漁を左右する大きな要素に、お天気の見きわめがある。「波はあっても、この風はおさまる」「いまはないでいるが、夜明けにはシケてくる」などという読みが大切なのだ。由良の漁師たちが、天性のように海の気候をピタリと当てられるのは、この地方に伝わる「お天気博士」のせいかも知れない。いまも、古老は真顔で話してくれる。
かつて由良に、天気を当てる名人がいた。噂が広まり、紀州の殿さまに江戸行きのお供を命じられた。ところが江戸ではさっぱり当たらない。たまりかねた殿さまが「どうしたのだ」と聞くと、男は「江戸には鍋山がない」と嘆いた。男は、由良の鍋山にかかる雲の具合いで判断していたのだ。いまも漁師の多くは、鍋山で天候を判断し、それがまたピタリと当るという。
お天気博士
むかし、由良に天気を見るのが上手な漁師がいたんやと。この男が「明日は雨や」というと、必ず雨が降ったし、「風が吹く」というと必ず吹いたんやとう。
あまり当るので、噂が高くなって、紀州の殿様が江戸へ行くときお供をする事になったんやとう。ところが、この男、江戸に着いてから天気予報をした所、さっぱり当たらない。「明日は天気や」というと雨が降り、「雨が降る」というと上天気でな、たまりかねたお殿様が、お付きの家来に「一体どうしたことだ」としかると、男はきまり悪そうに「そやけど江戸には鍋山(重山)がない」と答えたんやとう。男が由良に住んでいた時には糸谷の重山にかかる雲を見て天気を当てたのだが、江戸には目安にする重山がなかったという事である。
- 自然現象や生物の行動の様子などから天気の変化を予測することを「観天望気(かんてんぼうき)」と言う。また、広義では、漁師や船員などの経験則をもとにした、天候の変化を予測する「ことわざ」のような伝承を指す。和歌山海上保安部のWebサイトには管内各地に伝わる観天望気の一覧が掲載されており、由良地区に関して次のようなものが紹介されているが、残念ながら鍋山(重山)に関するものはない。
宵のしぐれは明日の凪
ヤマゼの波より人波怖い(南西の風の時、他人につられて出漁すると波が出て難儀する)
東曇れば雨になる
春、南の風でも吹けば寒い(暖かい南の風でも、吹けば注意せよ)
マゼと物貰いは晩になるほど張ってくる(南風は晩になるほど強くなる)
春の宵焼けは蓑着て構えよ(春の夕焼けの翌日は雨が降り天気が悪い)
春から秋、淡路島に帽子がかぶればマゼが吹く(淡路島の山に雲がかかると、南の風が吹く)
秋、朝焼けて直ぐにひけば天気が悪い
秋の宵焼けは鎌を研いで構えよ(秋の夕焼けの翌日はよい天気になる)
秋から冬、朝のしぐれは風そばえ(秋から冬にかけて、朝しぐれると風が強くなる)
冬、日暮れに四国に黒い雲がかかれば北風が吹く(夕暮れに徳島方面に黒い雲がかかれば、翌日北風が吹く)
高野に雲が飛べば明日も風(高野山方面に雲が動けば、翌日西の風が吹く)
ヤマゼかわせの西怖い(南西から変わって吹く西風は強く怖い)
https://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/wakayama/umi/kanten.html
- 鍋山は別名「重山(かさねやま)」といい、円錐形の整った形をしていることから「由良富士」と呼ばれることもある。山頂付近からは由良湾と紀伊水道を展望することができ、ハイキングコースも整備されている。国土地理院の地図や観光パンフレットでは「重山」と表記されているが、三角点(二等)は「基準点名 鍋山 標高262.61m 基準点コード5035-70-5701」である。
重山 - Wikipedia
- 重山の山頂には、通称「重山観音(かさねやまかんのん)」と呼ばれる「白雲山海宝寺」がある。かつては西国三十三所の札所にも選ばれようかというほどの大寺であったが、和尚が朝寝坊をしたことから札所の選に漏れたため「朝寝山(あさねやま)」の名が付き、これが転じて「重山(かさねやま)」と呼ばれるようになったとの伝承がある。これについて、同寺に由良町教育委員会が設置した説明板には、次のように記載されている。
史跡 重山観音(かさねやまかんのん)
(白雲山海宝寺)
この寺は昔、もっと山麓にあったようで、平安時代天台宗二世慈覚(じかく)大師(円仁 えんにん)が阿蘇山よりの帰途、暴風雨にあい由良港に難をさけ、薬師如来を本尊として海宝寺(かいほうじ)を建てたといわれています。
哲仙(てっせん)和尚が西国三十三番の札所(ふだしょ)を決める日に朝寝坊して札所からもれ、朝寝(あさね)山がなまっていつしか重山(かさねやま 加実山)と、呼ばれるようになったといい伝えられています。
本堂の横手には室町時代か、もっと古い五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残されて昔の大寺が偲ばれます。
昭和五十五年一月
由良町教育委員会
- 重山観音を創建したと伝えられる円仁(えんにん、794 - 864)は、平安時代初期の天台宗の高僧。15歳で比叡山延暦寺に上り、最澄に師事する。最澄の没後、最後の遣唐使船で唐に留学するが天台山での修業は認められず、幾多の困難を経た後、多数の経典や曼荼羅等を得て帰国した。帰国後、61歳で第3代天台座主(前述の由良町教委設置の説明板では「天台宗二世」とされているが、正しくは「第三世座主」である)となった円仁は天台宗の密教化を推進し、積極的に天皇や貴族らに結縁灌頂や授戒などの儀式を行って天台宗の教勢伸張を図った。この成果もあり、円仁の死没から2年後の貞観8年(866)、清和天皇から円仁に「慈覚大師」の諡号(しごう、おくりな)が贈られた(同時に最澄にも「伝教大師」が贈られている)。これが最初の大師号であるとされ、3人目となる空海に醍醐天皇から「弘法大師」号が贈られたのはそれより55年後の延喜21年(921)、空海入滅(835)から86年後のことであった。
- 円仁は各地で積極的に寺院の開基や再興をすすめたことでも知られ、一説では円仁ゆかりの寺院は浅草の浅草寺、平泉中尊寺など関東に209寺、東北に331寺余あるとされる(Wikipedia「円仁」の項参照)。西日本には比較的少ないとのことであるが、この重山観音の創建にまつわる物語は、こうした円仁ゆかりの伝承のひとつと考えられる。
- 紀美野町の釜滝薬師金剛寺も円仁が創建したものと伝えられる。これについては、別項「べんずりさん」において詳述している。
べんずりさん ~野上町(現紀美野町)釜滝~ - 生石高原の麓から
- 由良町教育委員会が設置した説明板では円仁が熊本県の阿蘇山からの帰途に由良へ立ち寄ったと読めるが、以下にあるように東日本にも円仁に深く関連する「あそ」の地名が複数存在していることから、これらとの混同が起きた可能性も考えられるのではないか。
円仁誕生の地 - Wikipedia
安蘇山麓手洗窪(あそさんろく たらいくぼ/てあらいくぼ)
現在の栃木市岩舟町下津原で、円仁が誕生した場所(他説あり)と伝えられる。かつては下野国安蘇郡に属し、この地にある三毳山(みかもやま)は安蘇山(あそさん)とも呼ばれる
出羽国最上郡阿蘇郷(でわのくに もがみこおり あそのごう)
現在の山形市及び天童市を流れる立谷川(たちやがわ)の周辺地域で、円仁が開山したと伝えられる立石寺(りっしゃくじ 山寺(やまでら)とも称される)が所在する。無料辞書サイト「JLogos」に収載されている「角川日本地名大辞典(旧地名編)KADOKAWA」によると、
「立谷川の古名は阿蘇川であったこと,山寺立石寺も創建当時は阿蘇川院と称されていたこと(河北町の歴史),宝光院知行地の七浦・漆山(現山形市)を阿蘇郷成生荘の内としていたこと(山形市史上)などより推して,阿蘇郷を立谷川流域の扇状地に比定することが可能と思われる」
とされており、立石寺の所在地もまた「阿蘇」であったことがわかる。
解説ページ
- 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)」では、観世音菩薩が衆生を救うときに33の姿に変化すると説かれており、これに基づいて33の霊場を巡拝することにより、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。日本で最初の巡礼であり、令和元年(2019)度、文化庁により「1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜」として「日本遺産」に認定された。
西国三十三所
(略)
西国三十三所が巡礼路としての形を整えたのは,平安時代後期のことである。伝承によると,大和長谷寺の徳道上人,あるいは花山法皇が,仏道を求めて観音の霊場を一巡したことに始まるといわれる。三井園城寺の僧で,修験者として有名な行尊(1055-1135)が始めたとも伝えられるが,札所の寺を詳細に検討すると,創立年代が事実とあわない点から,これらの説を用いることはできない。むしろ,1161年(応保1)正月に三十三所を巡礼した後で記した,覚忠の《巡礼記》の記事は信頼するに足るもので,彼によって創始されたものと考えてよかろう。覚忠は,公家として有名な九条兼実と,天台座主で《愚管抄》を著した慈円を兄にもち,修験者としても注目された人物である。いずれにせよ,西国三十三所の観音霊場巡礼は,平安時代末期の12世紀ごろ成立したもので,コースは交通路などの関係で変更があったものの,霊場の寺はまったく変わることがなかった。
中尾 尭
【さいごくさんじゅうさんかしょ】とは・意味 | エキサイト辞書
- 通説となっている伝承によれば、33か所の霊場は徳道上人が地獄の閻魔大王から託宣を受けたものとされており、また花山法皇が33の札所と番外3か寺の全ての御詠歌をつくったとされている。前述の世界大百科事典にもあるとおり、これらの霊場の構成は最初から全く変わっていない(巡礼の順序はしばしば変わっている)ことから、一般的な伝承や資料に従う限り、本文の伝承にあるような「西国三十三番の札所を決める日」というような出来事は無かったと考えるのが適当であろう。
- 重山の麓にある由良港は古くから漁港として栄えたが、明治から昭和にかけては周辺でセメント原料となる石灰石の採掘が盛んに行われたことから海運の拠点となり、また、大阪湾の入口にあたるという立地特性から昭和14年(1939)には大日本帝国海軍の紀伊防備隊が設けられるなど、時代の変遷に伴ってその役割が変化してきた。現在では、船舶修繕を行う専門工場である由良ドック(旧:三井造船由良工場 現在は常石グループ傘下)や海上自衛隊由良基地などがある。
- 由良ドックは全長405メートル、幅65メートルという国内有数規模のドライドックを有し、入渠可能喫水も8.5メートルと深いことから、200m級の自動車運搬船が2隻同時に入渠しても双方が船尾ランプを開閉することができるなど、大型船への対応に強みを持っている。同社のWebサイトによると、1年間で約80~90隻の船舶の修理を施工しており、RORO船(ローロー船 フェリーのようにトレーラーが自走で乗船できる甲板を有し、クレーンなどを用いずに貨物の搭載/揚陸ができる貨物船)・カーフェリー・コンテナ船などのモーダルシフト(貨物輸送を、トラックから、より環境負荷の小さい船舶・鉄道輸送に転換すること)に貢献する船舶や、車両運搬船・貨物船・LNG船などの物資・エネルギーの輸送に貢献する船舶などの修理を行っているとのことである。
由良ドック株式会社 - YURA DOCK CO.,LTD. | SHIP REPAIR | 和歌山県中央上部の細長い長方形の水路部分が由良ドックのドライドック
- 由良基地は海上自衛隊呉地方隊阪神基地隊隷下に属し、由良基地分遣隊が配備されている。もともとは昭和14年(1939)に設置された大日本帝国海軍紀伊防備隊であったが、終戦により解隊された後、昭和27年(1952)に保安庁警備隊大阪航路啓開隊本部由良基地となり、昭和29年(1954)に海上自衛隊由良基地となった(当時は大阪基地隊に所属)。昭和35年(1960)以降、神戸で建造される潜水艦の海上公試(船舶建造の最終段階で行う性能試験)等の支援を行っており、現在もしばしば由良湾では潜水艦の姿を見ることができる。
- 平成11年(1999)に講談社から出版され、平成17年(2005)には映画化もされた福井晴敏氏の小説「亡国のイージス」では、イージス艦「いそかぜ(架空)」が由良基地で海上訓練指導隊(実は某国工作員)を受け入れるところから物語が動いていく。
- 近年では、由良基地に訓練のため潜水艦「とうりゅう(基準排水量2,950トン)」が寄港し、またG20大阪サミット2019の際にミサイル艇「わかたか(基準排水量200トン)」が寄港しており、これらの様子が個人ブログ等でも紹介されているが、現実にイージス艦が由良基地に入港できるかどうかは不明である。
亡国のイージス - Wikipedia
潜水艦「とうりゅう」由良基地入港 2020/10/2 : すーさんの艦活日記
27日の由良基地 | 紀北エアーシステム - ちなみに、和歌山県内には次のとおり陸上、海上、航空の各自衛隊の駐屯地・基地が所在しており、このうち2つが日高郡に所在する。
陸上自衛隊和歌山駐屯地(日高郡美浜町大字和田)
海上自衛隊由良基地(日高郡由良町大字阿戸)
航空自衛隊串本分屯基地(東牟婁郡串本町須江)
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。