生石高原の麓から

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子安さん ~御坊市小松原~

 御坊市湯川町小松原にある湯川神社は、近くのお年寄りたちから「子安さん」と呼ばれて親しまれている。「子安さん」は、安産の神様。亀山城主、湯川直春の妻、富の前が、この神社に産室をつくり、富士山のふもとの浅間神社の分霊を勧請してまつったところ、すこぶる安産だったとかで、その村は「」と呼ばれるようになり、いまでも「富安」という地名が残る。

 

 安産の神様として名高いだけに、近郊からも安産の願をかけにやってくる新妻が多い。さらにアメリカやカナダなど、日高郡美浜町から海外へ移住した人の二世、三世らにも、ここの「安産の帯かけ」が送られることも。いま、近くに市民プールや高校ができ、若者たちの歓声がこだましている。

(メモ:国鉄紀勢線御坊駅から徒歩約5分。太鼓橋や池もあり、夏には涼を求める人が目立つ。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

  • 湯川神社について、公益財団法人和歌山県文化財センターが制作した「歩いて知るきのくに歴史探訪 ~湯川氏の故地を訪ねる~ 古絵図で歩く御坊駅周辺の文化財マップ 平成28年(2016)1月30日発行」には次のように解説されている。

湯川中学校の南にある神社で、湯川氏館跡の一画に位置します。
言い伝えでは湯川氏が館の一隅に明神社を祀っていたのが始まりで、16世紀後半頃、湯川直春が姫の安産を浅間神社静岡県富士宮市)に祈願し、その御分霊を亀山城中に勧請し明神社と合祀し祀ったとされます。
秀吉紀州攻めの後、亀山にあった神社を現在の位置に移して浅間神社の御分霊と明神社とを合祀し、子安大明神として再興したとあります。
現在、神社の前には池がありますが、これは館の庭園にあった池の一部で、元々は神社を巡るように掘られていたことが分かっています。
神社は小高い丘に鎮座していますが、これは池泉庭園の中島で、樹齢1000年とされるクスノキも庭園に生えていた木の可能性があります。
池には石造りの立派な太鼓橋が架けられています。

和歌山県指定文化財[記念物(史跡)]
亀山城   [指定年月日 平成28年3月15日]


 亀山城跡は、日高地方を拠点として有田・牟婁地方に勢力を伸ばした室町幕府奉公衆である湯川氏の拠城である。平時の館である湯川氏館(ゆかわし やかた)に対して、背後の標高約120mの亀山頂上付近に、有事の際の詰めの城として亀山城は築かれた。

 頂上部に大規模な土塁や高い切岸(きりぎし)を巡らせる2段の主郭部と腰曲輪(こしぐるわ)及び帯(おび)曲輪を階段状に配置する構造をもち、惣廻(そうまわり)は2km程度である。曲輪の総面積や範囲が広く、詰めの山城としてふさわしい規模をほこり、県内最大規模の中世山城である。
 一方で、湯川氏館について、東西約225m、南北約200mで、堀を巡らせるなど各地の守護所に匹敵する規模と構造をもち、平時の館と詰めの山城が一体化するあり方は「根小屋式城郭」と呼ばれ、戦国期における武家の拠点の典型例として挙げられる。
 このように亀山城跡は、中世末期に日高地方を拠点として勢力を伸ばした湯川氏の軍事力を示す城跡として学術的価値は極めて高いとして、和歌山県指定文化財[記念物(史跡)]に指定された。 

  • 上記引用文中にある「湯川氏館」は別名「小松原館(こまつばら やかた)」とも呼ばれ、湯川氏の平時の居館として設けられたものとされる。一般的には、天文18年(1549)に当時の城主であった湯川直光が「亀山城は寒風の季節は住みにくい」として麓に居館を築いたものと伝えられているが、公益財団法人和歌山県文化財センターの川崎雅史氏は次のように述べてこの見方を明確に否定している。

 湯川氏館は、16世紀中頃に亀山城が寒風の時期には住みにくいとの理由で亀山の麓に築かれたとの伝承も残るが、亀山城では遺物が出土せず生活の痕跡がないことや、館で16世紀中頃以前の遺物も出土することからも事実とは異なることが明らかである。
 既往の調査から、館の位置には少なくとも13世紀後半代には浄土系のお寺が存在したことが窺える。
(中略
 南北朝時代、湯川氏は当初南朝に組みしたが、のちに北朝方となり、それ以来、室町幕府との繋がりが強くなる。幕府から発給される書状も14世紀中頃以降のもので、書状からは、その頃すでに湯川氏は地域を束ね、家臣団を形成していたことが窺える。確証はないものの、幕府での地位を得た14世紀中頃が湯川氏館を築く契機であると考えられるが、瓦や寺の存在を考えると14世紀後半以降であることになる。少なくとも、寺のあとに館が築かれた可能性が高い。

公開シンポジウム
紀中・紀南の旗頭 湯川氏の城・館・城下町 発表資料集
平成28(2016)年1月30日
「湯川氏館の発掘調査」 (公財)和歌山県文化財センター 川崎雅史

宮崎の神々 木花佐久夜姫

(略)
 さてニニギと結ばれたコノハナのほうは一夜の契りで妊娠するが、ニニギは「一夜で妊娠するはずがない。私の子ではなく国つ神の子に違いない」といって疑った
お腹の中にいる子どもがあなたの言うように国つ神の子どもであるなら、無事に産まれてくることはないでしょう」。
コノハナはそう言って、出入口を全て塞いだ産屋に入りそこに火を放った
 火が勢いよく燃え盛っている時に生まれたのが火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)、次に産まれたのが火須勢理命(ほすせりのみこと・火が衰えるの意)、最後に火遠理命(ほおりのみこと・火が静まるの意)(山幸彦)と、無事3人を産み終えニニギの疑いも晴れた。
 浮気していないことを証明するために火を点けた産屋で出産するなんてなんと気丈なヒメだろうと思うが、これは天つ神の系統が地上へと継承されたことを、コノハナが誓約の形をとって証明してみせたということだ。
 コノハナは困難な状況にありながら無事に出産したことから安産の神として信仰されている

コノハナサクヤヒメ

筆者注1:火照命火遠理命は日本神話の「海幸山幸」の物語でも知られる。これによれば、弟の山幸彦火遠理命)は兄の海幸彦火照命)と漁猟の道具を交換して海に漁に出たが、釣り針をなくして困っていたところ、塩土老翁(しおつちのおじ)に助けられて海神(わたつみのかみ)の宮へ行き、釣り針潮盈瓊(しおみつたま)・潮涸瓊(しおひるたま)を得て帰り、兄に報復したとされる。この物語は、海幸彦を隼人族(南九州の勢力)の祖とみなし、大和朝廷側の火遠理命が隼人族を支配することの起源神話であると解釈されている。(参考:小学館 デジタル大辞泉「海幸山幸」)

筆者注2:木花佐久夜姫が出産した子については、いくつかの異伝がある。上記の引用文は古事記の記述に従ったものであるが、日本書紀では火遠理命にあたる子の名前を彦火火出見尊(ひこほほでみの みこと)としており、通説では初代天皇である神武天皇神日本磐余彦(かむやまといわれひこ))の祖父にあたる神と位置付けているが、神武天皇(ただのみな 実名)も彦火火出見とされることから、火遠理命(=山幸彦)が初代天皇となったとする説もある
(参考:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 「彦火火出見尊」)
日本書紀本文では第二子とされるが、異説(一書に曰く・・・)では第三子とするものもある。 

  • 上記引用文のように、富士山本宮浅間大社主祭神である木花之佐久夜毘売命は火中で無事に出産を終えたということから安産・子育ての神様として全国で広く信仰されており、同命を主祭神として祀る神社は「子安神社」の名称を有するものも多い。
  • 本文中、「アメリカやカナダなど、日高郡美浜町から海外へ移住した人」とあるのは、明治期に日高郡美浜町三尾村出身の工野儀兵衛(くの ぎへえ)がカナダに渡ったのをきっかけとした北米本土への大量移民のことを指す。和歌山社会経済研究所の機関誌「21世紀わかやま Vol.56(H20.12.2)」に掲載された谷奈々氏の「和歌山の「アメリカ村」とカナダ移民」によれば、同誌執筆時点で三尾村にゆかりのある日系人は、ブリティシュ・コロンビア(BC)州に約2300人、東部トロントに約2700人が在住し、その職種は、実業界、公務員、教師、医師、弁護士等、様々な分野に広がっているとのことであった。
    和歌山社会経済研究所 | レポート
  • 本文中の「市民プール」については不明。財団法人和歌山県文化財センターが1996年3月29日付けで作成した「県立御坊商工高校格技場等建設に伴う 小松原Ⅱ遺跡(湯川氏館跡)発掘調査報告書」の「第11図 湯川氏館跡と亀山城」の「小松原館(土居)」部分に「青少年体育センター」の記載があり、「第14図 水島大二「小松原館跡位置図」 」には同所に「プール」の表示があることからこれを指すものか(当該報告書作成時点では湯川中学校のプールとして用いられていたと思われるが、現在では同中学校の新校舎建設によりプールは廃止されている)。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。