生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

熊野の大蛇退治 ~御坊市塩屋町森岡~

 御坊平野の東南部のはずれの森の中に、静かに鎮座する須佐神社。いま、裏手の丘陵地が、つぎつぎと削り取られて行く。やがて、総合運動公園が作られるとか、その変容ぶりは、目ざましい。

 

 しかし一歩、境内に足を踏み入れると、周囲のざわめきはウソのよう。美しく敷きつめられた玉砂利を踏んで本殿へ進むと、古くから伝わる大蛇退治の話が、何やら本当に目の前で行われているような錯覚にとらわれる。


 むかし、むかし。森岡の山奥に大蛇がおり、村人は何人か犠牲となった。そのとき通りがかった中村筑前守清原業尊という神道者が「十分、信心をすれば、大蛇の退散間違いなし」といって立ち去った。村人たちは、隣村と相談して社殿を造り、武塔天神とあがめて日々、参詣をしていると、大蛇はいつの間にかいなくなったという。

 

(メモ:南海白浜急行バス日裏行き中村下車、徒歩10分。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

 

  • 須佐神社の由来について、和歌山県神社庁のWebサイトでは次のように解説されており、永延年間(987 - 988)に、悪蛇退治のため出雲から須佐大神素盞嗚尊 すさのおの みこと)の分霊を勧請して創建されたものとしている。

別当神宮寺の古記によれば永延年間(987 - 988)の頃悪蛇あり、

 

当社の東南約九町なる猪谷及び切山谷付近に出没して、
屡々人畜作物を傷害す、里人畏怖すること甚し、
たまたま熊野詣の神道来たり告げて曰く、
素盞鳴命、雲州肥の川(ひのかわ)上にて
八岐大蛇やまたのおろちを退治し給えることあり、
今、此の里に此の神を祀らば則ち神威によりて忽ち退去せんと、
里人喜びて出雲より須佐大神の分霊を勧請し、
山田庄九箇村の産土神とす、
蛇すなわち遁(のが)れて熊野村加久礼谷(かくれだに)に隠棲すと」『日高郡

 

以上が当神社の縁起であるが、中世以降、武塔(ぶとう/むとう)天神宮と称し、境内に神宮寺があった。
当社伝来の室町中期の祭文によると、天満天神武塔天神素盞鳴命蔵王権現の3座を祀り、山田庄9箇村の総社として尊崇篤く、地頭、庄司などから田地が寄進された。
代々別当神宮寺の社僧が掌っていたが、明治3年神仏分離して須佐神社と改称、以後神官が奉仕することになった。
明治41年氏下中の18社を合祀、現在に至る。

和歌山県神社庁-須佐神社 すさじんじゃ- 

 

  • この大蛇退治の物語について、御坊市が編纂した「御坊市」では「山田荘異聞大蛇之由来(詳細は後述)」からの要約として次のように記述している。

熊野の大蛇退治

 むかし、日高郡山田荘森岡の山奥に大蛇がいて、柴草刈等に行った者が時々おそわれ、時に命を失うものも出て、村人はもちろん荘内の人たちの生活がおびやかされ、人びとは大変難儀した。しかし領主より退治の沙汰はなかった。
 山田の荘は島、名屋、塩屋、猪野々、森岡、明神川、立石、野口上下、熊野、岩内、天田、南谷の十か村(ママ)で、京都近衛家の采地であった。
 そんなある日、中村筑前守清原業尊(なりたか)という神道者が供を連れて森岡村を通りかかり、多くの村人からこの話を聞いて、「それは難儀であろう。さらば素盞鳴尊(すさのおのみこと)を村で祀り、信心堅固にすれは大蛇の退散間違いなし」と、出雲国簸の川(ひのかわ)における尊の故事(筆者注:素戔嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した物語。「簸の川」は島根県の「斐伊(ひい)川」とされる。)を述べて立ち去った。
 森岡村の人びとは庄屋に申し出、また隣村とも相談して、土地を見たて、社壇を造り武塔天神(筆者注:諸説あるものの、素戔嗚尊または牛頭天王の別名とされることが多い)とあがめ祀り、日々の参詣を怠りなくしていると大蛇はどこともなく退散した
 そこで、森岡、南谷、明神川、猪野々、天田、南北塩屋の七か村が一統となり、正月十日、六月十日、九月十日、十一月十日に四季の祭を営むことを恒例とした。七種の膳と七瓶の酒を供え、十歳以下の乙女一人ずつ計七人が拝殿で大幣をふり、神を慰め奉った。それが何時の頃からか乙女がふるというのを誤っておとうふると言い習わし、乙女を男子に代えた。 

 

  • 上述の物語の中で、武塔天神の祭事として記述されている「おとうふる」という行事について前述の和歌山県神社庁Webサイトでは次のように記載されている。

(特殊神事)
 当社縁起に関わる「おとう祭り」という神事が創建以来延々と斎行されている。
 毎年正月 氏下5地区からみくじで選ばれた、15歳以下の5人の長男が1年間毎月1日に神殿に参拝し、翌年の3月10日、冠・裃を着け駕籠に乗り、榊持ち、太刀持ち、家族親族を従えて神社に参集。
 修祓、御神酒拝戴の後、神殿で大幣を振って祭神素盞鳴命の御威徳に、感謝し、氏下中の平安を祈願する。
 式後翌年の当人は椎の木に挟んだ大鏡餅を戴き、その日の内に氏下中の各家に漏れなく配る。
 これは氏下の子供が1年神主をつとめるという当屋制の伝統を今に伝える神事だということで、昭和44年御坊市無形文化財、昭和60年和歌山県無形文化財に指定された。

参考:おとう祭り 〜子どもが担う神事〜
第12回 おとう祭り 〜子どもが担う神事〜 - LIVING和歌山LIVING和歌山 

 

  • 前述の御坊市史の記述には続きがある。戦国時代の永禄年間熊野(いや/ゆや)村にまた大蛇が現れ、庄屋の息子が殺された。村の住民が二人の浪人の力を借りて大蛇を倒したので、その功をもって島村の住民は熊野村の山林で自由に柴草を刈り取ることが認められた。しかし、後になって熊野村の住民が難儀をしたため、鳳生寺という寺院の住職の仲介により亀山城湯川直春に願い出て、協議の結果、島村の住民は熊野村での刈込を禁じられ、代わりに丸山村亀山城の周辺)での刈込を認められたという。このように、大蛇物語の後段は山林の入会権の起源として捉えられているのである。(引用中にあるように、この文章は「山田荘異聞大蛇之由来」という個人所蔵資料の写しを要約したものとされる。)

 その後、久しく年を経た永禄(筆者注:1558 - 1570)の頃、熊野の山にまた大蛇が現われた。身長二丈(一丈は約三メートル)とも三丈とも、また十丈ともいわれ、家畜はいうまでもなく村人にも害を及ぼすので、きこり、山かせぎ、狩猟は全くできなくなった。
 たまたま当村の庄屋 中村市郎右衛門の一人息子 市之丞村の庄屋 野尻源左衛門の娘さよと縁談が整って間もなくのこと。市之丞が島村の義父を見舞に行く途中、大蛇におそわれて殺されるという事件が起こった。
 庄屋市郎右衛門は悲しみに堪え兼ね、一心に神に念じた。その念力が通じたのか、その頃島村に荒山三郎長政荒木金吾義剛(かた)という二人の浪人が住みついていて、近所の少年に剣術を教えていた。野尻さよの兄、源吾も弟子の一人であったが源吾は両親や妹の歎きを見かねて、ある日大蛇退治のことをこの二人の浪人に懇願した。浪人は「面白いことだ。きっと退治して、人びとを安心させてやる」と引受けてくれた。
 ところが、そのことを聞いた島村では、一同が集まり、この島は他の村とちがい、村に山林がないため、柴草刈に不自由である。島の住人が大蛇を退治したならばその功によって、熊野村の山林刈込をさせてもらおうと相談が決まった。早速庄屋新助らが和佐村へ行き、熊野村の領主の玉置荘司平光和に願い出た。光和は乱世の折、神妙なことと、それを許してくれた。
 時に荒山は31歳荒木は27歳であった。二人は大工に栗材で島籠を大きくしたような(おり)を二つ造らせ、鍛冶に大鎌檻の金具を造らせた。それを熊野村へ運び、大蛇の行き通う処へ置いた。そして一つの檻に荒山三郎野尻源吾ほか一名、もう一つには荒木金吾ほか二名が入り、北野善四郎出島新三郎ら五名はそれぞれ獲物(筆者注:得意とする武器 得物)を持ち、鐘・太鼓を用意して二手に分かれ谷間にひそんで大蛇の現われるのを待った。
 ころは永禄十一(1568)戊辰八月五日辰の刻(午前8時頃)。谷間から一度に鐘や太鼓を打ち鳴らし、ときの声を挙げた。これに驚いたのか、谷間から出てきた大蛇は松の大木によじ登り、四方を見廻した。その目は日月の如く、舌は火炎の如くで何ともすさまじい限りであった。
 ついで檻を目がけて突進して来たと思うと、ぐるぐると巻いた。檻がめりめりと音を立てて砕けようとした時、荒山の「切れ!」の大声に、檻を飛び出し、谷間から走り出た人びとが、それぞれの獲物を取っておそいかかった。大蛇は木を倒し、石を飛ばすことさながら木の葉のように狂い廻ったが、終にこの勇士達によってずたずたに切られ、息絶えた
 このことを島村の庄屋からの注進によって聞いた領主玉置光和は喜んで、黄金十枚、白米二十俵をほう美に出し、「永く熊野村の山林刈込勝手たるべき」ことを仰せ付けられた。庄屋は帰ってからこの黄金と白米を両浪人に進上したが受けなかった。
 二人の勇名が近隣に聞こえ、方々の領主から召抱える話があったが、両人は、わが主人と頼むべき程の人はないと辞退し、間もなくこの地を去ったが中国から九州へ行く途中、荒木は病死し、荒山はさる大名に仕えて立身出世したという。
 両人は信州上田城村上氏の家臣。主君を見限って浪人し、伊勢、熊野へ参脂して西国への道中、立ち寄ったものである。

 さて永禄より天正酉戌の六年(筆者注:大蛇退治から6年後の天正2年(1574)年は戌年にあたることから、この年のことか)、熊野村は山林が島村刈込となって難儀していると、領主玉置春和へ申し出た。春和は父が差し許したものを今更仕方がないことだが、島村領主野口殿に願い出てみよ、とあった。そこで、野口村野尻が岡の城主玉川義為に願い出たが一切お聞き入れなしであった。
 ところが、このことを知った会下(えげ)鳳生寺の住職慈光上人が、この山林取りもどしの儀を亀山城湯川直春に願い出た。
 鳳生寺はもと熊野村にあって、熊野太神宮の別当であったが、神主中村筑前守知高と不和を起こし、ついに富安村へ寺を移し、これが亀山城湯川家の菩提所になっていた。慈光は熊野村の人である。
 願い出を聞いた直春は両城主に使いを出し、熊野山のことで相談したい旨を伝え、代表の参集を求めた。
 某日、小松原城へ集まった両家代表と湯川家代表三者が協議した結果、島村の熊野村山林刈込みを禁じ、その代わり島村は丸山村山林刈込を許す、ということになり、それぞれ庄屋に申し下された。

注 この由来記は正しくは「山田荘異聞大蛇之由来」と題して天保二年(1831)年乙酉九月書かれたもので、元、野口村坂口梶吉氏蔵本を芝口常楠氏が写されたものに従い、これを要約して口語体で記した。(筆者注:この注記は御坊市史に掲載されているものをそのまま掲載した) 

 

  • 島村と熊野村との間での入会権をめぐる争いは実在したと思われ、「角川日本地名大辞典(上述)」では次のように記述されている。ただ、これを見ると、鳳生寺住職に湯屋(ゆや=熊野)山への出入りを禁じられた島村の住民が、湯河(湯川)氏に訴え出て代替地への入山を認められたこととなっている。

島村
(略)
島村善妙寺所蔵の天正8年(1580)後3月15日湯河直春書状に,「湯屋山島村申事付而、鳳生寺永州和尚……島村より彼山へ出入停止之儀申候之処」とあり、湯屋山への入会権をもっていた島村は、富安にある鳳生寺永州和尚によって山への出入りを禁じられたので小松原の湯河氏に訴え出て、湯河氏から和尚一代の後の湯屋山入山の権利と、入山禁止の間の替わりとして湯河氏の城があった亀山への出入りを認められている(日高郡古文書/国立史料館蔵)。

 

  • ちなみに、こうした入会権に関する争いは江戸時代まで続いていたようで、「角川日本地名大辞典(上述)」の「熊野(いや/ゆや)」の項には元禄元年(1688)に始まる争いについて次のような記述がある。

 元禄元年、当村の山地にあった島村岩内村との共有地をめぐって、当村と島村の間で山論が起こった(熊野村出入返答言上書/御坊市史3)
 共有山設定は、自村内に山地を持たない島村の村民が肥料用の芝草と燃料用の薪炭を採集するためで、他に特産物を持たない当村と山地をもたない島村の両村民間に対立を生じた。これは翌年一応の解決をみたが(熊野村山出入取替一札/同前、その後も度々争論を繰り返した。

 

  • 上記の文中にある鳳生寺(ほうしょうじ)御坊市湯川町富安にある寺院。室町時代から戦国時代にかけて日高地方で権勢を誇った湯川氏の菩提寺であった。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」では次のように記されている。

鳳生寺
小谷にあり
傳へいふ
開山は箕外和尚大檀那
湯川第七代 天養居士建立して菩提所とし
越前永平寺の末寺なりしに
今は妙心寺となる
湯川氏の時は岩内荘熊野村にて
寺領寄附ありしといふ
今に熊野村に鳳生寺山といふ所あり
慶長中 浅野家より竹木寄進の状
元和元年田中淡路守より
寺廻りの田畠二石寄進状等あり

 

  • 本文中にある総合運動公園は、現在、野球場と多目的グラウンドを擁し総面積17.2ヘクタールと県下有数の規模を誇る運動公園(御坊総合運動公園)になっている。

    御坊総合運動公園/御坊市ホームページ

 

  • メモ欄にあるバス路線は、現在、熊野御坊南海バス日裏線となっている。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。