日高地方には、湯川一族にまつわる伝説が多い。これも、そのひとつ。
湯川直春。御坊市丸山、現在の紀勢線御坊駅の北側に亀山城を築き、日高、有田両郡の領主として権勢を振るったが、秀吉の南紀攻めでは城を枕に討ち死にした。その直春が落城前、日高町上志賀にあった出城(瀬山舞鶴城)の近くに、刀剣や軍用金を埋めておいたのだが、死んだ後もそれが気にかかるのか、旧暦12月25日の深夜、家来を従えて舞鶴城付近を訪れるという。夜中に馬のヒヅメの音がしたり、高張ちょうちんをさげた武士が近づいてくる。闇夜なのに、なぜかその姿がハッキリ見える。ところが、家の近くまでくるとパッと消えてしまうとか。
いまも里人の伝えに、「朝日さす、夕日輝やくその下に、黄金千両、後の世のため」というのがあるとも。
(メモ:紀伊内原駅近くの国道42号線から西へ3キロ。南海白浜急行バス中志賀下車、徒歩約10分。)
湯川直春亡霊のこと
戦国時代今の御坊駅の北側 丸山に城を築き、日高、有田二郡の主として勢いを振った、湯川直春も豊臣秀吉の軍勢には刀折れ矢つきてついに落城、直春は城を枕に討死したが 直春は、万一のときの用意にと自分の出城である、上志賀瀬山舞鶴城の付近に、刀剣軍用金を埋めて置いたとか、亡霊となりてもそれが気にかかるのか、旧暦十二月二十五日の闇夜、家来を従えて古城丸山を出発、入山の五花の峠を越えて不毛を横ぎり、谷口のところに出て、あらすのところより蓮池の北側を通って中志賀久志を過ぎ、上志賀舞鶴城付近へ行ったと、昔蓮池(筆者注:熊野御坊南海バス下志賀停留所近く)の北側の畑に家があり、おばあさんが一人住んでいたと、そのおばあさんの話では二十五日の夜中ごろ、あらすのほうから馬の蹄の音 鎧のすれ合う音、話声も高らかに、何十とも知れない高張提灯を持った武士が、此方へ近づいてくる。暗夜であるのにその姿がはっきり見える。家の近くまで来るとパッと消えてしまう、しばらくすると向こうの方で音高らかに行列が進んで行ったと。そうして瀬山につくと、一つの蛍火のようになってしまう。里人これを捕らえんとするも近づくと火は消えてしまうと。今でも里人の伝えによると「朝日さす夕日かがやく其の下に黄金千両後の世のため」とあり。直春の亡霊今にそれが気がかりとなり、見に来るのだと伝えられている。
亀山城主たちの幽霊
亀山城が落城し、湯川氏が滅んでのち、その落城の夜になると亀山から火の玉が出て、美浜町和田の不毛(ふけ)に飛び、入山(筆者注:にゅうやま 現在の美浜町和田 湯川氏の支城とされる入山城跡がある)に立ち寄って、上志賀の大池の下のお宮(筆者注:石尾(こくお)神社)(一説に舞鶴城)に休み、また亀山へ飛んで帰った。
その火の玉をよく見ると、先頭の大将らしいのが白馬に乗り、多数の武士が武具、武器を持って従っていた。白馬には羽根が生えていて足がなく、一同ワッショイ、ワッショイのかけ声をしていた。
ある年のその夜、久志(筆者注:くし 現在の日高町志賀の地名)の数人がそれを見ようと、道端の一軒の空家で待っていた。夜も更けたころ、ワッショイのかけ声が聞こえてきたので、戸外に飛び出て大声をかけた。すると武士の行列がたちまち小さな火の王になって散りじりになって飛んで行くと見えたが、下志賀のあたりで、また集まって行列を組み亀山の方へ飛び去ったという。
御坊市 松本浅次郎 大・6
城主の亡霊
昔、吉原の西に、かせ屋と言って庄屋をした家があった。その家の裏に、「ホトケハン」と人々がよんだ五輪の塔が立っていた。法華経の教典を納めていると言っていた。
草木も眠る丑三つ時になると亀山(御坊市湯川町)の方から、何騎も連れた騎馬武者が馬の蹄の音をたてて来る。それがホトケハンの側まで来るとピタリと止まったという。
あれは亀山城主湯川直春の霊魂が、ホトケハンにお詣りに来るのだという言い伝えである。
吉原 金谷一雄 大・4 採話 金谷
- 湯川氏は、鎌倉時代に牟婁郡を支配下に納めたことを皮切りに、芳養、日高などを勢力下に納め、戦国時代には亀山城(現在の御坊市)を本拠として紀州国人領主(こくじんりょうしゅ 名目上の領主である中央官吏に対して在地で実質的な支配を行う役職者を指す)の旗頭的存在として権勢をふるった氏族である。公益財団法人和歌山県文化財センターが制作したパンフレット「歩いて知るきのくに歴史探訪 ~湯川氏の故地を訪ねる~ 古絵図で歩く御坊駅周辺の文化財マップ 平成28年(2016)1月30日発行」では、湯川氏について次のように紹介されている。
湯川氏は清和源氏武田氏の流れを汲み、湯川の始祖については諸説があるが、武田範長の末子として甲斐の奈古に生まれた三郎忠長と考えられています。
忠長は熊野道湯川(筆者注:現在の田辺市中辺地町道湯川)に入り、忠長を迎え入れた湯川庄司(筆者注:「庄司」は荘園を管理する下司(現地駐在の役人)の職名)の娘を妻として熊野に腰を据え、近くの岩神峠に出没する山賊を退治するなどして武名は近隣に鳴り響かせたそうです。その功によって六波羅探題から牟婁郡を賜り、牟婁一円を支配下におき、その後、芳養(はや 現在の田辺市芳養)に進出して内羽位(ないばい 芳養の地名、内梅とも)の館を築いて新たな本拠としたそうです。そして、平井、脇田らの家臣を従え、武田を改めて湯川を名乗ったとされています。
室町幕府全盛期には幕府奉公衆として活躍し、戦国時代には日高郡亀山城を本拠として、紀州国人領主の旗頭的存在として勢力を振るいました。しかし、豊臣秀吉が紀州を平定するため、天正13年(1585)に十万余の大軍を率いて出陣し根来寺を焼き討ちにし、太田城を水攻めにすると同時に、紀南地方の平定に着手しました。紀南に進攻した秀吉軍は湯川方の諸城や湯川氏の本城である亀山城を攻撃したため、亀山城を焼き払って熊野山中に退き抗戦を続けました。このことから、秀吉は湯川氏の攻略をあきらめ本領安堵を条件に和議が成立しました。
紀伊国は秀吉の弟豊臣秀長に与えられ、翌天正14年(1586)に湯川直春は山本主膳とともに、大和郡山城に和議のため参候した際に謀殺されたとされています。これにより、秀吉の紀州平定が完成しました。直春の死後、嫡子丹波守光春は秀長に仕えて三千石を領しました。秀長の没後は、浅野家(筆者注:関ヶ原の戦いの後に浅野幸長が和歌山城主となるが、その跡を継いだ弟長晟の代に、城の無断改修を咎められて改易となった福島正則に代わって広島城主となる)に仕えて安芸に移り宮島奉行を勤めました。湯川氏の家臣団は四散し、紀州の在地領主層も近世的封建体制に組み込まれ、紀南の中世は終焉を迎えました。
その他|公益財団法人 和歌山県文化財センター
歩いて知るきのくに歴史探訪「湯川氏の故地を訪ねる 2016/1/30 御坊市」
- 上記の引用中にある岩神峠の山賊退治については、別項「救いの太刀」において紹介している。
救いの太刀 ~中辺路町(現田辺市)道湯川~ - 生石高原の麓から
- 南北朝時代、紀伊国では在田(有田)郡を拠点とする湯浅党が南朝方についたのに対し、日高郡を拠点とする湯川氏は北朝方についた。しかし、湯川氏は機を見るに敏であったようで、たびたび立場を入れ替えながら勢力の維持に懸命であったことが伺われる。
- 延元元年/建武3年(1336) 九州に逃れた足利尊氏が再び京都を制圧して後醍醐天皇勢と近江坂本で戦った際、湯川氏は五百余騎を率いて足利方(北朝方)として参戦した。
- 文和元年(1352) 南朝方の楠木正儀、北畠顕能らが京を攻め落とし、足利義詮が近江に逃れた「男山八幡の戦い」において、湯川氏は南朝方について京都に進攻した。
- 同 「男山八幡の戦い」での北朝方による兵糧攻めに耐えかねた湯川氏らが北朝方に寝返り、南朝方は瓦解した。この結果「正平の一統」が破棄されることとなった。
- 文和2年(1353) 南朝の公卿・四条隆俊が楠木氏らの兵を率いて紀伊国に入り北朝軍を破った際、湯川氏ら熊野八荘司も南朝方に味方した。
- 延文5年/正平15年(1360) 「第二次龍門山の戦い」の際、湯川氏が北朝方に寝返ったので南朝方は総崩れとなり、総大将・四条隆俊は阿瀬川城(有田川町清水)まで撤退した。(第一次の「龍門山の戦い」については、別項「塩塚のいわれ」を参照のこと)
塩塚のいわれ ~桃山町(現紀の川市)最上~ - 生石高原の麓から
- 第二次龍門山の戦いの後、湯川氏は北朝方としての姿勢を貫き、室町幕府では「奉公衆」と呼ばれる将軍直属の武官に連ねられるようになった。これは、有田地方において同様に強力な在地領主であったにも関わらず、南北朝時代後半になると氏族内が南朝方・北朝方にわかれて対立したことなどから急速に勢力を失っていった湯浅氏とは対照的である。
湯浅氏 - Wikipedia
- 紀伊国の守護職は一時期を除いて※畠山氏が務めており、湯川氏は畠山氏の家臣と位置付けられていたが、これは形式的なものであり、湯川氏は有田・日高地方の支配権を相当程度掌握していたものと考えられている。このため、湯川氏が中紀地区において実質的に「戦国領主」の地位を有していたとする見方もある。
※1373 - 1378 細川氏春・業秀
1378 - 1391 山名義理
1392 - 1399 大内義弘
- 天正2年(1574)、その前年に行われた「槇島城の戦い」で織田信長に敗れて京都を追放された室町幕府第15代将軍足利義昭が紀伊国の興国寺(現在の由良町)に入った。これは室町幕府に忠心篤い湯川氏の勢力を頼っての事であった。義昭は後に芳養荘(現在の田辺市芳養)の泊城に移り、天正4年(1576)に毛利輝元を頼って備後国鞆(現在の広島県福山市)に移るまでここに滞在するが、芳養荘もまた湯川氏の勢力下であり、将軍義昭が湯川氏を非常に信頼していたことが伺われる。
- 道成寺(日高川町)に伝わる道成寺縁起絵巻(国指定重要文化財)の奥書によれば、足利義昭は興国寺滞在中に同絵巻を見たいと所望し、当時の道成寺の住職が興国寺に赴いて絵巻を披露したという。義昭は「日本無双の縁起なり」と絶賛し、巻末に花押を記すとともに、住職に太刀、馬、杯を褒美として授けたとされる。しかしながら、その太刀については、平成29年(2017)に和歌山県立博物館が鑑定を行ったところ、「来國光(らいくにみつ)」との銘があるものの偽作であったとの結論が出された。
- 天正13年(1585)、豊臣秀吉は、根来衆・雑賀衆らの勢力圏にあり未だ秀吉の支配下に属していなかった紀伊国に攻め込んだ。これが秀吉の紀州征伐(天正5年(1577)の織田信長による紀州攻めと区別するため「第二次紀州征伐」と呼ばれることもある)である。秀吉の軍勢は、根来寺、太田城を落とした後、紀中、紀南地方へも攻勢をかけた。本文では湯川直春はこの戦いで討ち死にしたとあるが、現実には上記で引用したパンフレットの記述にもあるように湯川(湯河)氏は最後まで秀吉軍に屈せず抵抗を続けた結果、和議を結び所領を安堵されている。
日高郡でも3月23、24日頃には上方勢が来襲し、湯河領に侵攻した。直春は防ぎ難いとみて小松原の居館も亀山城(いずれも現御坊市)も自焼して逃れ、伯父の湯河教春の守る泊城(現田辺市)へ後退した。しかし泊城にも仙石秀久・杉若無心が攻め寄せ、28日までには城を捨てて退却し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へと向かった。田辺に入ってきた上方勢3,000余人は同地の神社仏閣をことごとく焼き払い、その所領を没収した。
牟婁郡(熊野地方)では、口熊野の山本氏が湯河氏に同調して徹底抗戦した。上方勢は泊城占領後に二手に分かれ、杉若無心はおよそ1,000人を率いて山本康忠の籠る龍松山(市ノ瀬)城(現上富田町)に向かい、仙石秀久・尾藤知宣・藤堂高虎は1,500人の兵で湯河勢を追った。
4月1日、仙石ら三将は潮見峠(田辺市中辺路町)において湯河勢の反撃を受け、退却した。同じ頃、杉若勢も三宝寺河原(現上富田町)で山本勢に敗れ、討伐戦は頓挫する。だが湯河・山本勢にも上方勢を駆逐するほどの力はなく、この方面の戦いは長期化することになった。(略)
4月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。9月24日、榎峠の合戦で湯河勢は敗れて山中へ引き籠った。だが同月末には再度攻勢に出て、討伐に当たった杉若無心・桑山重晴・美藤(尾藤)下野守らは苦戦を強いられた。結局上方勢は湯河氏らを攻め滅ぼすことはできず、和議を結び湯河氏らの本領を安堵した。
翌天正14年(1586年)、湯河直春は死去した。直春の死については毒殺説と病死説がある。
湯河氏は直春の子湯河光春(勝春)が3,000石を安堵された一方で、山本・貴志・目良・山地玉置氏は没落した。神保・白樫氏ら早期に降った者は所領を安堵されたが、和佐玉置氏は1万石と伝えられる所領のうち、安堵されたのは3,500石だった。
毒殺説
『湯川記』などによると、天正14年2月、直春と山本康忠は本領安堵の確認のために大和郡山城に赴いて羽柴秀長に面会した。しかし対面後もそのまま旅館に留め置かれ、7月16日に至って毒殺されたとする(『戦国合戦大事典』p.328)。
病死説
『渡部家文書』によると直春は秀長によって5,000石を安堵されたが、翌14年4月23日に病死したとする。また直春が本当に毒殺されたのなら、湯河一族がその後も豊臣氏や藤堂氏に多数仕えていることの説明がつかない(『戦国合戦大事典』pp.328-329)。
- 本文で、「朝日さす、夕日輝やくその下に、黄金千両、後の世のため」と言い伝えられているとあるが、これは通称「朝日長者」といい、全国に存在する伝承である。
朝日長者
伝説上の人物。
屋敷内などに財宝をうめたとされる。財宝の埋蔵場所を暗示する「朝日さし夕日かがやく木の元に」の歌とともに日本各地に伝承されている。稲作儀礼にともなう太陽信仰と関係しているといわれる。講談社 デジタル版日本人名大辞典+Plus
- 極めて珍しいが、「朝日長者」の伝説が現実のものとなった例はある。和歌山市の高積山では、「朝日サシ夕日輝ク其ノ中ニ大判千枚小判千枚朱8石(3石)オハシマス」との伝承に基づいて発掘を行ったところ、総数15,000枚の古銭(主に宋銭)が出土したという。
- メモ欄中、南海白浜急行バスは現在熊野御坊南海バス阿尾線となっている。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。