竜王神社に「乙姫の雨壷」と呼ばれる岩のくぼみがある。
日高地方の農家の人たちが、干ばつに悩んだとき、川辺町千津川のお年寄りが「竜王神社の岩のくぼみに願をかければ、雨が降るのでは」といいだした。早速みんなで、乙姫の歌を書き込んだ紙切れを雨壷へ投げ込むと、効果てきめん。とたんに雨が降りはじめたとか。
ところでこの竜王神社の拝殿の前には、樹齢三百九十年の大きなアコウの木が繁っている。祭神の豊玉彦神が、竜宮からこの地に降臨しようとした際、断崖が余りにもけわしいので思案にくれていると、アコウの太くて長い根が雌雄の竜となり、ハシゴの代りをつとめたという話も伝わっている。
九つの雨壺
龍王宮豊玉姫命と聞きましたが、今は豊玉彦命いうてますよってにね、おばあさんの言うて教えてくれたのと違うなと思っています。豊玉姫命と産湯の神さんとは御姉妹やそうです。ほいで産湯の神さんの方が姉さんやそうです。ほいて(そして)うちの神さんの方が妹の神さんですが、うちの神さんの方が位が上やそうで、雨壺を九壺ようけ(余計)持ってるんやそうですわ。それで日照りの時は、ここの神さんへ雨乞いに来ます。わたしら子供の時分にはよく来ましたわ。帰りしなには必ず降るとよう言うてね。よその地下(じげ 他の地域)からよく来ましたわ(三尾)
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国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」によれば、「和歌山県の雨引山(筆者注:かつらぎ町の雨引山を指すものか)には『雨壺』があり、その蓋を取ると、どんな旱魃の時でも雨が降るといわれている。」との伝承が記録されている。このように、多くの場合、「雨壺」は字義どおり「雨の入った壺」で、これに何らかの行為を行うと雨が降るとされているものであると考えられる。
雨壺 | アマツボ | 怪異・妖怪伝承データベース
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上記伝承にある「産湯(うぶゆ)の神さん」については不詳。本来、産湯八幡神社(日高町)の主祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと 応神天皇)であり、男神であるが、明治時代に厳嶋神社(祭神・厳嶋姫神 いつくしまひめ)、小坂神社(祭神・市杵島姫神 いちきしまひめ)を合祀しており現在では市杵島姫神も祭神となっていることから、この女神を指している可能性がある。市杵島姫は、海上航海の安全を司ることで知られる「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」の一柱(三女)であるが、その長女にあたるのが田心姫(たごりひめ)で、この神は豊玉姫と同一神であるとする伝承があるため、これを踏まえて「豊玉姫命と産湯の神さんとは御姉妹」と伝えられている可能性がある(その場合は、豊玉姫の方が姉となるべきであるが)。ちなみに、宗像三女神の二女にあたる湍津姫(たぎつひめ)は玉依姫(たまよりひめ 神武天皇の母)と同一神であるとの伝承もある(一般に、豊玉姫と玉依姫は姉妹で、父は豊玉彦とされる)。
宗像三女神 - Wikipedia
トヨタマヒメ - Wikipedia
- 中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」にはこの物語に関連して次の二編の物語が収載されている。このうち、「竜宮から来た神」によれば、「乙姫の雨つぼ」は「財(さい)ヵ窟」という洞窟にあるとされている。
雨乞の宮 - 竜王神社
この宮は雨乞の宮で、池が干上がって雨が降らないと千津(川辺町)から区長、区民総出でまいった。神官が祝詞をあげ、瀬戸家秘伝の雨乞の書の写しを下部落し(※)から海に投げ入れ、再び神前で般若心経を唱えた。これが「千津のリオンサン(竜王さんの訛か)の雨乞」で、その帰りは必ず雨が降った。土地の人びとは「おお、雨がこぼれてきた、千津の雨乞が効いた」とよく言った。
当時、長い火縄を持ってまいり、ご神火をそれに付けて帰って雨乞をした村もあった。また、和田(美浜町) 塩屋(御坊市)の漁師も、よう大漁祈願や潮直(しおなお)しの祈願に来た。
三尾 小山茂春 大・2※「下部落とし」については別項「海に沈んだ阿弥陀さま」を参照のこと。
海に沈んだ阿弥陀さま ~美浜町三尾~ - 生石高原の麓から
竜宮から来た神
三尾の竜王神社の祭神、豊国彦神が竜宮からこの地に降ろうとした時、岩が余りきびしいので、雌雄の竜がはしごの代わりをして、この地にお連れし、竜は海中に沈んだと伝えている。
この竜王崎には高さ約10メートル、幅約4メートル、奥行約3メートルの財(さい)ヵ窟という洞窟がある。別名カンラン礁といい、私たちはカイツボとよんでいる。この辺が竜宮の入口で、乙姫の雨つぼというくぼみのある岩もあって、そこへ百姓の人が雨乞いに来たそうである。ここから東へ約100メートルも行くとウツクシの穴というのがある。万葉集には三穂の石室と書かれている。
「ふるさとの姿」矢田ゆみ子の文
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上記の引用文「雨乞の宮」にある「瀬戸家秘伝の雨乞の書」については不詳だが、美浜町に隣接する御坊市には「瀬戸家」と呼ばれる大庄屋があったことから、この家を指したものではないかと推測される。瀬戸家は天正年間に日高地方へ来往したと伝えられ、幕末期には紀州藩日高郡天田組の大庄屋を務めたほか、17世紀後半から明治末年ごろまでは酒造業を営んだ。平成30年(2018)には瀬戸家住宅等が国の有形文化財に登録されたが、これは南海紙業株式会社(現旭化成株式会社和歌山工場)を創業し、社長も務めた12代の瀬戸健三氏が大正後期に建築したものである。
御坊の瀬戸家住宅 国有形文化財に | 日高新報
- 龍王神社については、別項「海に沈んだ阿弥陀さま」でも詳述しているところであるが、改めて「美浜町史」の記述を引用する。これによると、本来龍王神社は海のめぐみに感謝するとともにその怒りを恐れ謹しんで海の支配者たる「海神(綿津見神、豊国彦命)」を祀ったものであるが、後にこれが仏教を通じて中国由来の「龍王(仏教では八大龍王)」の伝承と結びついて、雨を司る神としての信仰が加わったものと考えられる。
海に沈んだ阿弥陀さま ~美浜町三尾~ - 生石高原の麓から
当社の現在の祭神は、豊玉彦(とよたまひこの)大神と猿田彦(さるたひこ)大神の二神であるが、このうち猿田彦大神は明治42年に合祀したもと日ノ岬にあった御崎神社の祭神であって、龍王神社本来の祭神は豊玉彦大神一神である。この神は海神豊玉姫命の父君とされるが、ともに海神を人格神とした呼称に外ならない。明治6年当社が村社に列せられたときの神社名は「海神社」となっており、練札にも「綿津見宮」としているとおり、当社の祭神は海神そのものと思われる。
古来、海に拠って生きてきた三尾の人々は、日々海のめぐみに感謝するとともに、その怒りを恐れ謹しみ、海を眼下にする龍王崎の丘を神社の地としたのであろう。龍王崎はまた、三尾の集落を風濤から守ってくれる天然の要害でもあった。この社の沿革の古さが偲ばれるのであるが、海神を祭る当社が龍王神社と呼ばれるようになったのは、もちろん神仏習合時代に入ってからのことと思われる。
龍は中国でも想像上の神獣とされているが、仏教でも雲雨を自在に支配する神獣であり、特に龍王はその王として、弘法を護り雨を祈る本尊であった。龍王神社が雨乞いの神として広く尊崇されたのは、神社名によるこのような信仰によるものであろう。しかし当社が明治6年社格申請のとき、神社名を龍王神社とせずに「海神社」としたのは、神社の称号に仏語を使用することを禁じた神仏分離令にふれることを恐れたためと思われる。
(雨乞祈願)
当神社名に因み近隣町村からも参拝されている。
龍は想像上の動物であるが、背に81枚の鱗があり、頭に2本の角と4本の足と口には大きなヒゲがあって、水にひそみ空をかけ雲を起して雨を呼ぶと伝えられている。
和歌山県神社庁-龍王神社 りゅうおうじんじゃ-
- 龍王神社のアコウ(赤榕)の木は、樹高6メートル、主幹の幹周5.28メートル、総幹周8.74メートル(環境省 巨樹・巨木林データベース 2016年1月11日現在)で、昭和43年(1968)に和歌山県の天然記念物に指定されている。美浜町教育委員会が現地に設置した案内板(昭和63年1月)によれば、推定樹齢は300~350年で県下最大の樹とされる(推定樹齢は県天然記念物に指定された昭和43年時点での記述か)。
- 前述の引用文「竜宮から来た神」にある「三穂の石室」とは、三尾地区の裏磯(うしろそ)にある洞窟を指す。万葉集巻三には、博通法師(はくつうほうし)という僧(詳細は不詳)が「三穂石室(みほのいわや)」を見て詠んだ歌が三首掲載されている。この第一首にちなんで、この洞窟を「久米の岩屋」と呼ぶこともある。
博通法師、往紀伊国、見三穂石室作歌三首
はくつうほうし 紀伊国に往きて
三穂石室を見て 作れる歌三首はだすすき 久米の若子(わくご)が いましける
三穂の石室(いわや)は 見れど飽かぬかも(巻三 307)
久米の若君がおられた三穂の石室は
いくら見ても見ても見飽きることがない※常盤(ときわ)なす 石室(いわや)は今も ありけれど
住みける人ぞ 常なかりける(巻三 308)
永遠に変わらない石室は今も存在しているけれど、
そこに住む人はもういないのだなあ※石室戸(いわやと)に 立てる松の樹 汝(な)を見れば
昔の人を 相見るごとし(巻三 309)
石室の入口に立つ松の木を見ていると、
昔の人に逢っているようだ※※解釈は筆者による
筆者注:
第一首中の「久米の若子」については、美浜町教育委員会が設置した説明板には「第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)、第24代仁賢天皇(にんけんてんのう)の父」とあるが、國学院大学デジタルミュージアムに収載されている「万葉集神事語辞典」では、「顕宗天皇の更名(またのな)が『来目稚子』とあることから顕宗天皇自身を指すとする説(本居宣長 『古事記伝』)」、「『久米の仙人(奈良県橿原市の久米寺の開祖と言われる伝説上の人物)』を指すとする説(契沖 『代匠記』)などを紹介しつつ、現在の注釈書類では、久米氏(古代日本で軍事的な職業に従事していた人的集団である久米部の指導的氏族)の若者の意ととるものが最も多いとしている。
[ID:31958] くめのわくご : 資料情報 | 研究資料・収蔵品データベース | 國學院大學デジタル・ミュージアム
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。