生石高原の麓から

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産湯の話 ~日高町産湯~

  夏。産湯(うぶゆ)の海は、若者たちでにぎわう。海と山にはさまれた、ひっそりとした集落。真っ赤な外車やスポーツカーで乗りつけた若者たちは、決まって聞くという。「どうして産湯というの?」。

 

 その昔、誉田別命(ほんだわけのみこと=後の応神天皇の供をして比井の浦を訪れた武内宿称が、この地で命のために産湯を使ったことから「産湯」と呼ばれるようになったといい、そのとき湯に用いたという「産湯の井戸」も残されている。このいわれがあるせいか、ここでは今にいたるまで「難産なし」と伝えられている。また、神をまつるのに湯立てをすることも少ないといわれる。

 

(メモ:紀伊内原駅近くの国道42号線から西へ約6キロ。国鉄御坊駅から南海白浜急行バス阿尾行で産湯下車。西山遊歩道の登山口もここから。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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紀伊国名所図会 後編五之巻 産湯井 榕樹(あこうのき)
国立国会図書館デジタルコレクション)

  • この物語については、日高町が編纂した「日高町」の「産湯八幡神社」の項に次のような記述があり、神功皇后がこの地で誉田別尊(後述)を出産し、産湯を使ったとの社伝があるとする。また、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」によれば、当地では産湯を湧かすために用いた火を絶やすことなく伝えていたとするが、現状は不詳である。

由緒沿革
 勧請年月等不詳だが、社伝によれば「神功皇后三韓ご征討から帰えらせ給い、難波より転じて当地に立ち寄らせ皇子(御祭神 筆者注:誉田別尊のこと)をご分娩、武内宿禰(後述)これを守護し奉りて暫く、駐まる。里人畏み、忌井をほり、忌火を燧(う)っておん産湯を奉った、こののち社殿を創設して崇献する」と
(地名産湯はこれに起因す、七ッ井戸の一つとして言い伝えられているものが一か所現存する)
 「紀伊風土記」によれば、郡中古祠として、産湯八幡宮以下十五社を「郡中にて著しき社なり本国神明帳に末官知神九社とあるは此社の内ならん」とあって当社をその筆頭にあげているが、現在これを尋ねるになんらの古文書も現存しない。
 また言う「村中古より今に至るまで難産の憂なしと云う、又皇子に産湯を奉りしより其の火を伝えて今に絶えず・・・・・もしたまたま火の消えし家は隣家に伝えしを取りて用う・・・・・千五、六百年を経て火を伝うることいと珍らしき風俗と云うべし。」とあり

 

  • また、同じく「日高町」には、郷土に伝わる伝説として「産湯の話」及び「七つ井の話」、「産湯井の話」が収載されている。

産湯の話
 比井浦の南四町にあり。この地はいにしえ武内宿禰(後述)誉田皇子(後述)をまもり奉り日高に来たり。御産湯を奉りし地なるをもって、これを村名によびきたるという。いまに産湯の井というあり。
 村中古よりいまにいたるまで難産のうれいなしという。また皇子に産湯を奉りより、その火いまに伝えて今に絶えず。故に村中火を打つこと絶えてなし。もしたまたま火の消えし家は隣家に伝えしを取りて用う。ただ田畑に出ずる者煙草などすうには火を打つことありという。また神を祭るに湯立をなすこと当村にはなし。これみな古の故事という。千五、六百年を経て火を伝うること、いと珍しき風俗というべし。
(筆者注:この記述は「紀伊風土記」の「産湯浦」の記述を転載したものと思われる)

七つ井の話
 神功皇后三韓征伐の帰り途、産湯の港に立ち寄られた。まだ産後日の浅い皇子に湯浴びをさせようと、井戸をさがされたが一つも見当たらぬので、家来に命じて井戸を掘らせた。ところが、いくら掘っても水が出なかった。場所を変えて二つ目、三つ目とつぎつぎ掘り続けたが、やっぱり水が出なかった。やっと七つ目に掘った井戸から水がわき出て、皇子は無事に湯浴びができたという。
 この井戸の底には皇后が乗られた船のひな形の石が埋められているという。

産湯井の話
(一)村中にあり。つぶれ井となりて形容のこれり。誉田天皇(後述)に御産湯を奉りしところと言い伝えて、村名これより出たり。
(二)二尾の庄、産湯村の北一町にあり。相伝う。産女ここにおいて子を産む。かの井をもって治す。故に名となす(二尾の庄は三尾の庄のこと)。

 

 

  • 仲哀天皇大中姫(おおなかつひめ)との間の皇子である忍熊皇子(おしくまのみこ/おしくまのおうじ)は、異母弟となる新たな皇子が誕生したという報を聞いて、神功皇后誉田別尊の母子を亡きものにしようと戦を企てた(忍熊皇子の反乱)。これを知った皇后は、臣下の武内宿禰(たけのうちの すくね)に命じて誉田別尊紀伊水門(きのくにのみなと 現在の紀の川河口付近か)へ避難させ、自らは忍熊皇子と戦うために難波(なにわ 現在の大阪湾)へ向かったが、船がうまく進まなかったのでいったん務古水門(むこのみなと 現在の兵庫県武庫川河口付近)に退却した。後に神の加護を得て船を進められるようになると、紀伊国の日高誉田別尊再会し、忍熊皇子との決戦のため進軍した。この出来事について、日本書紀巻第九では次のように記述している。

時に皇后熊王(いくさ)を起して待てりと聞しめして、武内宿禰に命せて、皇子を懷きて、横に南海より出でて、紀伊水門に泊らしむ。皇后の船、直に難波を指す。時に、皇后の船、海中に廻りて、進むこと能はず。更に務古水門に還りまして卜(うらな)ふ。
(略)
皇后、南、紀伊国に詣りまして、太子日高に會ひぬ。群臣と議及りて、遂に忍熊王を攻むとして、更に、小竹宮に遷る。

 

時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船𢌞於海中、以不能進、更還務古水門而卜之
(略)
皇后、南詣紀伊國、會太子於日高。以議及群臣、遂欲攻忍熊王、更遷小竹宮。

※筆者注:本項は上田啓之氏の個人サイト「岩倉紙芝居館 古典館」を参考とした
日本書紀 巻第九の一

 

 

  • 上記の武内宿禰にまつわる伝承によれば、武内宿禰に御子を託した神功皇后はいったん日高の衣奈(えな)へ迂回したのち、津田浦和歌山市安原地区)から再び紀伊国に上陸したといわれる。この他にも、神功皇后が上陸した、あるいは滞在したとする伝承を有する場所は県内に多数存在し、その多くに皇后と誉田別尊を祭神とする八幡神社が祀られているが、個人サイト「神奈備にようこそ!」によれば次のような神社に伝承が伝えられているとする。

加太淡嶋神社和歌山市加太)
射箭頭八幡神社和歌山市本脇)
本八幡宮(和歌山市西庄)
大年神社(和歌山市梅原)
玉津島神社和歌山市和歌浦中)
八幡神社和歌山市相坂)
武内神社(和歌山市安原)
且来八幡神社海南市且来)
岡田八幡神社海南市岡田)
粟嶋神社(海南市下津町方)
野上八幡宮海草郡紀美野町小畑)
志野神社(紀の川市北志野)
貴志川八幡宮紀の川市貴志川町岸宮)
隅田八幡神社橋本市隅田町垂井)
丹生神社(伊都郡高野町筒香
小竹八幡神社御坊市薗)
産湯八幡神社日高郡日高町産湯)
衣奈八幡神社日高郡由良町衣奈)
宇佐八幡神社日高郡由良町里)
潮崎本之宮神社(西牟婁郡串本町串本)
水門神社(西牟婁郡串本町大島)
紀の国の古代史  神功皇后、八幡神と武内宿禰/a>

 

八幡信仰
 全国各地に鎮座する八幡神社または若宮八幡社などの名でよばれる神社信仰。
 本宮は大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮で、八幡大神(はちまんおおかみ)比売大神(ひめおおかみ 筆者注:宗像三女神多岐津姫命市杵島姫命多紀理姫命)と同一神であるとされる)、神功皇后を祭神とし、八幡大神八幡大菩薩が信仰の対象。わが国の神社信仰のなかでもっとも普及した信仰で、全国に4万余の八幡社がある。八幡神は一般に戦の神仏教守護神といわれるが、その信仰の発生、発達は複雑で、海の神鍛冶の神秦(はた)氏の神焼畑の神ハルマンの神(筆者注:済州島などで信仰される神)などの諸説があった。
 記紀によると豊前国宇佐には宇佐津彦、宇佐津姫がみえ、宇佐国造が祀る宇佐神があった。しかし宇佐八幡宮の縁起には、571年(欽明天皇32)のころ宇佐郡菱形池(ひしかたいけ)辺に奇瑞を現す鍛冶翁(かじのおきな)がいて、大神比義(おおがのひぎ)が祈ると、3歳の童児が現れ竹葉を立てて八幡神応神天皇の霊であると託宣したとあり、その後は宇佐神は「やはた神」に隠れてしまう。

(中略)

 このころ蘇我馬子大神比義を宇佐に遣わし、「やはた神」に応神天皇の神格を与えたのではないかとみられる。
 同宮は712年(和銅5)に官社となり、天平年間(729~749)の東大寺大仏鋳造に協力してその鎮守となり、以後、国分寺を通じて八幡神は全国的になった。東大寺ができると749年に八幡神に一品(いっぽん)、比咩(ひめ)神に二品(にほん)の神階、翌年、当時最高の封戸(ふこ)1400戸が授けられた。
 以後国家の大事に関係し、託宣により道鏡(どうきょう)の天位の野望を退けた(筆者注:通称「道鏡事件」「宇佐八幡宮神託事件」)ので、宇佐へ恒例の勅使が続いた。この神に781年(天応1)菩薩号が贈られ、石清水八幡宮に勧請されると、皇室の太祖(たいそ)、第二の宗廟(そうびょう)と仰がれた。
 また、源氏の氏神となり、関東・東北地方に進出し、鶴岡八幡宮が勧請されると中世武士の崇敬を受け、「神は八幡」といわれ、全国に勧請された。

 

中野幡能著『八幡信仰史の研究』上下(増補版・1975・吉川弘文館)」
八幡信仰とは - コトバンク

 

  • 前述の日本書紀からの引用文中にある小竹(しの)については、御坊市小竹(しの)神社とする説のほか、紀の川市志野(しの)神社とする説、奈良県五條市西吉野町波宝(はほう)神社とする説、大阪府和泉市尾井の舊府(ふるふ)神社とする説などがある。これについては、個人ブログ「陵墓探訪記」の「宮都」の項に小竹宮の伝承地とされる4か所の探訪記が掲載されているので、こちらも参照されたい。
    陵墓探訪記
    小竹宮

 

  • 日本書紀では、上記で引用した文章に続いて「小竹祝(しのの はふり 祝は神職のこと)天野祝(あまのの はふり)を同じ墓に葬ったために、阿豆那比(あづなひ)という罪により、ずっと夜が続くという怪異が生じた」という物語が記述されており、小竹宮の神職と天野かつらぎ町天野の丹生津比売神社を指すものか)の神職を同じ墓に埋葬したことが怪異をもたらしたと伝える。なお、この記述については、研究者によっては「男色に関する我が国最初の記録である」とする見方もある。
    ※難波美緖「『阿豆那比の罪』に関する一考察」(「早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊 日本史東洋史西洋史考古学(早稲田大学大学院文学研究科 1996-2007.2) 早稲田大学リポジトリ

 

  • 産湯の井七つ井)のそばにはアコウ榕樹)の巨樹がある。上記にある「紀伊国名所図会」の図でも紹介されているとおり、古くから名木として知られていたようであり、個人サイト「巨樹と花のページ」によれば、幹周7メートル、樹高15メートル、推定樹齢400年とされる。
    産湯のアコウ

 

  • 産湯地区にある産湯海水浴場は、日高郡内では唯一の海水浴場。周辺には冬場が旬となるクエ料理を提供する民宿もあり、年間を通じて観光客が訪れる。

 

  • メモ欄中の西山遊歩道は、日高町美浜町の境界にある西山(328.7メートル)の山頂へ続く歩道。西山は、日本本土から南西諸島・台湾へかけて「渡り」を行うことで知られる蝶「アサギマダラ」の飛来地として知られ、現在、頂上付近には「西山ピクニック緑地・逍遙の森」が整備されている。

 

  • メモ欄中の南海白浜急行バス阿尾行は、現在熊野御坊南海バス阿尾線となっている。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。