生石高原の麓から

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開山の天狗 ~由良町門前~

  由良町門前の「開山興国寺」。尺八を吹きながら、全国を托鉢して回る虚無僧の本山として広く知られているが、森閑とした境内にたたずむと、「沢山の天狗がすんでいた」という古くからの話が、いかにも現実味をおびてくる。

 

 この話は安政元年(1854)、日高地方を襲った地震にまつわる。


 大津波、山崩れ~。ぼう然と天を仰ぐ村人たちの眼に、突然、山の上にともった、二つの大きな明りが映った。「天狗さまが、火をつけてくれた」。闇夜に逃げ場を失なっていた村人たちは、その明かりのおかげで無事、避難することができたとか。

 

 興国寺には、2メートルをこす大天狗の面をまつった天狗堂があり、毎年1月15日には盛大な天狗まつりでにぎわう。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

興国寺山門

 

  • 興国寺は、由良町門前にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は「鷲峰山(じゅぶざん)」であり、「鷲峰山興国寺」が正式名称であるが、地元では興国寺の別称として「開山(かいざん)」の名を用いることが多い(最寄りの中紀バス停留所の名称も「開山」である)

 

  • 興国寺では 「開山」とは寺院そのものの名称として用いられるが、一般的に寺院の「開山」とは寺院を創始することを指し、転じて寺院を開創した僧侶を意味することもある。興国寺の場合、興国寺の前身となる西方寺創始者願性葛山五郎景倫)であるが、「開山第一世」と位置付けられているのは心地覚心(しんちかくしん 法燈国師である。この経緯及び興国寺の詳細については、別項「天狗の建てた寺 ~由良町門前~」で解説している。
    天狗の建てた寺 ~由良町門前~ - 生石高原の麓から

 

  • 安政元年に発生した大地震とは、江戸時代後期の嘉永7/安政元年11月5日(旧暦 新暦では1854年12月24日)に発生した「安政南海地震」を指すものと思われる。その前日には「安政東海地震」が発生しており、この二つの地震は伊豆から四国までの広範な地帯に甚大な被害をもたらした。「由良町地域防災計画 資料編(令和2年3月 由良町防災会議)」では、この両地震による被害について、次のように記載している(資料中の日付は新暦)。

資料1-1 由良町周辺における被害地震
(抜粋)

安政東海地震 東海・東山・南海諸道
1854(嘉永7)年12月23日 M=8.4 東経137.8゜,北緯34.0゜

被害区域は、関東から近畿に及ぶ。有感範囲は、東北から、九州東北半に及ぶ。伊勢、 三河、 若狭越前、土佐、伊豆等に被害は及ぶ。全国では、倒壊、流失家屋数8300、焼失300、死者1000という。

安政南海地震 畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道
1854(嘉永7)年12月24日 M=8.4 東経135.0゜,北緯33.0゜
この地震は、前の地震の32時間後に起きた。被害は、南海、西海、山陽、山陰に及び、高知にては、火災を起こし、2500戸を焼失、徳島においては、1000戸を焼失した。震源近くでは震害と浪害の区別がつきにくい。
紀伊田辺領で潰255、流失532、焼失441、土蔵焼失264、寺焼失3、死24といい、津波は4回押し寄せ第3波が最大。和歌山領(勢州領分も含む)で潰・破損家1万8,086、流失8,496、焼失24、流死699、山崩れ216カ所であった。広村は戸数399のうち125流失、10潰、46半潰、158汐入破損し、人口1,323のうち、死36人であった。紀伊沿岸は、熊野以西で大半流失した村々が多かった。波高は串本で5丈(15m)、古座で3丈(9m)あった。
由良町においては、死者26人、家屋流失188軒、家屋破壊21軒の被害があり、津波波高は、網代礼状で約8.0m、横浜光専寺で約2.0mあった。

由良町地域防災計画について | 由良町

 

  • 本文の物語は、田辺市出身の教育者・那須晴次氏の著作「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」において次のように紹介されている。この文中では、安政元年の大地震及び大津波が発生した時刻を「子の刻(概ね午後11時頃から午前1時頃)」としているが、記録によれば安政南海地震の発生時刻は午後4時半頃とされており、史実とは齟齬が生じていると考えざるを得ない。しかしながら、この地震の発生日が新暦太陽暦)の12月24日であったことを考えると、津波が発生した頃には既に日が暮れて暗闇となっていたことは想像に難くなく、燈火による避難誘導が極めて重要であったことは言うまでもない。
    安政南海地震 - Wikipedia

開山の天狗(由良)
 由良の開山の森には古来天狗が居ると伝えられて居る。安政元年の大地震及び大津浪は丁度闇夜の子刻で咫尺を弁じない(筆者注:しせきをべんじない 「視界がきかず、ごく近い距離でも見分けがつかない」との意)という暗さであったのに この山に凡そ畳一枚ほどの燈火が二つともったので山影の所まで明晃々々と照らされ人々の避難にはまことに好都合であった。これは全く天狗の所為であったのだということである。
※読みやすさを考慮し、漢字及びひらがなを現代の表記にあらためた

 

 

  • 和歌山県立博物館では、平成29年(2017)に『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝えるⅢ -命と文化遺産とを守るために- 【由良町印南町】』という冊子を作成した。これは、同博物館が実施した「災害の記憶」発掘と文化遺産所在確認調査の成果の一部を取りまとめたものである。これには、安政南海地震の際に横浜村(現在の由良町横浜)に住んでいた毛綿屋平兵衛という人物が書き記した津波の記録の一部を現代語に訳したものが掲載されているので、ここに引用する。

 さてまた翌11月5日午後5時ごろ急に土けむりが吹いてきたかと思うと、大大地震が揺れだした。
まるで大地をひっくり返すかのように、家の壁や塀や屋根瓦を飛ばしながら大変長い時間揺れていた。
男も女も子供も(建物の倒壊の恐れのない)広場にみんな寄り集まった。
地震の時は地割れが発生すると聞いていたので、板やたたみなどを敷いた。
泣き叫んでいる者の中には氏神の八幡様へ祈ったり、念仏を唱えたりと、全員生きた心地がしなかった。
そうした所へ、海の沖の方から大音響がドタンドタンドタンとしばらくの間鳴り響いてきた。
あれは雷の音だろうか、はたまた海が裂ける音かと怪しみ、ひょっとすると聞き伝えていた津波がやってくるのではとおののきながらも、余震の合間を見てはそれぞれの家財道具を移動させていた。
するとその内、早くも沖の方から大津波がまるで山のように、音もなんともたとえようがないほどに耳に響き、激しい勢いで水面が満ちてきたので、みんな泣き叫びながら、持っていた荷物を投げ捨て、命の限り逃げ走った。
足の速い者は里村まで逃げてゆき、遅い者は宇佐八幡神社の高みや東側の高み、宮山や北山などへ逃げ、ようやく命だけは助かり、危難から逃れた。
中でも横浜村だけでも死亡した男女が17人もいた。
家屋は約100軒あったうち80軒あまりが流され、17軒だけ残った。
この日の夜に余震がまた1回あり、その後も夜明けまで14〜15回揺れた。
津波は深夜0時までに7回やってきたが、夕方のものが一番大きなもので、それから段々小さくなっていったように見えた。

災害小冊子
小冊子『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝えるⅢ』

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。