生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

海に沈んだ阿弥陀さま ~美浜町三尾~

 三尾に竜王神社というのがある。三尾からアメリカやカナダなどへ移住した人は多い。そんな海外の氏子たちからも親しまれている珍しい神社だ。

 

 このお宮の南の海中に、亀の形をした岩がある。その昔、竜王がこの岩に乗って出現したと伝えられる神聖な場所で、この一帯で魚を獲るのは禁じられていた。

 

 ところがあるとき、わがままな殿さまがいて観潮の宴をはったとき、三尾名物のアワビが食べたくなった。尻ごみする家来にムリヤリ大きなアワビをとってこさせ、喜んで食べたのはよかったのだが、とたんに大嵐が襲ってきた。怒った殿さま、こんどはその家来を、崖から突き落とさせた。その後、殿さまは夜毎、家来の夢を見てうなされるようになった。ついに前非を悔いた殿さま、阿弥陀を海に沈めて、そのめい福を祈ったという。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

竜王神社

 

  • 美浜町が編纂した「美浜町」によると、この物語は「下部(しもべ)落としと阿弥陀ばい」という題名で次のように紹介されている。

 大昔の話でしょうかい。殿さんがありましてな、その殿さんが大勢家来をつれてあっちこっちと見廻っていたんでしょうな。ほんだら、今龍王さんをまつってる辺りの景色があんまりいいので、とてもお気に入ったんやそうです。ほいで、ここで酒宴をしようかということになって、そこで酒宴を始めましたんや。

 とても海はきれいやし、上機嫌で殿さんが酒宴をしてましたんやけども、そこのを食べたいての言うたんやそうですわ。鮑をとて(取って)来い言うたんやけども、その辺りの磯はな、昔は、わたしら娘になった時分でも、ずっとあの辺の磯のもん取ったらいかんというてね、法度になってましたな。そこへ行ったらいかんというのは、龍王さんが竜宮から亀に乗ってここへおいでて、神さんがあがった石というのがあるんやそうです。その石はあんまり近寄ったり乗ったりしたらばち(罰)あたるていうて、舟もあんまり近寄ったり、人も近寄ったりせんのですわ。そこら辺りは海布(め)とか若布(わかめ)とかようけ茂って、貝らでも他よりか大きなええのがあるんですけども法度やから誰も行かんし、また、そこへ行って、取ったら、後に祟りがあるていうので、こわいさかいに誰もあそこの磯には入らんのですわ。

 そいにあそこの磯の鮑をとて来いというのんで、皆しりごみして、恐れてからいに(恐れているから)誰もよう行かん(行きたくない)と言うたんやそうですわ。ほんならな、殿さんは、そがな馬鹿なことはないて言うてな、なんでも(なんとしてでも)とて来いて言うて、そばにおった下男の人にとて来いと言うたので、ほいでもう仕方なしに怖る怖る磯へもて入ったんやそうな。ほいて(そして)、入って大きな鮑をとて来て料理してええ調子でやっていたところが、今まで静かだった海がいっペんに騒ぎ出いて来て、一天にわかにかき曇りちゅうんかの、まっ黒けな黒雲が出てな、えらい海鳴りはするわ、稲光りはするわ、大雨は降るわでな、えらい時化て来たんやそうな。

 殿さんは、皆がそんなことをしたらいかんということをしたあるさかいに(したから)怖れおののいてしもていますんやとい(怖れおののいてしまっているようです)。ほんなら殿さんにがり切って怒って下部(しもべ(僕) 雑用に使われる者・身分の低い者、の意)をばあそこへもて突き落とせと言うて、ほいて、蹴りおといたん(蹴り落した)が、下部落しいう名前になったんやて、ほいて時化もなおって、殿さんもお城へ帰った。

 ところが、毎晩、突き落とされた下部が夢の中へ出てくんのやそうな。ほいでもう殿さんは、それにえらい悩まされて、それにまた、次々と悪いことも起こるんやそうですわ。そいで殿さんは、やっぱり自分はわりかったんかちゅうような(悪かったのか、というような)気分になったんでしょうかな、そいで阿弥陀を海に沈めて冥福を祈ったんやそうな。そいでそこをば阿弥陀バイちゅう名前につけたんや(三尾)。

※筆者注:「バイ」は一般的には「碆(はえ)」と表記され、「岩礁」の意を表す。

 

  • 龍王神社は、美浜町三尾地区、通称三尾浦の南東、竜王の断崖上の密林中に鎮座している。その創建時期は不明であるが、同社の沿革について、「美浜町」では次のように記述している。

 当社の現在の祭神は、豊玉彦(とよたまひこの)大神猿田彦(さるたひこ)大神の二神であるが、このうち猿田彦大神明治42年に合祀したもと日ノ岬にあった御崎神社の祭神であって、龍王神社本来の祭神は豊玉彦大神一神である。この神は海神豊玉姫命の父君とされるが、ともに海神を人格神とした呼称に外ならない。明治6年当社が村社に列せられたときの神社名は「海神社」となっており、練札にも「綿津見宮」としているとおり、当社の祭神は海神そのものと思われる。
 古来、海に拠って生きてきた三尾の人々は、日々海のめぐみに感謝するとともに、その怒りを恐れ謹しみ、海を眼下にする龍王崎の丘を神社の地としたのであろう。龍王崎はまた、三尾の集落を風濤から守ってくれる天然の要害でもあった。この社の沿革の古さが偲ばれるのであるが、海神を祭る当社が龍王神社と呼ばれるようになったのは、もちろん神仏習合時代に入ってからのことと思われる。
 は中国でも想像上の神獣とされているが、仏教でも雲雨を自在に支配する神獣であり、特に龍王はその王として、弘法を護り雨を祈る本尊であった。龍王神社が雨乞いの神として広く尊崇されたのは、神社名によるこのような信仰によるものであろう。しかし当社が明治6年社格申請のとき、神社名を龍王神社とせずに「海神社」としたのは、神社の称号に仏語を使用することを禁じた神仏分離令にふれることを恐れたためと思われる。

筆者注:龍王神社における雨乞いの伝承については、別項「乙姫の雨壺」で詳述する。
乙姫の雨壺 ~美浜町三尾~ - 生石高原の麓から

 

  • 上記引用文中でも触れられているとおり、龍王神社の本来の祭神は豊玉彦大神であり、その別名を「綿津見神(わたつみのかみ)」という(「古事記」では「綿津見神(わたつみのかみ)」、「綿津見神(おおわたつみのかみ)」、「日本書紀」では「少童命(わたつみのみこと)」、「海神(わたつみ、わたのかみ)」、「海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)」などとされ、各種の表記がある)

 

  • 国学院大学古事記学研究センター」によれば、「綿津見神」は、自然としての海そのものを神格化したものではなく、海を掌る「支配者」としての存在であるとしている。

 タツの名義について、「綿津見」の字は借字で、ワタは海のこと、ツは連体助詞、ミは一種の霊格を表し、神名は、海の神霊の意と解される。海の神であるが、自然としての海そのものの神格ではなく、海を掌る支配者としての存在であると考えられている。
(略)
 海神の国訪問譚の綿津見神は、魚介類を統括したり、海の干満を掌る呪力を有しているように、海の世界の支配者としての性格が色濃く表れている。
綿津見神 – 國學院大學 古事記学センターウェブサイト

 

  • 和歌山県神社庁のWebサイトでは、龍王神社が航海者から崇敬されていた様子について、次のように述べている

 当神社の位置は、南海一の岬であるから暴風激浪が殊にはげしく、航海者の最も恐怖する魔所であるので、航海者は御神徳を仰ぎ、海上安全の祈願をし、御酒を海中に投じ、その霊験は著名であった。
 そして帆船は帆だけ3段おろして敬意を表した。
和歌山県神社庁-龍王神社 りゅうおうじんじゃ-

 

  • 日本神話の「海幸山幸」の物語にも豊玉彦(=綿津見神=海神)は登場する。物語の主人公である山幸彦は、兄の海幸彦漁猟の道具を交換して海に漁に出たが、釣り針をなくして困っていたところ、塩土老翁(しおつちのおじ)に助けられて海神(わたつみのかみ 豊玉彦の宮へ来る。ここで山幸彦豊玉姫(とよたまひめ 豊玉彦の娘)と出会って結婚に至る。後にこの二人の間に生まれた子が鸕鶿草葺不合尊(うがや ふきあえずの みこと)で、この御子と玉依姫(たまよりひめ 豊玉姫の妹で豊玉彦の娘)の間に生まれた子が神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこの みこと、後の神武天皇である。これに従えば、豊玉彦神武天皇の祖父にあたることになる。
    山幸彦と海幸彦 - Wikipedia

 

  • 美浜町三尾地区は「アメリカ村」という通称名でも知られる。これは、明治21年(1888)に三尾村(当時)出身の工野儀兵衛(くの ぎへえ)がカナダ・バンクーバーに渡り、同地でフレザー河を上る鮭の大群を見てこの地での漁業の将来性を感じ、故郷の村人を呼び寄せたことに端を発し、同村から多くの若者がカナダへ移民したことによるものである。前述した和歌山県神社庁のWebサイトに「当社所在地は通称『アメリカ村』と言われ、カナダ移民の母村である、拝殿には弗(ドル)価による寄進札が多数みられる」とあるように、同社には海外への移住者からも多数の寄進が寄せられている。
    ※詳細は「 煙樹ヶ浜の狐 ~美浜町和田~ 」の「参考」欄を参照されたい

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。