生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

金の神輿と雨乞いの壺 ~御坊市熊野~

 のどかな田園地帯の一角。うっそうと茂る木立の中の高台に鎮座するのが熊野(いや)神社

 

 車の騒音も届かず、葉ずれの音が静けさをいっそう引き立てる。高台から望む日高川のゆったりとした流れと、その左手の、御坊の町並みの喧噪との対照のみごとさ。市内でも数少ない台地からの眺望はすばらしい。

 

 この境内に、金の神輿(みこし)と、雨乞いの壺が埋められていると伝えられる。その場所は「朝日さし、夕日輝くその下に…」という。朱のタル七個、白玉二光、鏡なども埋められていたとか。紀州攻めにきた秀吉がかくしたものというが、いまはない。雨乞いの壺は、水を満たし、山で雨乞いをしたのでは、といわれている。

 

 疱瘡(ほうそう)にかかった徳川吉宗が、ここに祈願して全快、本堂を寄進したともいわれる。

 

(メモ:天田橋から南東3キロ。南海白浜急行バス印南行き天田橋南詰で下車、歩いて約30分。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

熊野神社参道

 

  • この物語について、御坊市が編纂した「御坊市」には次のように記載されている。

金の神輿(みこし)と雨乞の壺

 熊野権現神社金の神輿を埋めているという。その場所は「朝日さし、夕日輝くその下・・・」という。また朱の樽七個白玉二光、等所蔵していたといい、玉は豊臣秀吉南征の時隠したのを明治の中頃、近くの百姓が掘り当てて持っていたが当時の官人が伝え聞き、持って行ったままになっているという。
 雨乞の壺というのもある。雨乞の時この壷に水を満たし、松明をともして山で雨乞をしたのだろうという。
 この神はまた疱瘡(ほうそう 筆者注:天然痘のこと)の神で、徳川吉宗が疱瘡にかかった時この社に祈願して全快した。お礼に吉宗は本堂を寄進したといわれる。 

 

  • 熊野(いや)神社御坊市熊野にある神社で、和歌山県神社庁のWebサイトでは同社について次のように解説されている。

 往古出雲民族紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当地に熊野神が一時留まりませる」ということが当神社由緒の発端になっている。
 平成2年10月熊野大社(出雲)発行の冊子『熊野大社』の50頁12行目に「熊野大社(出雲)に残る言い伝えによると、近くの村の炭焼職人紀伊国へ移り住んだときに熊野大社の神主クマノノオオカミ熊野大神のご分霊を持って一緒に行き、それをまつったのが現在の紀伊本宮大社である、としている」との文が見え、当神社由緒との整合性がみられる。

 往時は盛況で例祭における渡御は田辺牛ノ鼻までと伝えられ、道中鉾につけた鼻高の面が海の方に向くと漁事に障があるということで漁民が大変恐れ、また馬が嘶くときは凶事のある兆しとして、沿道の人々が恐みて炊煙を上げず、道を掃き潮を打って清め、ひたすら、無事に通過するのを祈ったということである。
 渡御先の「田辺牛ノ鼻」は現在田辺市芳養町国道42号線沿いバス停「牛ノ鼻」の近くに「日高郡熊野神社渡御旧跡」の石碑(近年、田辺市芳養町在住の崇敬者の方々の盡力により石碑の掘り起こしと整備がなされた)があり、その名残をとどめている。
 田辺牛ノ鼻までの渡御の始まりは不詳であるが、室町時代永禄年間(1560年頃)まで続いたことが最近明らかになってきた。

 時は下って、徳川時代紀州藩南龍院頼宣の三男頼純公(後、松山藩藩主)が疱瘡を患い、当神社と大山権現神社に祈願され初穂を奉納せられたが、幾許もなくして平癒された。
 さらに有徳院吉宗も疱瘡を病み祈願されたがこれも御全癒された。
 有徳院公吉宗公疱瘡罹病、御全癒の経過については、平成2年8月12日付『紀州新聞』「日曜随想」欄で「徳川吉宗のことを調べようと思って『田辺町大帳』を繰っていたら、宝永三(1706)年の条に次のような記事が載っていた、云々・・・去年〈宝永2(1705)年〉申年の十二月、殿様(吉宗)が江戸において御疱瘡遊ばされ候、その前いまだ、和歌山にても御沙汰(うわさ)これなきうちに、日高郡遊屋(熊野)権現の御託宣に、国主が疱瘡煩い申すべきと神子(巫子)が口走り申し候由云々・・」の記事が掲載されている。
 これらの諸事により紀州家代々の藩主は当神社の氏子となり、廃藩に至るまで御供料の寄進があったと伝えている。
 また、紀州家六代大慧院宗直公は敬神の念厚く、本殿の改築、長床の修復をせられたということである。

和歌山県神社庁-熊野神社 いやじんじゃ-

 

  • 上記引用文中の「田辺牛ノ鼻までの渡御」について、local wikiの「御坊市 むかしばなし」の項に次のような話が掲載されており、これによれば、熊野神社に埋められているのはこの渡御に用いられた「金の神輿」であるとする。

さるとり祭と金のみこし

 熊野神社祭は「さるとり祭」と昔から言い伝えられている。
 むかしは 日高郡で一番大きな祭りだった。
 このお宮に伝わる「延記録書」(1775)に詳しく書かれている。
 毎年 霜月(11月)のさるとり(申酉)の日に、遠く離れた田辺市芳養の牛の鼻へお渡りをしていた。
 その行列はたいそう立派なもので神主さんだけでも一人や二人ではなく75人も馬に乗って、ご幣2本、鉾75本を立てて それに金の神輿を担ぎながら日高郡中のお百姓さんがお供をして、お詣りをしたともいわれています。 それはそれは大変立派だったそうです。
 お渡りの間中 その道筋の家々では、ご飯を炊いたりして煙を出してはいけなかったそうです。
 また 行列の鉾につけた天狗のお面が海の方を向くと「魚が獲れなくなる」と言われていたので漁師の人々はたいそう恐れていた。
 それにまた 行列の馬が鳴くとそこの土地に忽ちよくないことが起きると言うので、人々は道に塩をまいて清めたり その場所や道の掃除などをしたりした、そして道筋の人々は雨戸をしっかり閉めて家の中で息をひそめて無事に行列が通り過ぎるのを祈ったそうです。
 しかし 神様のお徳によって そのような不幸な出来事は一度もなかったそうです。
 このお祭りは明治40年(1908)ごろから川辺町の大山社への出祭りも取りやめになり 近くのお旅所へお渡りするだけになってしまった。 今では祭りの形もすっかり変わってしまって名物の馬駆けや四つ太鼓も出ない年もあるそうです。
 ところで あの金の神輿は熊野神社の森に埋めてあるとも言い伝えられていますが、その場所は「朝日さし 夕日輝くその下に」と言われています。金の神輿と一緒に朱の樽七個、白玉二光、鏡なども埋められたそうです。でも 明治の中頃 近くの人が掘り当てたと言われていますが 今はどこにあるのかわかりません。
 それから ここの神様は「疱瘡」の神様ともいわれています。徳川吉宗が疱瘡にかかった時 この神様にお願いして病気を治してもらったと言われています。そのお礼に本殿を建てたともいわれています。それ以来、熊野神社は疱瘡の神様としても有名なのです。

むかしばなし - 御坊市 - LocalWiki

 

  • 金の神輿による渡御行列が目指したという「牛の鼻」とは、熊野街道が日高から田辺に入った位置(現在の田辺市芳養)にある奇岩のことを指す。現在は、国道沿いのバス停にその名を残すのみでほぼ忘れられた状態にあるものの、かつては熊野街道往来の名所として知られており、一時期は遊覧客向けの茶店も設けられていたという。その現状は下記の個人ブログに詳しいが、同サイトに「和歌山県田辺町勢概要」に掲載されていた「牛の鼻の窟」の紹介文があるので、これを引用する。

名勝・旧蹟 
牛の鼻の窟 
 元町笠ヶ谷二〇四二番地に近い海浜にあって、
内部の高さ約二間広さ約五間の貫通した岩窟で、
外観の形状、臥牛が首を延べたような所から「牛の鼻」の名がある。
蓋し往昔熊野神渡御の旧蹟である。
(中略)
大正初年の頃より附近に茶店を設け遊覧客を迎えて居る。
牛の鼻の窟(田辺市芳養松原) : 南紀の山のどこかで

 

  • 宝物の埋蔵地に関して「朝日さし、夕日輝くその下に・・・」という伝承があるとされるが、これは通称「朝日長者」といい、全国に存在する伝承である。ただし、和歌山市高積山ではこの伝承のある場所を発掘したところ、総数15,000枚の古銭(主に宋銭)が出土したという事例もある。
    髙積山古銭埋蔵地 - wasa2017 ページ!

朝日長者

伝説上の人物。
屋敷内などに財宝をうめたとされる。財宝の埋蔵場所を暗示する「朝日さし夕日かがやく木の元に」の歌とともに日本各地に伝承されている。稲作儀礼にともなう太陽信仰と関係しているといわれる。

朝日長者とは - コトバンク

 

  • 徳川吉宗が疱瘡に罹患した際のことについて、熊野神社境内の石碑には次のような記載がある。

八代将軍と疱瘡神

 吉宗公が藩主になって間もないころ疱瘡にかかると当社の巫女がお告げをした。驚いた藩は、早速、江戸へ使者を出したが、江戸品川付近で国表への急使とかち合った。それはまさに吉宗公が疱瘡にかかったという知らせであった。
 すわ一大事と、当社に平癒祈願をしたところ、神霊の御加護か、祈念かなって無事に全快し、健康と幸運を授かり、将軍への道を昇ることとなったのである。以後、歴代藩主は当社の氏子となり、廃藩まで供物料の御寄進があった
     熊野神社

 

 

  • 出雲の熊野大社の祭神は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと = イザナギの御子である 神聖なる 祖なる 熊野に坐します 尊い神である クシミケヌ)」であり、これは素戔嗚尊(すさのおの みこと)の別名であるとされる。ちなみに、和歌山県田辺市本宮町にある熊野本宮大社主祭神である熊野坐大神(くまのにます おおかみ =家都美御子大神 けつみこの おおかみ)も、素戔嗚尊の別名とされる。
    熊野大社 - Wikipedia

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。