われるという事件がおこった。そこで財部(たから)の人 糸田久左衛門なる法義篤信の人がこれを奪還しての帰途、鹿ヵ瀬峠にさしかかった時、迫手に射かけられた。とっさに胸をおおうたが何の傷もなく、疾軀して坊舎に帰り本尊を壇上に安置すると、その胸に深く矢が立ってあり、その痕は今も歴然と確認出来る。この功によって糸田家の子孫は毎年正月、別院より鏡餅をおくられていた。

  • 現在の日高別院は、文禄4年(1595)に薗坊舎を現在地に移して再建したもので、「日高坊舎」「日高御坊」などと呼ばれた。本文にもあるようにこれが「御坊」の地名の由来である。メモ欄にあるように変転はあったものの、明治10年(1877)に「本願寺日高別院(「別院」は本山に準じるものとして別の地域に設けられた寺院のこと)」の称を得た。
  • 日高坊舎の建立にあたっては、当時の和歌山城浅野家の家臣であった佐竹伊賀守義昌(1538 - 1620)の尽力によるところが大きかったとされる。義昌は雑賀衆に属する紀伊国の豪族で、豊臣秀吉紀州征伐の際には雑賀城を守って秀吉の軍勢と戦った。雑賀衆が破れた後に熊野の山中に逃れたとされるが、豊臣秀長(城代は桑山重晴)に代わって和歌山城主となった浅野幸長から1,000石を禄せられて仕え、その後は各地の町の再興や寺院の再建に尽力した人物である。
  • 湯川秀樹(ゆかわ ひでき 1907 - 1981)は理論物理学者で、昭和10年(1935)に発表した論文「素粒子の相互作用について」において存在を予言していた「中間子(陽子や中性子を結びつける「強い相互作用」を媒介する粒子)」が実際に発見された功績により、昭和24年(1949)に日本人として初めてノーベル賞を受賞した。秀樹の田辺市出身の地質学者で、京都帝国大学において日本で最初に創設された地理学の講座を担当した小川琢治(おがわ たくじ)。その三男として誕生した秀樹は、昭和7年(1932)、大阪で開業医をしていた湯川玄洋(ゆかわ げんよう)の娘スミと結婚し、湯川家の養子となった。秀樹の養父である湯川玄洋(旧姓 坂部)は慶応3年(1868)に和歌山市で生まれたが、教員として日高地方の小学校で勤務していた際に村長の湯川玄碩に見込まれて湯川家の養子となっており、この家系が国人領主湯川氏に連なるものと考えられている。
    参考:
    ふるさと教育読本 わかやま発見「第4章 近代和歌山の発展 小川琢治と和歌山」わかやま発見|目次

    和歌山市まちづくり1000人会「湯川スミ生誕日」
    和歌山市まちづくり1000人会:スミ生誕日/ノーベル賞の風)2010/04/25

  • 日高別院は別名「大御堂(おみど)」ともいい、地元では親しみを込めて「おみどさん」と呼ばれている。本文にある「おみど会」の現状は不明だが、今も地元の人々の「おみどさん」への愛着は強いようである。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。