生石高原の麓から

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天狗の建てた寺 ~由良町門前~

  虚無僧の本山として知られる。尺八金山寺みそしょうゆの元祖寺ともいわれる興国寺だが、かつては何度も火災にあい、そのたびに壇家や村人たちは途方に暮れていた。

 

 その興国寺を再建したのは、天狗たちだったという。一人の旅僧の教えで、寺僧が上州赤城山に天狗をたずね、懇願した。やがて約束の夜がきた。村人は灯を消し、戸を閉めて家に閉じこもった。外では一晩中、人の動く気配や、ノミ、ツチの音がしていたが、翌朝、立派な七堂伽藍が建っていたという。


 興国寺がよく焼けたのは、寺を開いた法燈国師の「法燈」の字が「水が去って火が登る」となっていたからだ、ともいう。

 

(メモ:興国寺は臨済宗法燈派の本山。鎌倉三代将軍、実朝の菩提をとむらうため、家臣の葛山五郎景倫が建立、のちに法燈国師に寄進した。旧暦7月15日の灯ろう焼きが有名。国道42号線と国鉄紀勢線紀伊由良駅から徒歩約10分。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年) 

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紀伊国名所図会 後編四之巻 鷲峰山興国寺全図
国立国会図書館デジタルコレクション)

 

  • この物語については、由良町が編纂した「由良町」の「由良町の民話」の項に「天狗の建てた寺」として次のように記載されている。これは江戸時代に刊行された説話集「新著聞集(しんちょもんじゅう)」にある「天狗一夜にて法灯寺をつくる」という物語を原典とするものである。

天狗の建てた寺
 紀州有田郡(注、海部郡の誤)由良の法灯寺(注、興国寺のこと)は七堂伽藍の地なりしが、回禄筆者注:中国の火の神、転じて火災にあうことを指す)に度たび及びしかば とり立つべき便もなくて草葦にて仮の庵のありしに、ある時一人来て住持(筆者注:住職のこと)と物語するついでに、この寺は幾たび建立あるとも火災あるべし。その故は開山法燈國師の文字、水去りて火登ると書けばなり。ただしこの寺、一度造営の志あらば我造立してまいらせん。さりながらそれもついには焼失すべし。ただし、護摩一宇は残りなん。住持のいわく、それより以来、我が願望これにあり。昼夜心をさしおくことなし。たとい焼失すとも修造せんこと、ひとえに願い、とあれば、しからばいと安き事なりと領状せられしと。さる程に御坊は何れの人ぞと問われければ、我れは上州(栃木県)赤木山の杉の坊と申す者なりとて、いとまごいして帰られし。

 さらばこの程の大儀を造営あるべしと宣いしに、礼謝にとて両僧をはるばると上州につかわしける。赤木山にいたり、里人杉の坊は、と問えば、その御方は大天狗にておわしますとて、舌をふるいて怖れし。されども使を努めずして帰りがたしとて、峨々たる石山を伝い、つたかずらの根にとり付きて峯によじのぼりし。九折なる険難より、山伏二人出来たり、法燈寺の使僧これへ、我々に案内せよと杉の坊申されしとて、先立って行くに、金銀珠宝の宮殿楼閣、いかさま浄土の壮ごんもかくやと目を驚かし肝をひやすに、さんごの橋を渡り、めのうの階を上がりて杉の坊の御前におののき出たりしに、使僧遠境をしのぎよく来たれり。御堂建立の事に来年いついつの頃、住持も里へ下り里人も暮より火を消し、人おとずるべからずと、堅く言いふくめられし。そのまなざし金色の光あり。鼻高うして恐ろしさ言うばかりなし。
 先の山伏二人来たりて、送り参らせよと申さるるなり。我が肩に取り付き目を閉じて物見することあるべからずと教えしままに取り付き、ふた時ばかり虚空を飛行する様におぼえし。足の地に着く所にて目を開き見れば、山伏はなくて法燈寺の庭にぞ立ちたりける。

 やがて返事のあらましを申して、その後約束の月日になりしかば急ぎ里に下だり、所の者にもいい聞かせ静かにありしに数十万人の声して、宮木ひく音、手斧、つち音とりどりにせしが、夜明けて見れば七堂伽藍残る所なく、金銀をえり、珠玉をみがきて建てられしかど、言うにたがわず、やがてまた、回禄におよびしが護摩堂はつつがなく、今に残りてありとなん。
                『新著聞集』

 

  • 新著聞集(しんちょもんじゅう)」は、江戸時代の寛延2年(1749)に刊行された説話集で、各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めたもの。「天狗一夜にて法灯寺をつくる」は、巻三「勝蹟編第六」に収められている。

 

  • 「新著聞集」の作者は不明だが、通説では、紀州藩士の学者・神谷養勇軒(かみや ようゆうけん 1638 - 1717)が、俳諧師椋梨一雪(むくなし いっせつ、1631 - 1706〜1708頃)の記した「続著聞集」を再編集して出版したものと考えられている。但し、続著聞集の原本は現存せず、十巻中五巻の写本が残存するのみであるため、前述の法灯寺の話が続著聞集に収められていたかどうかは不明である。なお、新著聞集と続著聞集等との関係については、下記リンク先にある田中葉子氏の「『新著聞集』の成立 : 『犬著聞集』『続著聞集』との関連から」に詳しい。
    『新著聞集』の成立 : 『犬著聞集』『続著聞集』との関連から - 九大コレクション | 九州大学附属図書館
    (「本文情報を表示」から「p027」をクリックすることでPDFファイルをダウンロード可)

 

  • 興国寺は、安貞元年(1227)に「西方寺」として創建されたが、正嘉2年(1258)に心地覚心(しんち かくしん 没後に法燈国師諡号を賜る)が住職となり、覚心をもって開山第一世とする。その後、與国元年(1340)に後村上天皇から「與国寺」の寺号を賜り、以後「興国寺」と称するようになった。こうした経過について、「由良町」では次のように記述している。

鷲峰山 興国寺

由緒沿革
 鎌倉三代将軍、源実朝の菩提を弔うため、家臣であった由良の庄の地頭、葛山五郎景倫願性)が安貞元年(1227)に創建したもので、当時は真言宗西方寺」と称していた。
 31年後の建長6年(1254)の国から帰国した心地覚心法燈国師)を西方寺住職に迎えようと高野山禅定院(のち金剛三昧院に懇請し、覚心は正嘉2年(1258)に入寺、開山第一世となる。また、当寺の宗旨を禅宗に改めた

 覚心は諸堂を建立、改修するとともに、学徳高く、全国から集まる学僧、道俗も多く、「関南第一禅林勅願道場」と称されるに至った。更に覚心の感化によって、禅宗に改宗する寺院も多く、末寺は最盛期には百数十か寺を数え、寺領も由良の庄全域に及んだといわれている。また、亀山上皇の信任も厚く、永仁6年(1298)入寂ののち、「法燈禅師」の諡号を受け、後醍醐天皇から「法燈円明国師」の号を受けた。
 西方寺は、與国元年(1340)に後村上天皇から「與国寺」の寺号を賜り改号した。

 天正13年(1585)羽柴秀吉紀州攻めの兵火をこうむり、堂塔と旧記、宝物のほとんどを焼失した。その後慶長6年(1601)紀州藩浅野幸長(よしなが)から、寺領13石を寄進され、和歌山の龍源寺臨済宗妙心寺派)住持の天叔(てんしゅく)和尚により復興されたが、盛時にははるかに及ばない状態であった。その後の住職も復興に努力し、藩主徳川頼宣(よりのぶ)等の援助により、仏像の修復や諸堂の増改築が行われ、現在に至っている。

(中略)

 なお、国師は我が国「普化尺八」の始祖でもあり、その法を継ぐ者は虚無僧の本寺である当寺で授戒する慣習が江戸時代後期からとられていた。また、国師が宋から習得してきたという「径(金) 山寺味噌」、「しょう油」の発祥の寺でもある。

 

  • 興国寺を創建した葛山五郎景倫(かつらやま ごろう かげとも)は、駿河国駿東郡葛山(現在の静岡県裾野市を本拠とする武家葛山氏に属する武士であった。景倫が仕えていた鎌倉三代将軍源実朝は、この頃、宋の高僧から前世は宋朝医王山の長老であったと言われたことからへの関心が非常に高まっており、一時は実朝自身が船を仕立てて渡宋しようとまで試みたものの、その船が海に浮かばず計画が頓挫したため、代わって景倫に宋へ渡るよう命じた。ところが、景倫博多渡航準備を行っていたとき(一説には紀伊由良に滞在していたとき)、実朝は僧侶・公暁(くぎょう/こうきょう)によって暗殺されてしまったのである。この知らせを聞いた景倫は、宋への渡航を取りやめて剃髪し「願性(がんしょう)」と称して高野山に入り、金剛三昧院(もともとは北条政子源頼朝菩提のために「禅定院」として建立したが、実朝を供養するため「金剛三昧院」と改称された)の諸堂建築に携わった。後に景倫覚心の宋への渡航を支援したとされるのは、実朝景倫自身の渡宋計画を覚心に仮託したものと考えることもでき、また実朝の遺骨(伝によれば、景倫と同じく近臣であった鹿跡二郎実朝の頭骨を掘り出し、景倫に渡したとされる)を宋で納骨することによって主君の願いを成就させようとしたものであろう。こうした経緯及び興国寺(臨済宗法燈派)のその後の活動について、「由良町」では次のように記述している。
    参考:法燈国師(覚心)が創建した名刹 興国寺 〜径山寺味噌と虚無僧と天狗〜 | わかやま歴史物語

興国寺の成立とその発展

 法燈派本山興国寺は、もとは「西方寺」と称し、安貞元年(1227)に創建された真言宗の寺院であった。鎌倉三代将軍、源実朝の菩提を弔うため、近習であった葛山五郎景倫(かつらやま ごろう かげとも)が建立したものである。
 景倫は、承久元年(1219)に、実朝が暗殺されたのを機に出家し、「願性(がんしょう)」と称して高野山に入り、金剛三昧院雑掌職(筆者注:荘園の管理に携わる役人)にもなっているが、実朝の母、北条政子がその資として、由良の庄の地頭職を与えたと伝えられている。
 願性は、宋の国へ遊学した覚心に、実朝の遺骨納骨を託するとともに、資金面でも援助していたと思われる。帰国後も金剛三昧院の後継者として積極的に外護(げご)した。その後、同院の住持(住職)であった覚心西方寺の開山住持に講じた。
 『日本禅宗の成立』によると、鎌倉時代における高野山の聖たちは、密教的色彩を残しながら、新しい方向を模索していた。禅の専修化を進める「座禅之梵侶」、あるいは、念仏の専修化を進める「念仏之上人」など、新しい運動を進めつつあった。入宋して禅宗印可(筆者注:悟りを開いたとして師から与えられる書面)を得て帰国した覚心は、まさに「座禅之梵侶」にふさわしい資格を得ていたと思われる。

 西方寺の住持になった覚心は、その後宗旨を禅宗に改め、めざましい活躍をしていく。
 紀伊半島における法燈派末寺分布を調査した『紀伊半島の文化史的研究 民俗編』には、近世の末寺帳等の資料により、117か寺の末寺があったことを確認している。特に紀伊半島における末寺分布は、熊野信仰や伊勢神宮八幡神などと深いかかわりをもちながら定着していったことを明らかにしている。
 禅宗が新仏教として、地方展開していった中で、法燈派の動向が大きな役割を果たしたといえる。

 しかし、法燈派の本山である興国寺が、天正13年(1585)に羽柴秀吉紀州攻めで大打撃を受けた。その後、復興は妙心寺派の勢力によって行われ、法燈派の法脈はとだえた。近世は妙心寺派に属し、昭和の一時期に法燈派を再現したが、昭和60年(1985)に再度妙心寺に帰属した。

 

  • 天狗」は、日本の民間信仰にあらわれる神や妖怪の類で、一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。中でも強力な神通力を持つものは「大天狗(おおてんぐ、だいてんぐ)」と呼ばれており、優れた力を持った仏僧、修験者などが死後に大天狗になるといわれることもある。八天狗として有名な大天狗は、「愛宕山太郎坊」、「比良山次郎坊」、「飯綱三郎」、「鞍馬山僧正坊」、「大山伯耆」、「彦山豊前」、「大峰山前鬼坊」、「白峰相模坊」とされるが、この中に「赤城山杉の坊」の名前はない。また、江戸時代中期に書かれた密教系の祈祷秘経「天狗経」には四十八天狗が登場するが、この中にも杉の坊の名は見られない。東京福祉大学・大学院紀要に掲載された栗原久氏の論文によれば、群馬県太田市世良田町に次のような伝説があるとされるので、これを引用する。
    参考:大天狗 - Wikipedia

6.天狗と寺院
6-1.大天狗・杉の坊
 赤城山には多くの天狗がいて、それを取り仕切るのは杉の坊という大天狗だという。
 そして、「赤城山秘文(筆者注:長楽寺に伝わる文書とされる)」によると、鎌倉時代中期の弘安年間(1278年~1288年)の頃、世良田村(現 太田市世良田町)長楽寺法照禅師赤城山に登ると、一人の行者の出迎えを受けた。行者は、30年以上も山にこもり、火食を避け、谷水を飲み、どんな寒さでも凍えることもなく、多くの霊力を備え、赤城の地神系の天狗を友としていた。行者は法照の弟子になり、了儒法号を貰った。人々は行者を神のように敬っていたという。(太田市世良田町の伝説)

※栗原久「人々を楽しませる赤城山の魅力 2.赤城山をめぐる伝説とそのルーツの考察(東京福祉大学・大学院紀要4(2),pp155-167,2014.3)
Academic Knowledge Archives of Gunma Institutes: 人々を楽しませる赤城山の魅力 2.赤城山をめぐる伝説とそのルーツの考察 

 

  • 和歌山大学教授の海津一朗氏を代表者とする研究グループによる「博物館と連携した学校史料を用いた地域教材開発プロジェクト : 和歌山歴史検定の実施 : 本日図書館にて開催中和歌山大学教育学部共同研究事業成果報告書 2019
    2019-02-16 )
    」では、興国寺の天狗伝承は後鳥羽上皇怨霊をベースにしたものであると解説されている。

幕府とー戦を構えて敗亡・流刑となった後鳥羽上皇は、無念のあまり天狗となって魔界を支配したという。由良の輿国寺には、後鳥羽の墓と天狗堂が作られている。天狗は、上州赤城山の天狗と契約したものと伝承しているが、後鳥羽上皇の怨霊をベースにしている。この寺は源実朝ゆかりの寺であるので、承久の乱を、後鳥上皇実朝という特異な人物・個性とあわせ考えて実感させたい。『MINE(筆者注:紀伊半島世界史研究会編「世界史とつながる日本史一紀伊半島からの視座」ミネルヴァ書院刊)』4章参照。

博物館と連携した学校史料を用いた地域教材開発プロジェクト : 和歌山歴史検定の実施 : 本日図書館にて開催中 - 和歌山大学学術リポジトリ

 

  • 深編笠をかぶり、尺八を吹きながら諸国を旅する姿で知られる「虚無僧こむそう」は、普化宗(ふけしゅう)の僧である。世は虚仮(こけ)で実体が無いと知り,心を虚しくすることからその名があるとされるが、托鉢(たくはつ 寄付)を請いながら諸国を行脚し、雨露をしのぐために薦(こも むしろ)を持ち歩いたから「薦僧(こもそう)」と呼ばれていたものが転じて「虚無僧」になったとも言われる。

 

  • 普化宗禅宗である臨済宗の一派と位置付けられているものの、檀家を持たず、読経の代わりに尺八を吹いて托鉢することを唯一の修行法にし、一切の仏教法事を営まないという異例の宗派であった。江戸時代には幕府との繋がりが強かったと言われ、慶長19年(1614)の「慶長之掟書」によって虚無僧の資格や服装などが詳しく定められる代わりに諸国通行の自由など種々の特権が与えられたとされる。これらの特権に加えて深編笠で顔を隠すことが常態であるため、虚無僧が幕府の隠密の役を務めていたとの通説があるが、その真偽は不明である。また、その大きな根拠となっている「慶長之掟書」については、原本が存在せず、各地に伝わる写本も内容がさまざまであるため、その存在自体に疑問が持たれている
    慶長之掟書 - Wikipedia

 

  • 明治時代になると、明治4年(1871)10月28日付けで太政官布告普化宗廃止」が発せられ、普化宗は廃止、虚無僧の活動も禁止されることになった。この布告には次のような表現があり、かねてから虚無僧の振る舞いに対する批判が強かったことが伺える。

凡そ釋氏の教法 中世に虚無僧と称する普化の一宗は
元来勤懲の教化を為さず
又四民の葬祭に関せず
独り有髪にして 身に袈裟を纏い 頭に天蓋を戴き 
唯宗門に宝器と唱する尺八の一管を吹調し
以て施物を四方に乞碌す
一世を浮食するのみ

(中略)

虚無僧と唱するもの 
従前多くは品行よろしからざる武士の流族に出て
自然平素の所業傲慢無礼に渉り
僻遠の村落托鉢歩行の節々
良民を苦しめ候趣 往々相聞え

筆者注:読みやすいように漢字及び仮名遣いを現代文に改めた
明治4年太政官布告「普化宗廃止の理由」 - 現代の虚無僧一路の日記(参考)  

 

  • 昭和25年(1950)になって、京都・東福寺塔頭である善慧院(ぜんねいん)に間借りする形で普化正宗総本山として明暗寺(みょうあんじ)が再興された。同寺はもともと建武2年(1335)に京都三条白川で創建されたと伝えられるが、明治4年太政官布告によって廃寺となっていたものである。これ以降、同寺が資格を認めたものに「吹禅行化免許之証」を発行することで再び虚無僧による行化(ぎょうげ 修行と教化、現在では主に托鉢のこと)が認められるようになった。

 

  • 尺八(しゃくはち)は、真竹で作られた縦笛の一種。中国を起源とする説もあるが、学術的には日本固有の楽器とする説が強い。古来、「尺八」と呼ばれた楽器としては、雅楽尺八一節切(ひとよぎり)尺八などがあったが、現在演奏されているのは、普化宗の虚無僧が使用している「普化尺八」のみである。「尺八」の名は、標準管長が1尺8寸であることに由来する。
    尺八 - Wikipedia

 

  • 虚無僧と尺八が興国寺をその由来と位置付けていることについて、前述の普化正宗総本山明暗寺のWebサイトでは次のように解説している。

明暗古典尺八の由来

 その淵源は、九世紀の中頃、唐の高僧普化(ふけ)禅師は常に鐸(筆者注:たく 大きな鈴のこと)を振り鳴らして
  明頭来也明頭打、暗頭来也暗頭打
  四方八面来也旋風打、虚空来也連架打
と云う「四打の偈(げ)」を唱えて、市中を行化(ぎょうけ)托鉢して居られました。河南府の張伯居士がその高僧を慕い、また、霊妙な鐸音を聞いて心を惹かれ弟子入を乞いましたが、許されなかったため、自己習得の吹管で普化振鐸の真髄を写しとって作曲したのが、後世普化尺八の根元曲となった明暗的伝三虚霊の一つ「嘘鈴」の曲だと云われています。

 我国への渡来は、心地覚心、のちに由良興国寺の開山となられました法燈国師が建長元年の春(中国の)宋に行った当時、張伯十六世の孫張参から張家伝来の「嘘鈴」の曲を習い、更に「国作」「理正」「宗恕」「法普」の四居士を伴い帰朝、この曲を法弟の寄竹了円(のちの虚竹禅師に授けられたのが日本への普化尺八伝来の始まりです。

普化明暗尺八|明暗導主会 

 

  • 貴志清一大阪府が管理するWebサイト「尺八吹奏研究会」の「会報No.340 熊野古道を歩く ~明暗寺の虚無僧が興国寺へと辿った道~」には下記のような記述があり、これによれば、江戸時代には、明暗寺(明治時代に廃寺となった旧・明暗寺)で住職の交代があった場合には必ず興国寺で受戒したとされる。
    尺八吹奏研究会

いつ頃からでしょうか、普化宗の開祖が中国唐代の普化禅師でそれを日本に伝えたのが鎌倉時代法燈国師という伝説が始まったのは。

いずれにしても江戸時代に虚無僧達は普化宗を名乗る訳ですから紀州和歌山県)由良の興国寺開祖の法燈国師をその開祖としました
京都明暗寺でも遠いですが紀州興国寺と本寺・末寺の関係を結びます

それにより、明暗寺で住職の交代があった場合は必ず京都から和歌山へ足を運びました。

虚霊山明暗寺文献〉によれば、
中興渕月了源(1695年より第十四世)定め置く家訓二十三ヶ条に、

住職継ぎ目の儀(新しい住職が決まれば)紀州日高郡鷲峯山興国寺へ登山せしめ、剃髪・受戒候上、入院いたし、妙法院宮二条両奉行所へ継ぎ目御礼申し上げ候定法をも厳重に相い守るべく候。 

このように決められています。
http://www.dental.gr.jp/bmbnt/bamboo340.htm

 

  • 現代の虚無僧一路の日記」という個人ブログでは、尺八都山流の家元・中尾都山氏宅に伝わる「淵月了源(筆者注:1627 - 1695 明暗寺14世、中興の祖)の申し伝え」という書(前項の「中興渕月了源定め置く家訓二十三ヶ条」と同じものか)の記述として次のような内容を紹介している。これによれば、江戸時代の元禄8年(1695)時点では興国寺と普化宗との関係は明瞭でなく、これ以降に本山-末寺の関係が構築されたものと考えられる。

淵月」の後継「月山宗桂」は、1695年、「淵月の申し伝えにより」、「淵月」の遺骨を、紀州由良の興国寺に分骨埋葬し、興国寺に対して「明暗寺の本寺」となってくれるよう申請している。興国寺としてはこの申し出を無視していたが、明暗寺より、「今後、明暗寺の看主は興国寺で得度受戒をし、死後は興国寺に埋葬してもらう。そのためのしかるべき金を納める」との申し入れで、3年後、明暗寺を末寺とした。
しかし、その後、興国寺の親寺、大本山妙心寺」から「明暗寺を末寺にするとは、いかなる理由か」と詰問を受けている。これについて興国寺側からはなんでも、その昔、つながりがあったようだが、文書が火事で焼けてしまって不明」と回答している。
明暗寺はなぜ興国寺を親寺としたのか - 現代の虚無僧一路の日記

 

  • 金山寺味噌きんざんじみそ)は、和歌山県のほか、千葉県、静岡県などで生産されている「なめ味噌」の一種。大豆・麦・米麹・塩にウリ、ナス、ショウガ、シソなどの野菜を加えて熟成させたもので、調味料ではなく、副菜として、あるいは酒肴としてそのまま食べるのが一般的である。また、金山寺味噌の製造工程で底に沈殿した液体が現在の醤油のルーツになったとも言われている。金山寺味噌は、覚心が中国の径山寺きんざんじ)から製法を学んで帰国し、現在の湯浅町をはじめとする興国寺の周辺地域に伝えたものとするのが通説となっており(諸説あり)紀州味噌工業協同組合のWebサイトでは次のように解説している。

鎌倉時代〜中国・金山寺、径山寺から日本に伝わった
紀州金山寺味噌の由来については諸説ありますが、なかでも有力とされているのが和歌山県由良町にある興国寺へ伝わったとされるものです。
鎌倉時代 建長元年(1249年)に宋(今の中国)に渡った法燈国師が「径山寺味噌」を日本に持ち帰り製法を伝えました。法燈国師由良町の「興国寺」を建立した僧、覚心のことです。その後、交通の便も良く、また水質が味噌醤油の製造に適していたという湯浅町やその他の地域に伝えられ、以来親しまれてきたとされています。

また、和歌山県高野山真言宗の開祖、空海弘法大師)が、遣唐使として入唐・勉学の折、(835年11月長安入り)唐の金山寺から持ち帰り、高野山開創後、大勢の修行僧を養う「僧坊食」として用い、その後修行僧が各地に広めたとされる説があります。

 

しょうゆの起源となった紀州金山寺味噌
当時の紀州金山寺味噌は、水分が多いものだったと言われます。紀州金山寺味噌の製造の際には樽底に沈殿した液汁がたまります。これをすくい取って舐めてみるとこれが美味しかったことから、試しにこれを調味料として煮炊きに使ったところ大層旨く、その製法が発達してきたのが、醤油の起源であると云われています。

紀州金山寺味噌の歴史|紀州味噌工業協同組合

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。