生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

雷につかまれた話 ~日高町志賀~

  にまつわる話は多いが、日高町で「雷の話」といえば、決まって、次のお話が登場する。

 

 ある晩のこと、雷が大の苦手の女のところへ雷が落ちた。女は気を失い、しばらくして気がつくと、野原の真ん中に立っている。遠くに明りを見つけ、ようやくたどりついたその家の女に宿を頼むと「ここは雷の家で、私は雷の嫁さんにされてしもうた。雷が帰ってくるまでなら」という。帰ってきた雷をみた女は一目散。途中、があったので「雷の嫁さんにされるよりは…」と飛び込むと、何と雲の切れ目。落ちたその家の人に「むかし雷が落ちたとき、嫁さんが消えた」と聞いて墓場へ行くと、草ぼうぼう。「なんと可哀そう」と草を引こうとしたら、隣りに寝ていた亭主の髪の毛をワシづかみにしていたとか。

 

何とも長いながーいを見ていたというお話だ。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

  • この話は、日高町が編纂した「日高町」に同名の「雷につかまれた話」として次のように記述されている。

雷につかまれた話

 は昔は空を飛ぶを想像したもので、昔の雷の絵もよく太鼓を持った鬼のような姿に書いている。それで雷は雲にのって空を飛び回り、太鼓をたたいて回り、地上に降りては、人のおへそを取り、ときどきは女の人をかどわかしたとも伝えられている。
 おへそは雷の大好物であるとのこと。ある晩のこと、女の人が寝ていると、急に大雨が降り出し、大きな音を立てて、雷が鳴り出した。その人は、こわくてこわくてしかたがない。寝床でふるえていると、耳も裂けんばかりの音とともに雷が落ちた。とうとう女の人は気を失ってしまった。しばらくして気がついてみると、なんと見知らぬ広々とした野原に立っているではないか。お日様は気持ちよく照らしているが、見渡すかぎり広々として家も人の姿も見つからない。ただ一筋の野中道があるだけであった。どうしたらよいか、困り果てていろいろ思案したが、よい考えも浮かばない。しかたなく足にまかせて、とぼとぼとあてもなく歩き始めた。行けども行けども、一軒の家も見あたらない。日ははや西に沈んで暗くなってきた。どうしてよいものか途方にくれているとき、はるか向こうに明かりらしいものが見えた。それを頼りに行くと一軒の家があった。早速戸をたたいた。すると女の人が出てきた。
 その人は今までの様子を話して宿を頼んだ。するとその人が言うに「私もあなたのように、雷につかまれまてここへ連れてこられ とうとう雷のお嫁さんにされてしまったのです。これはの家です。いま雷は仕事に行って留守ですから、早く逃げなさい。逃げないと私のように雷のお嫁さんにされてしまうよ。」といったが、夜中のこと、どうして逃げてよいかわからない。しかたなくせめて少しの間でも休ませてくれと頼んだ。すると雷のお嫁さんは気の毒に思ったのか「それでは今晩は雷は留守で明日の朝早く帰ってくるから、雷の音がしだしたら早く逃げなさい」といって座敷に上げてくれた。「さぞ腹がへったでしょう。なにもありませんが」といって、出してくれた食物はちょうど巻貝のようなものである。いったいなんだろうと思って食べてみると、おいしい、一日中なにも食べてなかったので、すっかり食べてしまった。
 あとで聞いてみると人間のおへそだとのこと、食べ終わって二人は地上のことを話し合いながらいろいろ雑談に時を過ごした。女の人は雷のお嫁さんにいろいろ雷のことについて聞いた。
 「雷さんはいったいどうして空を飛ぶのか、また雷さんはどうして大きな音を出すのか」と雷のお嫁さんは座数の片隅に置いている、たんすのいちばん上の引出しを開けた。中にはたくさん着物が入っている。この着物を着れば雲の上をどこへでも自由に飛べるんだと、二番目にはたくさんの太鼓やばちが入っていた。雷さんはこの太鼓をたたくと大きな音が出るんだと、三番目にはおへそ、四番目はふんどし、五番目は見せてくれない、尋ねてみると、ふんどしから下は見せるものでないという。話はいつまでも続いていると、向こうの方から、かすかに音が聞こえ始めた。
 雷のお嫁さんに「さあ早く逃げなさい」と言われて礼もそこそここに飛び出して、一目散に走り出した。しかし、それを知った雷は追いかけてきた。雷にはかなわない。だんだん近づいてきた。夢中で走っていると前は川である、雷のお嫁さんにされるより飛び込んで死んでやれ、と思って飛込んだ。すると川と思ったのが雲の切目で、まっさかさまに地上に落ちてきた。はっと思って付近を見渡すと、なんと自分の家の前ではないか。
 がらっと障子を開けて入ると、一人の女の人が出て来た。見知らぬ人である。「なにか御用ですか」という。今までのことを話して「これは私の家に間違いありません」というと、その人は「いや私の父もおじいさんもこの家に住んでいた、あなたのようなかたは知りません」という。しかたなく家を出て、どことなく歩いて行くと、道を通る人はだれも知らない。悲しくなって道ばたで、しくしく泣いていた。するとそこへおじいさんが通りかかりわけを尋ねられた。女の人は、いままでのことを話した。するとおじいさんは「そうですか、お気の毒に私ももう百になりますが知りません。ただよくおばあさんが話してくれたことがあります。私のおばあさん子供のころ、大雷があって、あの家に落ちてお嫁さんが急にいなくなったと」「それであのお寺へ行けば、わかるかも知れないよ」と教えてくれた。そうだお寺に行けば、墓場がある。私の家の墓もあるに違いないとお寺の墓場に行くと、荒れ果てて草でもぼうぼうと生えた中に、わずかに墓が残っている。「ああこのお墓だ、お気の毒にこんなに、荒れ果てて、草でも引いてお墓のお掃除でもしよう」と思って、草をつかんで引いた。すると急に「いたいいたい、なにすりゃ」との声に気がついてみると、長い長い夢でそばに寝ていた旦那さんかくしの毛を引いていたという。

 

  • 最後の「かくしの毛」とは陰部の毛のことで、いわゆる「サゲオチ)」になっている。全体的に落語的な構成になっているが、原典となった物語、あるいはここから派生した物語が他に伝えられているかどうかは不明。

 

  • 雷を司る神である「雷神」について、株式会社平凡社の「百科事典マイペディア」では次のように解説している。

雷神(らいじん)

雷(かみなり)の神。日本で古くは雷を神威の表現,天神の降臨と見,鳴神(なるかみ),いかずち(厳霊の意)と称した。また稲妻などの語が示すように稲や水の神で,蛇形小童巨人などとも考えられた。のち御霊(ごりょう)信仰と結びつき,非業の死を遂げた菅原道真の怨霊(おんりょう)を雷神としてまつった。雷神を連鼓を負って天空をかける姿に表すのは仏教とともに入った思想で,中国では雷を雷獣雷神雷公雷師雷祖)のしわざとした。ギリシアゼウス,ローマのユピテル北欧神話トールもその強力な神性を雷で表現する。
雷神とは - コトバンク

 

  • 中国における初期の雷神信仰については、劉枝萬氏の「雷神信仰と雷法の展開(「東方宗教」 Vol. No.67 日本道教学会 1986)」において次のように紹介されている。

 早期の雷神としては、「山海経(筆者注:せんがいきょう 前4世紀 - 3世紀頃の地理書)」に、雷澤龍身人頭の雷神があり、また黄帝雷祖を聚めたと見えており、東海流波山雷獣雷神であると解されている。「楚辭(筆者注:そじ 戦国時代(前5世紀 - 前221年)頃の詩集)」「離騒(筆者注:りそう 楚辭に収められた長編の叙事詩」にも雷雨を主る神である雷師が登場し、「准南子(筆者注:えなんじ/わいなんし 前漢(前206 - 8)に編纂された思想書」には後世最も普遍的な名称となる雷公が見えている。
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  • 我が国では、「古事記」に、伊邪那岐命(いざなぎの みこと)が亡妻・伊邪那美命(いざなみの みこと)を追って黄泉(よみ)の国に行った際、妻の体に蛆が集まり、頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲(裂)雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神、という8柱の雷神火雷大神 ほのいかづちのおおかみ)が生じている伊邪那美命の姿を見た、という物語が描かれている。古事記には雷神の姿に関する具体的な記述はないが、国学院大学古事記学研究センターの「神名データベース」では次のような考察がなされている。

八雷神(やくさのいかづちのかみ/やくさのいかずちのかみ)

 神話や伝承の中で、雷神竜蛇神として姿を現すことが多く、雨や水を掌る神としての性格がうかがわれるが、この八雷神が実際にどのような姿や性格の神として考えられるかは定かでない。その実体についても、雷の神であるとする説と、雷そのものではなく悪霊邪気や魔物、鬼形の類であるとする説がある。
(中略)
 雷神が竜蛇の姿を持つとされるのは、古代中国でも同様で、両国間の雷神には、様々な要素において性格の共通性が見受けられることから、その信仰の交流も考察されており、八雷神もまた、中国の思想の影響を反映しているとする説がある。また他に、中国では、雷を鶏や鼬・狸・犬・猫といった小動物と結びつける考え方があり、日本では童子の形で出現したという例が説話集や民間伝承に見られる。
八雷神 – 國學院大學 古事記学センターウェブサイト 

 

  • 上記のように、当初は竜蛇の姿を持つとされた雷神が現在のような鬼形へ変遷した過程については、「高等学校 世界史のしおり 2012年度 2学期号」の「世界史そのまんま美術館」において樋口美世氏(早稲田大学大学院博士課程)が西方文化の影響を受けたものとする説を述べている。

風神雷神図の伝播と俵屋宗達筆「風神雷神図屛風」

 風や雷などの自然現象を擬人化する文化は、人類共通のものであった。ギリシャ神話(前9〜前8世紀頃体系化)には、東西南北それぞれを支配する風の四神が登場する。とくに春を告げる西風ゼフュロスルネサンス(15世紀後半)の画家、ボッティチェッリ作「ヴィーナスの誕生ウフィツィ美術館蔵)に描かれ、広く知られている。
 西北インドに興ったクシャーナ朝1〜3世紀頃)ではギリシアから伝わってきたヘレニズム彫刻の影響を受けて仏像彫刻が始まり、ガンダーラ美術が栄えた。カニシカ王(2世紀頃)の時代の貨幣にはギリシア・ローマの諸神が打ち出されており、マントを広げた男性姿の風神も確認されている。西方の神々を取り入れたインドの神々は仏教とともに中国・日本へと伝わった。
 やがて中国の仏教美術において、鬼形の風神雷神をセットで表す図像が生みだされた。最初期の図像は敦煌莫高窟249窟(6世紀/中国、甘粛省に確認できる。日本では、平安から鎌倉時代にかけて「千手観音二十八部衆」という仏画が盛行したが、鬼形の風神雷神二十八部衆の中に取り込まれ、図像として定着していった。
 このように世界史における大きな東西交流の中で風神雷神の図像が伝播し、東方の終着点、日本において俵屋宗達(生没年未詳、16世紀後半 〜 17世紀前半)筆「風神雷神図屛風」は生まれた。これまでに、京都・三十三間堂妙法院の「風神・雷神像」(13世紀/木像/二躯)や、北野天満宮の由来を記した弘安本系「天神縁起絵巻」(13世紀/東京国立博物館ほか)に表わされた雷神の姿などが、宗達筆「風神雷神図屛風」の典拠として指摘されてきた。宗達はこれら仏教図像の伝統を受け継ぎながら、金地の無背景に二神のみをクローズアップして対峙させ、新しい風神雷神図として蘇らせたのである。
帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2012年度 2学期号 

 

  • 地上にいる女が雷の妻になる話としては、中国の宋代の学者徐鉉(じょげん 916 - 991)が記した伝記小説集「稽神録(けいしんろく)」に次のような話が掲載されている。

 番禺のある村で、老婆が昼食をとっていると、にわかに土砂降りとなり真っ暗になった。雨が上がると娘の姿がなく、老婆は必死に探したが見つからなかった。それから一ヵ月ほどたった昼日中に、再びあたりが暗くなり、娘がきれいに着飾って現れた。老婆は狂喜して娘を迎えたが、娘は「私は雷神の妻になりました。こうして挨拶に帰ってきましたが、もう二度と帰ってくることはありません」と言い再び去って行った。

筆者注:この文章は、茨城大学名誉教授で医史学者の真柳誠氏が管理するWebサイトのうち「指導学生と論文」のページに掲載された寺門瞳氏(98年度学部卒)の「中国の妖怪とその伝承-女妖怪と水」から引用した。
指導学生と論文

 

  • 雷が人間の臍(へそ)を取るという話がいつ、何から生まれたものかは不明。Wikipediaの「雷神」の項では次のように解説されている。

 ヘソを取られるという俗信が何から生じたものかは不明である。一説では雷に打たれて死んだ遺体は臍のあたりがあたかも奪い取られたように真っ黒に焼け爛れることから、こうした伝承が生じたといわれている。また別の説では、寒冷前線による雷雨の場合、前線通過後、気温が急激に下がることが多い。このとき子供が腹を出していると、下痢を起こしやすくなることから、それを戒めるためともいう。
雷神 - Wikipedia

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。